第十五節 潤す果実
果実水は、新鮮な果実の爽やかな甘やかさと、朝露のようなかすかな酸味を宿していて、ルナシアの乾いた喉を潤していく。
耳が新芽のように少しずつ立ち上がり重い鎖から解き放たれたように垂れていた尻尾も、羽毛のように軽やかに揺れる。緊張に縛られていた身体が、ようやく自由の風を感じ始めていた。
「落ち着いたみたいやね。良かった」
安心するようでもなく、心配していたようでもなく。ドルスはただ笑う。
「先生から聞いてるかもやけど、一応自己紹介しとくな。俺はドルス、先生とはまあリアルでも付き合いがあんねん。役割は軽戦士の前衛ってとこやな」
「えっと、ルナシア……。その、ろーる? は、あんまり……」
助けを求めるように横目でオルドを見ると、彼はロギアが丁寧に串焼きを取り分けるのを黙って見ていた。
「役割というのはね」とロギアが箸を動かしながら口を開く。
「攻撃を担うアタッカー、盾となるタンク、癒すヒーラー……パーティの中での立ち位置だよ」
「ルナシアは現状、刀による近接攻撃のみだから前衛のアタッカーということになるね。いい機会だからいろいろと教えてもらうといい。特にお金の使い方と計画性は君の永遠の課題だよルナシア」
目の前に置かれた串焼きを箸でそっとつつきながらも、主人への苦言は矢のように正確に放たれていた。一口ぱくりと串焼きを口に含み、時を止めたような静止の後、また含む。知識にある味と現実の味を照らし合わせるように。
「んー、先生もアタッカーやし、結構尖ったパーティーになりそうやな。まあ楽しいからええか。ルナシアちゃん……ルナでええ? このまま話進めてもええんかな?」
小さく肩をびくつかせたが、コクリと小さく頷く。大丈夫、大丈夫と心の奥で呪文のように唱えながら。
「ほな、攻略の話に移ろか。話が早かったり、途中で切り上げたくなったら遠慮なく言ってな」
果実水はどんどん水位を下げていく。正直、かなりギリギリのところで踏みとどまっている。
「クエストはツァルとヴェイルの討伐や。たぶん期間限定。討伐されたら即終了やろな。クエスト関係なく戦闘はできるんやけど……俺と先生は、二人で挑んで返り討ちに遭った」
ドルスの声が少し低くなる。酒場のざわめきが遠のき、言葉の重さだけが胸に残った。二人では無理――だから自分が誘われたのだと、すぐにわかる。
「デスペナ一歩手前で逃げるんが精一杯やったな」
「推奨は五人。しかもタンクとヒーラーが肝心だ」
ロギアが淡々と補足する。
「タンクがいなければ、嵐に小舟で挑むようなものだな」
タンク、ヒーラー、アタッカー。ルナシアにもなんとなく伝わった。守ってくれるタンクがいなければ、前に立つ自分が真っ先に狙われてしまう。5人推奨の戦闘でそれがどのような意味を持つのかは、不慣れなルナシアにも理解できた。
「せやから俺が回避盾をやる。タンクの代わりに避けまくって凌ぐ戦法やな。蝶のように舞う、ってやつや」
「……当たったら終わりじゃないの?」
「せや。派手に舞うか、派手に沈むかの勝負や」
3人の後ろで祭りのようにワッと声が上がる。どうやら他の席のNPCがだいぶ盛り上がっているらしい。
反射的にルナシアの肩が震える。
「ねーちゃんお会計してやー! あ、テイクアウトできる? 珈琲と果実水のおかわりと何か適当に軽いもんいくつか包んでや。あと俺に命の水もなー!」
厨房の後ろから陽気な返事が返ってきて、妙齢の女性が小さな包みを持って席に寄ってくる。
「ほな静かで落ち着いて話できるとこに移ろうか。ここは腰を据えて語るには少し賑やかやしな」
気を遣ってくれたことは、ルナシアにもわかる。わかるからこそ申し訳なさが残る
気づけば立ち上がりはじめていた尻尾は、再び重力の鎖に縛られて垂れ始めていた。
「気にするな、言っただろう? 一つずつ、だ。これは今すぐできるようにならないといけないことでもない」
「せやせや、うっさい酔っ払いになんて慣れへんでええねん」
直接の接触を避けているロギアと違い、ドルスは容赦なく頭をわしゃわしゃと撫でてくる。ロギアの手と違い相応に大きく硬い手。不意に今でも会うたび無言で頭を撫でてくる父親を思い出す。似ても似つかないはずなのに。
涼しい夜風が疲れた旅人をそっと撫でる。緊張で火照った体に寄り添うように、夜が優しい恋人のように隣にいる。
酒場から少し離れただけで夜は静寂を纏い直し、月は聖母のように優しく微笑む。
舞台を移したのはロギアの部屋だった。ドルスの部屋は酒瓶が散らばっていて、ペナテスも寝ているからだという。
「続きやけどな。俺が避けまくって盾役やる。2人はアタッカー。問題は後半や、パターンが変わるやろ」
持ち帰った酒を飲みながら、ドルスが言う。
「お茶を淹れようか? 果実水でもいいが」
遠慮のない友人に半ば呆れつつも、ロギアが椅子を引いてくれた。遠慮がちに差し出された果実水を受け取る。《ペナテス》たちは奥の席で持ち帰った料理を広げていた。
「君たちは実際に戦ったんだろう? 攻撃パターンはどうだったんだい?」
我関せずと料理を頬張るコギトと違い、オルドは話し合いに参加する気があるようだ。口下手な主人の影響だろうか。
「敵は二体。ツァルは牡鹿の姿で雷撃を使う前衛。ヴェイルはツバメのように上空を旋回しているだけやった。後半で回復や強化をしてくる可能性が高い」
「敵が上空なら、ルナシアは不利かもね、射程が短すぎる。そこも含めて戦略を練ることを提案するよ」
それから幾つかの針が文字盤を踊り、夜がより一層深く染まっていた。コギトは無邪気な子供のように口周りをソースで汚したまま夢の世界へ旅立ち、オルドは気づけば窓際まで移動し何故か鋭い眼光で星空を眺めていた。
夜は深まり、議論は尽きない。ルナシアは時折オルドに助けられながら何とか会話に参加していた。気づけば不安や気まずさは消えていた。
「回避というなら、ルナシアに任せてみるのはどうだろう。俊敏さなら彼女の方が上だと思うよ」
そんなオルドの提案から、歯車は動き出した。
「ああ、獣人族は確か五感と身体面が強化されるんやっけ。獣人族やったら俺より耐久ありそうやしそれもありかもなあ」
と、ここまで聞いて、オルドが沈黙に沈む。
ここで普通の獣人族として仮面を被り続けるのか、天狐族という真実を晒すのか、口下手な主人に代わり思考するための沈黙。
種族特性の情報は、そのまま弱点となる。無闇に明かすべき秘密ではない。
今はまだ、何が将来主人への災いの種となるのか判断できない。その判断を下すには時間という果実はまだ青すぎる。
「彼女のビルドは耐久型じゃないぞ。同じ獣人族でもいろいろだ。恐らくルナシアは俊敏性特化だろう。生来の感覚と相まって回避能力は高いだろうな」
沈黙を破る形でロギアが助け舟を出し、一瞬オルドが視線を飛ばしたがすぐに平静を装う。
知るはずのない人間が、知らないはずの情報を知っている。
「ふぅん、俺は得手不得手のない人間族のおっさんやからそこらへん詳しないなあ。このゲーム色々特殊やし。適性だのなんだのよーわからん」
最後の一滴まで飲み干された酒瓶を悲しそうに眺めながら、オルドとロギアを交互に一瞥する。深く詮索する気はないようですぐにまた酒瓶へと視線は戻っていく。
「でもま、ルナがやってくれんなら助かるわ。先生も俺も一応は遠距離攻撃があるからヴェイルも何とか狩れるやろ。ほな最初はツァルはガン無視の、ヴェイル優先て作戦でええ? 回復役潰すんが定石やろ」
その後はルナシアが経験した変異種とその素材の取り扱いなど、少しばかりの知恵の交換をしたのちに、先にドルスがログアウトのため自室に戻っていく。
一瞬の静寂の後、オルドの視線がロギアへと向けられた。
普段は己の主人以外に深く落ちることのない海が、ロギアの視線を絡みとって離さない。
「そう怖い顔をするな、もとより話すつもりだ。ドライに見えて主人想いなのだな」
とうの主人は何故こんな空気になっているのかわからず、迷子のように視線を彷徨わせている。
「助けてくれたことには素直に礼を言うよ。しかしボクはルナシアの《ペナテス》として何故キミがルナシアの種族特性を片鱗でも知っているのか、把握しておきたいんだ。場合によっては今後、対策を考えなければならないからね」
「対策というなら」と眠るコギトを抱えてベットに寝かせ、声を少し潜めながら言葉を紡ぎだす。
「あまり役には立たんだろうな。私のこれは種族特性によるものだ。レコリア族といってな。基本種族である星詠族からの枝分かれで、本来隠された情報を視認できる。唯一種族は弱点も大きい分、得られる特性は強大だ。対策は困難だろう」
「なるほどね。だから幻燈村でも本来見つけることのできないものを発見できたのか」
幻燈村。ルクス。本来であれば役目を果たせぬまま消える定めだったNPCのクエスト。その足掛かりをあの神父に残したのが他ならぬ彼だ。
それまで黙って話を聞くだけだったルナシアが、所持品から一輪の花を取り出す。彼が残した、確かに存在した証。
淡い光が、彼女の手を照らす。胸が詰まり、言葉がなかなか出ない。しばらく黙って見つめてから――ようやく声にした。
「これ、あのクエストで受け取ったの。ロギアのおかげで、出逢えたんだよ。遅くなっちゃったけど、ありがとう」
苦悩もあった。消化しきれたといえば嘘になる。怒りすら、ある。
それでも、思い出として大事に胸に仕舞いたい。ルクスという存在を知る者として、彼を想い続けたい。
「そうか。幻燈村で見た残滓をルナシアから感じたが、やはり君だったか。私からも礼を言わせてくれ、ありがとう」
「全部、ロギアおかげだよ。私ひとりじゃ、多分見つけられなかったと思う」
ロギアの特異な眼とそれを手紙に託す行動がなければ、クエストそのものが発生しなかった可能性もある。
「もし時間がまだあるなら、聞かせてもらえないだろうか? 君が出逢ったそのルクスとの物語を」
ロギアの提案を「もちろん」と二つ返事で快諾して、話し始める。
美しい花壇。祈りを捧げ続けられた教会、神父。そして別れ。ルナシアが幻燈村で体験したことの全て、魂に刻まれた物語。
夜がどれだけ深い黒に染まろうと構わず、二人は語り合う。お互い真剣な表情であったが、そこには悲壮という影はなく、ただ温かい優しさに満ちていた。