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ヴィクトリア朝の特許事務所 ― 魔法の権利、保護します  作者: みんとす
第一章 魔法を特許庁に出した日
2/9

2. 取れない美しさより、取れる醜さ

 アラベラ・グレインジャーは、人の熱意を信用しないことで生きていた。


 リンカンズ・イン近くの細い通りにある事務所には、毎週のように「世界を変える発明」が運び込まれてくる。改良のつもりで配管を一本減らしただけの技師。錬金術の残骸を電気と呼び換えて売り込みに来る山師。新規性より声量の方が大きい男たち。


 それらを切り分け、削り、通る形に直す。あるいは捨てる。

 その仕事を彼女は上手くやっていた。上手くやるためには、依頼人の夢に酔わないことが第一だった。


 父は好人物だった。そして、好人物すぎた。

 新しい織機の送り機構を考えついては酒場で話し、薬液槽の安全弁を思いついては工場主へ先に見せ、結局は別名義で市場へ出るのを見送った。家は傾き、母は縫製でそれを支えた。

 だから彼女は弁理士になった。

 敗者の顔をこれ以上見たくなかったからだ。


 それでも、見てしまった。


 五年前、若い化学者が安全弁の発明を持ち込んできた。着想は本物だった。出願を引き受けた。だが企業が動き、化学者は出願を引っ込めざるを得なくなった。

 最後に事務所へ来た日の顔を覚えている。何かを言おうとして、言わなかった。口を開き、閉じ、帽子を取って出ていった。冬に死んだと聞いた。

 未亡人から来た手紙は、今も引き出しの奥にある。宛名のインクが一箇所、滲んでいた。開くことはない。だが捨てることもできない。



 フェアチャイルドの事前書簡を読んだときも、最初はふざけていると思った。


「魔法の出願可能性について相談したく」


 だがノートを開いた瞬間、その軽蔑は消えた。成功例より失敗例の方が多い。しかも失敗の理由が、感情ではなく誤差として刻まれている。美しいというより執念深い記録だった。


 この男は夢想家ではない。

 むしろ、夢のようなものへ手を突っ込んでしまったせいで、現実の悪意をまだ計算に入れていない学者だ。


「実演してください」とアラベラは言った。



 事務所の床でペーパーナイフが静かに浮いたとき、アラベラが最初に思ったのは、すごい、ではなかった。


 まずい。


 本物だからだ。

 本物は、必ず群がられる。


「誰に見せました」


「友人のブライスと、学内の技師一人」


「名前は」


「サミュエル・ソーベル」


 アラベラはその名を記憶した。


「いいですか、フェアチャイルド先生。今この瞬間から、あなたの敵は"無知"ではありません。"理解する前に名札を打つ人間"です」


 エドウィンは眉をひそめた。


「敵が書記官みたいだな」


「近代では、いちばん危険です」


 彼女はノートを閉じた。


「原理そのものは取りにくい。記述法だけでも弱い。取るべきは、特定の構成で安定して作用を起こす装置と、その装置を用いた方法です」


「理論の美しさが削がれる」


「取れない美しさより、取れる醜さです」


 エドウィンは露骨に不満そうな顔をした。

 アラベラはほとんど安心した。最初から従順な発明家はたいてい中身がない。



 その日のうちに、彼女はブライスとソーベルを事務所へ呼んだ。

 書記見習いの娘が扉を開け、二人を通し、椅子を引き、紅茶を運んだ。それからいつもの奥の机に戻った。


 登録簿に女の名はない。庁の窓口で書類を出せば、まず「代理の方ですか」と聞かれる。代理ではない。本人だ。その説明を、もう数え切れないほど繰り返してきた。だからこそ、紙の上の手続きだけは一分の隙もなく整える。


 出願前の実演内容を口外せず、自己のためにも第三者のためにも利用しない旨の、短い秘密保持の覚書だった。


「見せてもらう代わりに黙る、という取引ですかな」とソーベルは笑った。


「取引ではなく礼儀です。ただし紙に書いた礼儀です」


 ソーベルは肩をすくめて署名した。最後の一画を引く指がわずかに遅れた。


 ブライスは文面を読んでから、すぐに署名した。


「君の仕事はこういうのまで必要なのか」


「こういうのが先に必要です」


 ブライスはそのとき初めて、アラベラという女が"気難しい代理人"ではなく、"事故が起きる前に出口を確保する人間"なのだと理解した。


 署名のあいだ、娘は奥の机で紙を繰っていた。時折、手元の速記帳に何かを書き留めている。公報の番号か、条文の断片か。



 夕刻になると、通りの音が変わる。馬車の蹄が疎らになり、代わりにガス灯に火を入れる点灯夫の梯子の音が聞こえてくる。窓から入る冷気にインクの匂いが混じっていた。


 事務所の扉が叩かれた。


 依頼人ではなかった。

 マーサ・グレインジャー。アラベラの母だった。


 五十を少し過ぎた女で、姿勢がいい。指先に針仕事の痕跡がある。メイフェア近くで仕立て工房を営んでいる。夫が没落した後、針一本で家計を立て直した女だった。


 手にしていたのは、修繕した外套だった。


「裾がほつれていました」


「ありがとう。置いておいて」


 マーサは外套を机の端に置き、部屋の中を見た。

 紙の山。インク瓶。壁に貼られた法令の切り抜き。窓際に積まれた公報の束。


 それから、こちらを見た。


「またあの目をしている」


 それだけ言って、出ていった。


 アラベラは追わなかった。


 引き出しを開けた。滲んだ宛名が見えた。閉じた。


 奥の机で、紙を繰る音が止まった。

 すぐにまた、静かに再開した。


 アラベラは外套を手に取り、畳み直した。縫い目は正確だった。母の仕事はいつも正確だ。

 それを椅子の背にかけ、机に向き直った。明日の準備がある。

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