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杜陵遺誡録 ~【1話完結】日常を侵食するルール系ショートホラー~  作者: ぐるぐる


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011_付属演習林における視認対象の不一致事案

二〇〇八年七月二十八日の夕方。


僕――佐々木ダイチは、杜陵大学の農学研究科に通う修士一年の院生だ。

学部生たちが夏休みに入ってキャンパスから姿を消しても、僕たち院生に休みはない。


その日も、同期の山根ミオと一緒に、杜陵市の隣村にある大学付属の演習林へ朝から入り込んでいた。

村といっても集落ではなく、行政単位としての村だ。

幹線道路が通る中心部にはパチンコ屋や全国チェーンの飲食店がいくつも並び、それなりに栄えている。


だが、車で山道を二十分も登った先にある演習林の周辺には、街の喧騒など微塵も届かない。

鬱蒼としたスギやアカマツの巨木が日の光を遮り、そのまま奥羽山脈の深い山奥へと続いている。


夕方の五時を回り、森の奥からカナカナとヒグラシの鳴き声が山鳴りのように降り注いでいた。

昼間の蒸し暑さが嘘のように、沢の方から川底の泥と青臭い草の匂いを含んだ冷気がじっとりと這い上がってくる。


泥だらけの作業着の袖で額の汗を拭い、僕は調査機材をライトバンの荷台へ積み込んでいた。

最後のプラスチックケースを押し込み、バックドアに手をかけた、その時だった。


ふと、砂利敷きの駐車場の先――薄暗い林道の脇に、何かがうずくまっているのが見えた。


目を凝らす。

鬱蒼とした下草の影に、若い女が膝を抱えてへたり込んでいた。

こんな山の中にはおよそ場違いな、真っ白なノースリーブのワンピースを着ている。


「……おい、山根。あそこに誰かいるぞ」


助手席側で記録バインダーを片付けていた山根に声をかけた。

「遭難か? なんか白いワンピースの女が座り込んでるんだけど」


山根が怪訝そうに顔を上げ、僕が指差した林の奥に目を向けた。

数秒ほどじっと見つめたあと、山根は眉をひそめて僕を見た。


「え? 何言ってんの、じいさんでしょ」


「は?」


「蛍光オレンジの派手なチョッキ着た、猟友会のおじいちゃんじゃない。猟友会が来るなんて聞いてないけど…」


僕はもう一度、林の奥を見た。

何度瞬きをしても、そこには白いワンピース姿の若い女しかいない。

オレンジ色のチョッキなど、どこにも見えなかった。


「いや……どう見ても若い女だって。白い服の」


「だから、おもいっきりオレンジのチョッキだってば。佐々木くん、暑さでやられたんじゃないの?」


山根の声から、次第に冗談めいた響きが消えていく。

僕と山根は、薄暗い木立の前でゆっくりと顔を見合わせた。


農学研究科の院生なら、誰もが先輩から一度は聞かされる演習林の妙な申し送りがある。


――演習林で和服姿の異性に出会っても、絶対について行くな。助けるな。

――かといって、無視をするな。


背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走った。

言葉を交わすよりも早く、僕たちは弾かれたようにライトバンのドアを開け、車内に転がり込んだ。


震える手でキーを回し、アクセルを強く踏み込む。

砂利を激しく跳ね上げながら林道を駆け下り、バックミラーを見る余裕もないまま演習林のゲートを飛び出した。


しばらく無言で山道を下り、村の中心部にあるチェーン店の明るい看板が見えてきたところで、ようやく強張っていた肩の力が抜けた。

エアコンの風量を上げても、車内の重苦しい湿気はなかなか消えなかった。


「……なあ」


ハンドルを握ったまま、僕は乾いた唇を開いた。


「あれ、和服じゃなかったよな」


助手席の山根は、膝の上で強く拳を握りしめたまま、小さく頷いた。


「うん。でも……あたしたち、お互いに『異性』が見えてたよね」


*


翌日の火曜日、昼下がり。

夏休みに入ったサークル棟は人の気配がなく、コンクリートの廊下には湿度を含んだ熱い空気が澱んでいた。


古びた軽音部室のパイプ椅子に座り、私――及川ヒカリは、使い込まれた分厚いノートパソコンのキーボードを叩いていた。


不意にスチールの扉がノックされ、ゆっくりと開いた。

顔を覗かせたのは、今年の春に学部を卒業して大学院へ進んだ、軽音部の先輩である山根ミオだった。

その後ろには、見知らぬ長身の男子学生が、ひどく青ざめた顔で立っている。


「……山根先輩。どうしたんですか、夏休みに」


画面から視線を外さずに尋ねると、山根先輩はぎこちない笑みを浮かべて中へ入ってきた。


「ごめんね、及川さん。作業中に。こっちは同じ農学研究科の佐々木くん。……ちょっと、どうしてもあなたに聞いてほしいことがあって」


山根先輩に促され、佐々木と呼ばれた院生が、昨日の夕方に演習林で起きたという出来事を語り始めた。

林の奥にうずくまっていた人物が、佐々木には白いワンピースの女に見え、山根先輩には蛍光オレンジのチョッキを着た老人にしか見えなかったこと。

そして、農学研究科に伝わる「和服姿の異性」に関する申し送りのこと。


私はタイピングの手を止め、机の脇に積んであった古い大学ノート『杜陵遺誡録』の一冊を引き寄せた。

昭和五十年代のページをめくると、演習林の境界域に関する似たような記述がいくつか残されている。


時代によって、目撃される服装は着物だったり、登山服だったり、街着だったりとバラバラだ。

共通しているのは、見た人間が「思わず声をかけたくなるような異性」の姿をとることだけ。


私はノートを閉じ、パイプ椅子の背もたれに体重を預けて二人を見上げた。


「……それで。逃げる前に、挨拶はしましたか」


私の問いかけに、二人の動きがピタリと止まった。


「え……?」


佐々木が、掠れた声を漏らす。


「いや、だってお互いに見えてるものが違ったから、気味が悪くて……そのまま車に乗って」


「つまり、挨拶もせずに逃げたんですね」


私は小さく息を吐いた。


「申し送りにあったでしょう。『無視をするな』って。こっちの存在に気づいているのに、目も合わせず声もかけずに立ち去れば、向こうは『無視された』と認識します」


山根先輩の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。


「じゃあ、あたしたち……どうすれば」


「もう演習林に行かないのが一番ですけど。……院生なら、そういうわけにもいかないんですよね」


二人は揃って、力なく頷いた。


「だったら、次に演習林でそいつを見かけた時は、必ず挨拶をしてください」


私は二人の目を交互に見据え、冷たく言い渡した。


「『こんにちは』でも『お疲れ様です』でも、何でもいいです。そこに普通の人間がいるのと同じように、一言だけ挨拶をして通り過ぎること。……ただし、向こうが何か言ってきても、絶対に足を止めて深く会話をしたり、ついて行ったりしないように。いいですか、挨拶だけして、すぐにその場を離れてください」


*


木曜日の午前十時。

演習林に行かないという選択肢を取ることができない僕と山根は、重苦しい空気を抱えたまま、再び山へ入っていった。


ただ、二人きりになるのだけは避けたかった。

その日は技術職員や学部の実習生たちも参加する、林道周辺の下草刈りと枝打ちの合同作業日だった。

これだけ人がいれば大丈夫だろうと、自分に言い聞かせるしかなかった。


僕は斜面の下草を刈る班に割り振られ、一人黙々と刈払機を動かしていた。

エンジンの甲高い駆動音と、切り裂かれた夏草の青臭い匂いが周囲に立ち込める。


しばらく作業を続けていた時だった。


視界の端――暗いスギの木立の隙間に、チラチラと白い布のようなものが揺れた気がした。


心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

気のせいだと念じ、手元の草だけに意識を集中させる。


だが、その白い影は木々の間を縫うようにして、確実にこちらへ近づいてきていた。


刈払機のエンジン音が、まるで水の中に潜ったように遠くくぐもっていく。

真夏の作業中で汗だくのはずなのに、首筋に氷を押し当てられたような冷たい圧迫感がじわじわと迫ってくる。


見ないように顔を伏せ、必死に歯を食いしばった。

しかし、すぐ目の前の草むらがサァッと音を立てて揺れた瞬間、恐怖に耐えきれず顔を跳ね上げてしまった。


手が届くほどの距離に、真っ白なワンピースの女が立っていた。


濡れたようにしなやかな髪の隙間から、微笑みながら僕を見ていた。


『必ず挨拶をしなさい』


及川の言葉が脳裏にフラッシュバックする。


「お、おはようございますっ!」


僕は裏返った大声で叫び、刈払機を手放してその場に腰を抜かした。


「ごきげんよう」


彼女は腰を抜かした僕に気を取られることもなく、そのまま通り過ぎていったのだった。


*


少し離れた区画でナタを振るい、低い枝を落としていた山根は、林の向こうから佐々木の叫び声が聞こえた気がして手を止めた。


「……佐々木くん?」


額の汗を拭い、周囲を見回す。


そこで、山根は異変に気づいた。


さっきまであちこちから響いていたはずの刈払機のエンジン音も、職員や学部生たちの話し声も、すべて消え失せている。

薄暗いスギ林には、不気味なほどの静寂だけが満ちていた。


「え……みんな、どこ?」


心細さに駆られ、山根は林道を歩き出した。

湿った腐葉土を踏む自分の長靴の音だけが、やけに大きく耳につく。


しばらく辺りを彷徨っていると、太いアカマツの根元に、誰かがぽつんと座り込んでいるのが見えた。


小さな男の子だった。

半袖のシャツに半ズボン姿で、膝を抱えてうつむいている。


山根の足が止まった。


あれは、怪異なのか。

それとも、近くのキャンプ場や村から迷い込んだ、本物の遭難者なのか。


頭の中が激しく混乱する。

もし本物の子どもなら助けなければならないが、もし『あれ』だったとしたら。


だが、どちらにせよ、及川からは「絶対に無視をするな」と釘を差されている。


山根はゴクリと唾を飲み込み、いつでも逃げ出せるように半歩引きながら、震える声で呼びかけた。


「……こんにちは」


男の子が、ゆっくりと顔を上げた。


そして、しゃがれた年寄りの声で答えた。


「そうかい、子どもならいいのかい」


*


『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』


更新日:二〇〇八年八月一日


【事例022】付属演習林における視認対象の不一致事案


【症状】

本学付属演習林内において、遭遇者の性別や心理状態に応じ、異なる外見(異性、老人、児童など)として視認される存在が確認されている。

同一の対象であっても複数の観察者間で視認される容姿が一致しない点が特徴である。

視認した際にあからさまな無視や逃走を行うと、対象による追跡および接近を誘発する。

また、対象は遭遇者の反応を観測し、警戒を解くための外見を段階的に学習・変更している可能性が極めて高い。


【対処法】

遭遇した際は決して無視をせず、日常的な挨拶を一言のみ交わして速やかにその場を立ち去ること。

対象の意図が分からず、挨拶以上の会話、救助の試み、および対象への同行は厳禁とする。


【備考】

本学大学院生二名の遭遇事案において、再接触時に指示通りの挨拶を行ったものの、対象が「児童」の外見へと擬態を変化させる事象が発生した。

その後、山中にて激しく震えながらうずくまっている女子院生一名が大学職員により保護された。


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