22
ブランドもの、多かったからなぁ……。
数日後、手元に入った金額を見て実咲は驚いていた。いくら元が高かったとはいえ、売り捌くと端金にしかならないと思っていたのに、実際は結構な金額になったのだ。
引っ越し費用のほとんどを賄えるぐらいには。
始めは捨てようかとも思っていたが、全て無駄になったのかと思うと癪に障るから、売って生活の足しにした方がよっぽど賢いと考え直した結果だった。
でも。
と、実咲は自嘲する。
元々の金額考えると、端金か……。
一体いくらつぎ込んでいたかなんて、考えたくもなかった。
ここ数日で一気に部屋の中がガランとしていた。
雅貴と別れた実感がわいてきて、一瞬胸が痛んだが、せいせいしたと自分を笑いとばして終わらせた。
化粧品は売り飛ばせないから、誰か友達にでもあげようか。
チークも、アイシャドウもこんなにたくさんいらない。冠婚葬祭用にでもおとなしいのを一つおいておけばそれでいい。
だいたい、ごちゃごちゃ毎日化粧するのも面倒なのよね。ファンデーションと、口紅が一つあれば十分。あ、でも、この顔じゃ、アイブローもいるか。
鏡に向かって、すっぴんのまま前髪をちょいとあげてみる。作りすぎてあまり残っていない眉が出てきた。
眉も、もうここまで作り込むことはなくなるだろう。
部屋の中を精一杯片付けて、首に掛けてあるタオルで汗をぬぐう。
冷蔵庫からペットのお茶を取り出すと、そのままどさっと床に座って、グビグビと飲んだ。
そして、そんな自分に、ぷっと吹き出す。
このところ、こんな事したことがなかった。
雅貴は、かわいい、きれいな子が好きだったしね。私は自分で作った「いい女」のイメージ通りに、自分を演じていたから。
思い返すと、苦い笑みがこみ上げてくる。だいたい、こんな姿もこの一年間した覚えがない。高校時代の体操服のジャージに、使い古したTシャツ。
元々は、汚しても気軽に洗濯機を回せるような、こんな服が好きだった。
そうそう、こういうのが、ホントは楽なんだよ。
わずかなむなしさを覚えつつも、それでも無理矢理に笑いながら、ペットボトルを下にトンと置く。
明後日にはここを引っ越す。短期間で探したにしてはいい部屋が見つかった。
捨てられるものは全部捨てていく。携帯も変える。そしてこの部屋ともお別れ。
連絡さえ取らなければ、雅貴と会う機会なんてほとんどない。営業で来ても対応は同僚や先輩がほとんどするから、顔をまともに合わせずにすむ。
これで、ホントに、おしまい。
「実咲ちゃん、最近メイク変えたわね。ナチュラル志向?」
仕事の帰り際、先輩に声をかけられ、実咲は顔を上げた。
「なんかあった? 最近、ちょっといい顔してる」
からかう口調に、実咲は思わず笑った。
「ありましたよ。彼と、別れました」
笑って誤魔化さなかったのは、誰かに言ってしまいたい気持ちがあったのだろう。そして、実咲自身、口に出して笑い飛ばして、何でもないことにしてしまいたかったのかもしれない。
上手く笑えているかどうか微妙だったが、それでもすっきりした気持ちが、表に出ていたらしい。だとしたら、きっと、良い事なのだろう。別れた苦しさがまだ胸を刺すが、気付かないふりをして実咲は笑う。
「……別れたぁ? 逆かと思ったのに」
ごめんね、と慌てる彼女に、実咲は首を横に振る。
「そっかぁ。実咲ちゃんてさ、ほら、以前はあんまりメイクとか気にしてなかったじゃない? きちんとはしてるし、清潔感とかはもちろんあったけど、あんまり女の子って感じじゃなくって。でも、それが、なんか思ってたのと違う方向に綺麗になっていったなぁ~って思ってたんだけど、まあ、かわいいし、良い傾向かなって思ってたのよ。私、かわいい子好きだしね! ちょっと化粧濃かったけど。そっかー。彼氏の影響だったのね。んー、でも、ナチュラルメイクって、実咲ちゃんっぽいよね。なんか、良い感じで元に戻った」
先輩はにこっと笑って実咲をまっすぐに見つめる。
「そうですか?」
ちょっと気を使っているのか、いつもより早口になっている彼女に、実咲はクスクスと笑いながら、「ありがとうございます」と礼を言った。
何も事情を知らない彼女のフォローと褒め言葉との入り交じった言葉が、今の実咲には心地よく、これで良かったんだと思えて、ほんの少し救われる思いがした。
けれど、
「でも、女捨てちゃダメよ!」
そう続けられた言葉に、実咲は一瞬ドキリとする。
元の生活に戻るつもりだった。戻そうとがんばっていた。それを指摘されたように感じたのだ。
「確かに、この前までの実咲ちゃんは、ちょっと派手で、実咲ちゃんっぽくなかった。でもね、すごくかわいかったから。もっと実咲ちゃんらしいかわいらしさってあると思うから。元に戻るんじゃなくって、せっかくがんばって綺麗になったのを、踏み台にしちゃわないと。もったいないわよ」
「……考えたこと、なかったです」
実咲は彼女を見ながら、思いがけない言葉に軽い衝撃を覚えていた。
言われてみれば、そうかもしれない。元に戻ったけど、以前よりメイクは丁寧にするようになっているし、何をするにしても、シンプルでも、ちょっと女性らしさを取り入れるのは楽しいと思った。
雅貴のためだけに、雅貴の好み通りになろうとしていたけど、その中にも、自分の好きな物だってあった。
そっか。なかったことには、できないんだ。
彼女に指摘されたことが、すとんと胸の中に落ちてくるようだった。
そして、なかったことにしたらいけない。
うん、全部捨てるんじゃなくって、苦しくて捨てたいと思った物の中にだって、きっとそこには私の得た物だってあって。
考え込んだ実咲に、芝居めいた口調と動きで、びしっと指を指して彼女が言う。
「で、もっと綺麗になって、また、いい男、捕まえなさい。今度は、実咲ちゃんが、実咲ちゃんらしくつきあえる相手をね」
「はい」
悪戯っぽく笑って話を切り上げた彼女に、実咲は笑って頷いた。
軽く話を済ませたい実咲に合わせてくれたのが分かった。その気遣いに感謝しながら、彼女に別れを告げ会社を出る。
そんな会社からの帰り道は、いつもより少しだけ心が軽かった。彼女との思いがけない会話は、実咲にほんの少しだけ、自分で考えるのとは違う前向きな気持ちを運んでくれた。
雅貴を思っていた自分を切り離そうと思っていた。なかったことにして、全部元に戻そうと。でも、そうじゃなくって、そういうの、全部踏み台にして「いい女」にならないと、雅貴のことを乗り越えられないのかもしれない。
そうね。せっかくだから、踏み台にしてやろうじゃない。
そう思うと、ちょっと楽しくて、実咲の気分は、少しだけ上昇した。
雅貴に別れを告げて、二週間ほど経っていた。
苦しさから逃げるように物を売り払い、身軽になって慌ただしく引っ越しをした。
たくさん泣いたけれど、それ以上に慌ただしさが、泣く時間を減してくれた。
心機一転、というには、雅貴を思う気持ちを捨てきれずにいたが、それでも、だいぶ気持ちの方は落ち着いていた。
その頃になって、ようやく、凉子と話をする覚悟が出来ていた。
別れたことも、引っ越したことも、まだ凉子に話していなかった。
凉子に会ってしまえば、きっと泣いて、愚痴ばかりで、心配だけかけるだろうと思うと、とてもではないが話す気になれなかった。きっと凉子の優しさに甘えて、どこまでも自分は落ち込んでしまう、実咲はそんなふうに悲しみに浸るのは辛すぎて、避けたかった。
実咲の様子がおかしいことに気付いていただろうに、凉子は何も口を出さず、実咲が話しをするのを待っていてくれた。
そして新居に呼んだ凉子と、ようやく実咲は向かい合っていた。見守ってくれていた彼女への感謝を胸に、実咲は遅い報告をすると、凉子が静かに頷いた。
「そっか。やっぱり、別れたんだ」
確認するようにつぶやいた涼子に、実咲は「うん」と、小さく頷く。
全部話し終えた実咲はようやく一息つき、コーヒーを一口飲んだ。
涼子は新しい部屋を、ぐるっと見渡し、もう一度実咲を見つめた。
「いろいろ、すっきりしたよ」
あははと声を上げて笑う実咲を涼子が探るように見つめる。
「……大丈夫? 無理に笑ってない?」
実咲は笑顔のまま息を吐き、うなずいた。
「ちょっと無理してる。でもさ、笑えるくらいにすっきりしたのも、ホント。分かってたけどさ、やっぱり、一緒にいるの結構きつかったんだよね。好きだけじゃ、ダメだね」
笑顔に苦みがさすと、涼子の方が泣きそうな顔になった。
「あんたがいるのに、浮気するなんて、ホントに馬鹿よね。実咲の良さがわかんないような男に、実咲は絶対もったいない」
他人事と言っていたくせに怒りをあらわに怒鳴る友人の姿に、胸が暖かくなる。
いいな。友達っていいよな。
実咲はわき上がる気持ちを噛み締める。
雅貴のことばっかり考えて、周りを見てなかったのに、それでもこうして友人としてそばにいてくれたありがたさ。
うれしさを噛み締めていると、にやけている実咲を叱りつけるように涼子が強い口調で言った。
「実咲も、もっと怒りなよ。いっつもそんなになんでもないふりしてさ、溜めたら辛いよ?」
そういえば、さっきから彼女ばかり怒って、実咲自身は静かにうなずいているだけだ。
そう思うと、実咲は思わず吹き出した。
涼子がむっとした様子で「聞いてるの?」と実咲をにらみつける。
実咲は笑いながらうなずく。こんな心境でいられることが、やけにすがすがしかった。
「そうだね。でもさ、私の分、涼子が怒ってくれてるし。涼子がそんな風に私のために怒ってくれるのってさ、雅貴への怒りとか忘れそうなぐらい、うれしいし。……ありがとう」
にやけながら言った実咲に、怒っていた様子の涼子がわずかにひるむ。
「なにクサイこと言ってんのよ」
涼子が実咲のほっぺをぐにっと伸ばす。実咲から少し目をそらしたその顔が、耳まで赤くなっている。
「実咲、あんた、人がよすぎだよ」
実咲は頬を引っ張るその手を振り払うと、にやにやと照れた涼子を見つめながら言い返す。
「人がいいのは、涼子でしょ」
「あんたよ」
「涼子だってば」
口げんかのフリして言い合いながら、ちょっと涙が出た。うれしくて。こんな友達持ってるだけでも、私は幸せだなぁって、本気で感動して。
くだらない言い合いに、二人で笑いながら、にじんだ涙をぬぐう。
実咲は涼子と笑い合いながら、彼の面影を思い出した。
雅貴、あんたがいなくても、私はやっていけるよ。