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この時はまだ思いがけなく気の合う友達を見つけたような気分でしかなかった。
それからしばらくは、たまに言葉を交わすぐらいの会社に顔を出す営業さんにすぎなかった。
けれど、実咲が机の上に置きっぱなしにしていた本がきっかけで、本と音楽の趣味で意気投合し、それ以外にも話が合ったりといったところで、恋愛対象としてではなく、友達として急激に親しくなっていった。
冗談半分にしかきいていなかったナビ設置も、親しくなったことで結局本当に雅貴に頼んでやってもらうことになった。
というよりも雅貴がナビ設置に乗り気で、自分の趣味を実咲の車に乗せて楽しんでいたというのが正しかったのだが。
気の合う男友達ができて楽しかった。
ナビ設置や、本やCDの貸し借りをする内に雅貴の友達とも親しくなったほどだった。
完全な友人としての付き合いしかなかったし、一年以上もの間、実咲にとって雅貴は気の合う男友達でしかなかった。
それが、どうしてこんな風になっちゃうのかなぁ。
実咲は思い出しながら苦笑した。
そう、あの頃は楽しかったのだ。あの頃の気持ちのまま、友達として付き合っていけていたのなら、こんな辛い思いをせずにすんだのに。
女癖が悪すぎと笑いながら、雅貴をこづいて彼を好きなままでいられたのに。
出会ったのは二年ほど前の出来事だった。実咲にはたった二年で、自分の中の何もかもが変わってしまったように思えた。
けれど雅貴は何一つ変わっていない。出会った頃のままなのに。
変わったのは、私自身。
二年前と同じような状況に、今実咲はいた。
実咲のアパートの駐車場で、実咲の車に犬を抱いて乗り込む雅貴。
状況は同じなのに、あの頃との気持ちの違いが、実咲の胸に突き刺さった。
あのときは楽しかったのに。
今は雅貴が側にいることに、実咲の胸の中に幸せと苦痛が同居している。
「おまえ、頼むから車でお漏らしすんなよ」
雅貴が子犬に話しかける。
子犬はぱたぱたとしっぽを振って、雅貴の指をぺろぺろとなめている。
楽しそうに雅貴が笑っていた。
その姿が愛しくて、こみ上げてくる幸福感。そして苦痛。
実咲はそれらから目をそらし、からかいを含んだ声ですごんでみせた。
「もしもの時は、雅貴が責任もってちゃんと自分の体で受け止めてね」
にやりと笑う実咲に、雅貴が神妙な面持ちで頭を下げた。
「……すみません、バスタオルを貸して下さい」
殊勝な態度に、実咲は鷹揚に頷いて見せると、顔を見合わせて二人で笑った。
実咲はとってきたバスタオルを渡すと、運転席に乗り込んだ。
運転をしながら雅貴を盗み見る。
今のような穏やかな表情を見るのは久しぶりだった。
最近はまともに会話したことがなかったのだと気がつく。バカみたいに、出会えばセックスをしていた。
セックスは気持ちが良い。体だけでなく、心が。不安な気持ちや苦しい気持ちをごまかしてくれる。素肌が触れれば側にいる実感を満たしてくれる。自分が雅貴にとって一番近い存在だと勘違いさせてくれる。快感が考える事を放棄させてくれる。だから、バカみたいに体を求め、体だけを求めてくる雅貴に応えた。
今、子犬に向ける穏やかな雅貴の表情を見て、セックスの気持ちよさを求める事の無意味さを、突きつけられる思いだった。
セックスに雅貴の心はない。
小犬を見つめる雅貴の優しいまなざしに、実咲は現実を痛感した。
穏やかな雅貴の表情は愛しすぎて、腹立たしいほどに切なさをつもらせる。
ハンドルを握る実咲の手に力がこもる。
これ以上、彼を盗み見るのはやめようと思った。
動揺して、手元が狂いかねないと思った。前を真剣に見ているのに、集中して運転をしようとしているのに、実咲の頭の中は、どこか他人事のように白々しくふわふわと景色が流れていく。人が飛び出してきても、とっさに動けないかもしれないと思えるほどに、運転に集中できずにいる自分を感じていた。
運転に集中しようとしているのに、実咲の頭の中は隙あらば雅貴のことを考えようとする。
運転に集中しないと、そう思いながらも以前雅貴の家で飼われていた老犬が死んだときのことが実咲の脳裏をよぎった。
「犬は人より先に死んでしまうからな」
あの時、雅貴がそう言って悲しそうに微笑んだ。
その表情が浮かんで離れない。
小学生の頃拾ってきて初めて飼った犬だったと話してくれた。
母親は犬が好きで、母に教わりながら二人で育てたのだと。その後、母親が病気でなくなり、母の言ったことを思い出しながら、一人で世話を続けていたと話した。
「母が亡くなってからは、こいつがいたから、だいぶ救われたよ」
そう、愛おしそうに、命が尽きた老犬を撫でていた。
雅貴が犬に向ける笑顔は、いつでも優しい。
あの頃は私と話す時もそんな笑顔をしていたのに、と実咲は思い出した。
裏のない、好意が裏打ちされた笑顔。
思い返すと、雅貴が自分に向ける表情に違いがあることがわかり、愕然とした。
雅貴の犬に向けるような笑顔が、私に向けるものとは違うと感じるようになったのはいつ頃からだっただろう。
実咲は考える。笑顔なのに。同じ笑顔であるはずなのに、この子犬達に向ける笑顔は優しく、実咲を含め女性に向ける笑顔が軽薄に見えるようになってしまっていた。
子犬に向ける優しい笑顔。「先に死んでしまうから」そう言って悲しげに笑ったその情の深さ。
一度でもあっただろうか。付き合っていた女性と別れてあれほど悲しそうに微笑んだことなんて。
雅貴はいつでも女性と別れるたび何事もなかったように笑っていた。
きっと私と別れても、同じように笑っているのだだろう。
そう思った瞬間、たとえようのない悲しみが実咲の胸をしめた。
おまえはいいね。雅貴に優しくされて。きっとこれからも大切にしてもらえる。
雅貴の腕の中にいる子犬に、実咲は心の中でそっと話しかけた。