第十三節 影を喰う静寂
脳が熱い。
霧がかかったように思考がまとまらない。
全身が火照り、四肢に力が入らない。
「君は今、《過集中》のクールダウン中なんだよ」
近くに敵性反応がないことを確認して一時的に人型に戻ったオルドが、相変わらずの淡々とした口調で述べる。その声には機械的な冷静さがあり、なぜかそれがルナシアを安心させた。
「《過集中》は日常生活にしばしば支障をきたす。寝食を忘れたり疲労が溜まったり。集中が解けた後に体の火照りや思考能力の低下があることも多い。アスリートなどが至る《ゾーン》と違い、ややネガティブな印象だね。覚えがあるんじゃないかい?」
覚えはある。あまりにも鮮明に。
朝から作業をして気づけば深夜になっていて膀胱炎になった。学生時代は授業が終わっていることに気づけなかった。
友人の声すら耳に入らず、気がつけば一人図書館に残されていた。
時間の感覚が麻痺し、世界から取り残されたような孤独感。
思い当たる節など挙げればキリがないが、応える気力はなかった。
喉の奥で言葉が絡まって、ただ重い息を吐くことしかできない。
「余計なお世話かもしれないが、《過集中》は体調や日常生活にも影響が出る。気になるようであれば事前にアラームを設定したり、休憩用の香りを嗅いだりするといいよ」
黒狐との戦闘を終え、なんとか勝利を収めるも疲労困憊であった。あの瞬間の記憶が脳裏をよぎる。刃が肌を掠めた冷たい感触、死と隣り合わせの緊張感、そして勝利の後に訪れた虚脱感。
積極的に戦闘をこなしていく予定を一時中断し、草むらに寝転ぶ。
久々の優しい草の感触。
茎が背中を支え、葉が頬を撫でていく。草原を歌う風が火照った体を冷やしてくれる。風は涼しく、どこか懐かしい匂いを運んでくる。土の匂い、青い草の匂い、そして遠くの花の甘い香り。
「……言いにくいんだけど、まずHPの回復をしたほうがいい。ポーションが好ましいが、使うかどうかは任せるよ」
ルナシアは恨めしそうに視界の端のHPバーを一瞥する。
彼女の命の残量は黒狐の奇襲により真っ赤に悲鳴を上げていた。数値で表される命の重さが、妙にリアルに感じられる。
「被弾ゼロを掲げてこれじゃ世話ないね。いっそのこと耐久性をあげることってできないの?」
「不可能ではないよ。この世界では経験がステータスに影響を及ぼす。ここら辺は君の世界と同じだね。速く走ることを繰り返せば俊敏性が上がるし、沢山攻撃を繰り返せば攻撃力が上がる。努力は必ず報われる、そういうシステムになっている」
じゃあ、とルナシアが一瞬明るい表情を見せたところで、遮るようにオルドは続ける。
「ただ適性があるんだ。人間誰だって得手不得手があるだろう?この世界にも種族ごとに伸びやすいステータスと伸びにくいステータスがある。君の種族は耐久性のステータスが全種族で一番伸びにくい。さらには耐久性を鍛えるためには攻撃を受け続ける必要がある。君には圧倒的に向いてないよ」
《天狐族》の耐久性では一撃もらうだけで命取り。
さらにはポーションの問題もある。
無理に攻撃を受け死亡を重ねれば待っているのは重いデスペナルティ。
明るくなった表情がしおしおに枯れていく。
希望という名の花が、一瞬で萎んでしまったようだった。
「ボクとしては得意を伸ばすことを推奨するよ。本来獣人族が持たない高い魔法適正、優れた感覚器官、俊敏性もだね。《過集中》はシステムに依存しない、捉えようによってはこれもまた武器だ。もっとも、コントロールは難しいだろうけどね」
重い溜息をひとつ吐いて、携帯食を取り出す。幻燈村でも食べた質素なパン。硬く、味気ないが、腹を満たすには十分。
すぐ戦闘が始まるような距離にはモンスターがいないことを大きな耳が教えてくれる。
「スキルの生成を行うかい? うまくいけば、一番簡単に強くなれる。どちらにせよいつかは必要になってくるしね」
いや、とルナシアは即答する。
「次の街でゆっくり考えるよ。あとどれくらい?」
「了。そうだね、変異種の影響で少し遅れてはいるけど46分程度あれば到着だ。幻燈村でのクエストで君は少し進行速度が遅いからね。他のプレイヤーとの接触も最低限で済むと予想される。安心するといい」
「出会って2日なのに随分とわたしを理解しているんだね。まあ、嬉しい報告ではあるんだけど」
この世界で最初に出会ったのがあの赤キノコでなければ少しは違っただろうか。
触手で撫でまわされるような感覚を思い出し胸が痛む。
トラウマというものは、思い出すだけで身体が反応してしまう。
「心拍が上がっている。落ち着いて、ルナシア。終わったことだ」
腰に携えた刀に触れる。
素朴な白鞘から香る匂いが昂った感情が落ち着かせていく。
「行こうか。本調子ではないけど、クールダウンはもういいでしょ」
「了。《過集中》がシステムに依存していない以上、明確な回復手段はない。戦闘は今まで以上に慎重にね」
恐らく通常の状態であればここに苦戦するような敵はもういないだろう。
黒狐のような異質な気配はもう感じられない。
だが、この世界は予測不可能だ。油断は命取りになる。
しかし思考は未だ重く、体の火照りと脱力感はだいぶマシだが、脳が熱をもった感覚は今も続いている。頭の芯がじんじんと痛み、集中力が散漫になる。
気づけば完全に日が落ちた世界の冷たい風だけが、ルナシアの体を癒してくれる。
「次の街では本を読もうか。オルドも何か読む? 気になる本があったら買ってあげるよ。本は知識の源泉だからね」
幻燈村で買った本が、読まずにそのままだ。
本は読まずに積むものではない。
インテリアではないのだから。
知識は使ってこそ価値がある。
「必要な知識は持っているつもりだよ。知識だけでは証明できないことを観測するのがボクの役目だ」
「愛とか魂とか?」
「是。愛とか魂とか、だね」
他愛ない会話だった。
オルドの表情には相変わらず色がなく、機械的で、それが安心する。人間ではないことに、これ以上ない安心を覚える。
人間の感情の複雑さ、裏表、建前と本音。そういうものから解放された会話は、疲れた心には薬のようだった。
草を踏む音が静かに響く。
足音が夜の静寂に溶けて、リズムを刻む。夜の草原は深く、風は肌寒いほどに冷たいのに、どこか優しさがあった。母性のような、包み込むような温かさ。
視界の端には、月のようなものが空に浮かんでいた。現実世界の月よりもやや大きく、青白い光をぼんやりと放っている。その光は優しく、草原全体を薄いヴェールで覆っていた。空気は澄んでいて、遠くの星までくっきりと見えた。天の川が薄く流れ、無数の星が瞬いている。
草原はゆるやかに波打ち、まるで眠っている誰かの呼吸のように静かに揺れていた。風が通るたび、草の波が遠くまで続いていく。その光景は美しく、どこか幻想的だった。
ルナシアの大きな耳がわずかに震え、彼女は歩みを止めた。
「虫の声がしないんだね」
「このエリアには生態系の偏りがある。季節の設定も不安定だ」
「……静かだと、いろいろ思い出すよ」
黒狐の刃、深淵を覗くような感覚、そして《過集中》の熱。あの赤キノコとの邂逅。現実世界での孤独な夜々。一人でいることの寂しさと、それでも人と関わることの難しさ。
戦いは終わっても、内側ではまだ戦いが続いているようだった。
オルドは無言で隣を歩いていた。
人型のまま、足音すら抑えて、まるで風にまぎれる影のようだ。その存在感の薄さが、今は心地よい。
ルナシアはふと、草の茂みに手を伸ばし、一本の長く細い草を摘んだ。
それをくるくると指に巻きながら、何かを考えているようだったが、やがて小さくため息をついた。草の香りが指先に残る。生命の匂い。
「この世界って、現実より静かで、現実より痛いね」
「観測することで存在が確定する以上、この世界は現実に劣らない。痛みも含めて、そういうふうに設計されている」
「だったら──なおさら、本を読まないとね。忘れないように」
「君は、何を忘れたくない?」
その問いには答えなかった。
答えられなかった。忘れたくないものがあまりにも多すぎて、それを言葉にするには心の準備ができていない。代わりにルナシアは夜の草原を見渡し、そして歩き出す。
踏みしめるたびに、草が音もなく傾いていく。
そのたびに、少しずつ火照った熱が土に沈み、冷えた思考が額に戻ってくる気がした。歩くことで、少しずつ自分を取り戻していく。
「やっぱり読みなよ、本。本には感情が詰まってる」
オルドの深い瞳が何かを考えるように沈む。
「それは愛とか魂とか、かい?」
「愛とか魂とか、だね」
二人の会話は淡々として、愛や魂について具体的な内容については触れない。
重く大切で、だけれど言葉にすると途端に陳腐に聞こえるから。そういうものは、言葉の向こう側にあるのかもしれない。
淡々とした会話の中、違和感に気づく。
──音がない。
草を踏む音も、風を割る気配も、沈黙に溶けていた。
耳を澄ませば澄ますほど、自分の呼吸だけが浮き彫りになる。心臓の鼓動が妙に大きく聞こえる。血管を流れる血液の音まで聞こえそうなほど、世界が静寂に包まれていた。
闇は深く、月は青白く、影は長い。
草原に落ちる影が、幾何学的な模様を描いている。その影のひとつが、ゆっくりと”ずれた”。
「後方四時、低く──!」
オルドの声と同時、足元に”何か”がまとわりつく。
冷たい糸が這うような感覚。振り払おうと動いた右足に、力が入らない。足首から先の感覚が、まるで麻酔をかけたように鈍くなる。
感覚が、遅れて届く。
「……嘘……っ、足が──」
喰われていた。
自分の影に染み出すように伸びた”それ”が、右足の影を吸い込んでいた。まるで影が生きているかのように、蠢き、広がり、自分の一部を奪っていく。
肉体はそこにあるのに、地面の感触が遠い。
足は動く。けれど”自分のもの”じゃないようだった。操り人形の糸が切れたような、ぎこちない動き。
ずれる。
思考と、運動と、現実が。
自分という存在の”枠”がゆっくり崩れていく。境界線が曖昧になり、どこまでが自分でどこからが世界なのかわからなくなる。
「焦らないで、ルナシア。恐らく喰らった影の部位の行動を封じている」
月光に照らされた瞬間、輪郭がにじむように姿をあらわした。
まるで濃霧がひとつの意志を持ったように揺らぎながら、
それは地を這い、壁を登り、空気を舐めて動いていた。重力の概念を無視したような、不気味な動き。
頭部に該当する部位はなく、顔もなかった。
ただ、そこに”正面”のようなものが存在するという”錯覚”だけがあった。向かい合っているという感覚だけが、根拠なく心に刻まれる。
目の代わりに、黒よりも深い虚が並んでいた。
覗き込んだら戻ってこれないような、終点のない暗さだった。その黒さは単純な色ではなく、光を吸い込む穴のようで、見つめていると意識が吸い寄せられそうになる。
身体の構造は明確ではなかった。
四肢のようなものが時折地面を踏むが、次の瞬間には逆さに立っている。物理法則を無視した存在。概念が形を得たような、理解を拒む生命体。
ひとの影を踏んで進み、踏まれた影が”吸い込まれる”たび、
その身体はわずかに膨らんだ気がした。
影を糧として成長する、純粋な捕食者。
──それは形を持たない”空腹”だった。
「恐らく急所を食われない限りはダメージはない。急所を避けつつ攻撃に転ずるんだ」
「簡単に言うな……っ!」
刀を抜く。月明かりが刃を撫でる。
金属の冷たさが掌に伝わり、わずかに気持ちが落ち着く。一閃。風が鳴る。空気を割く音が夜に響く。
斬れた。
けれど、影はまた現れる。形が曖昧で、質量を持たず、まるで”視界のバグ”。刃が通っても手応えがない。まるで霧を斬っているようだった。
──左肩。
影が跳ねた。ルナシアの左肩に触れた瞬間、冷気が流れ込む。
氷のような冷たさが血管を通って全身に広がる。肩から先、感覚が消える。重さがなくなる。腕が自分のものでなくなっていく恐怖。
このままじゃ、斬れない。
「感覚で捉え切れない…!」
「アレは光を追う。月明かりを背にした君は、もっとも影を長く引いている」
「……つまり、月がわたしの敵ってことね……」
乾いた笑いが喉でくすぶった。
美しいと思っていた月光が、今は呪いのように感じられる。
戦場は、静かすぎた。
敵は音を立てず、気配も希薄で、攻撃に応じて形を変える。しかもこちらは片足と片腕の感覚が不完全。まるでハンデ戦を強いられているようだった。
脳裏に走るのは”削がれていく自分”。
このまま影を喰われれば、次は胴か、首か。
「オルド、あいつの動き、予測できる?」
「構造的に不定。だが、月光の角度と影の密度から進行角度は推定可能。推奨:反時計回りで位置を変えつつ──」
「無理、時間がない。こっちは斬る手も満足に動かせないんだから!」
影が跳ねた。今度は腹の影に。
避ける。咄嗟に転倒するように転がって回避。冷たい土の匂いが鼻腔に刺さる。草の香りと土の湿り気、そして微かな血の匂い。
オルドが《魂測体》へ変貌し宙を舞う。
翼を広げた異形の梟の姿が月光に浮かび上がる。ルナシアより月に近づいた異形の梟の影が膨れ上がり、影喰いがオルドへと向かった。
「今だ、ルナシア」
「……ッ!」
麻痺するように感覚の鈍った腕で、刀を握る。
重く、指が動かない。まるで夢の中のように、力が伝わらない。でも、諦めるわけにはいかない。
それでも──振るう。
刃が夜を割く。
月光が刃に反射し、一瞬世界が光る。その動きが月光を乱し、影喰いの身体が浮かび上がる。輪郭がはっきりと見える。
ここだ。
「──っはァ!」
刃が通る。
血はない。ただ影が裂け、空気が悲鳴を上げる。まるで現実そのものが傷ついたような、不快な音。影喰いは輪郭を崩し、ひとつの”霞”となって消えていった。
静寂が、また戻る。
夜の冷たさが、じわじわと感覚を埋め直していく。
身体の一部が、自分のもとへ戻ってくる。指先に感覚が戻り、足の裏に地面の感触が蘇る。
ルナシアは、ゆっくりと膝をついた。
「……やばかった、ね……」
「君の感覚では”やばかった”で済んでよかったと思うよ」
「ほんとにそう……。これ以上、影に触れられてたら……」
──自分の形を失っていた。
それがどんな恐怖なのか、今の彼女にはうまく言葉にできなかった。でも、感覚は覚えている。影を通して、何かに”削られる”あの感じを。存在そのものが薄れていく感覚を。
風が吹く。草原が揺れる。
遠くに、次の街の灯が、ぼんやりと滲んでいた。オレンジ色の暖かい光が、希望のように見える。
「オルド」
「なんだい?」
「……ありがとう」
「どういたしまして。それが僕の役目だから」
二人は再び歩き始めた。
足音が夜の静寂に響く。今度は確実に、自分の足音だった。草を踏む感触が、生きている証拠のように感じられる。
月はまだ空にあり、青白い光を投げかけている。
でも今度は、それが敵ではなく道標のように思えた。
星々が瞬き、風が頬を撫でていく。
草原の向こうに見える街の灯りが、少しずつ大きくなっていく。
歩くたびに、《過集中》の熱が冷めていく。
思考がクリアになり、身体の感覚が戻ってくる。自分という存在の輪郭が、はっきりしてくる。
「本、やっぱり読もう」
「いいことだと思うよ」
「愛とか魂とか、について書かれた本」
「それは興味深いね」
会話は続く。
淡々と、でも温かく。夜の草原を渡る風のように、自然に流れていく。
遠くで、街の鐘が時を告げた。
深夜の静寂を破る、澄んだ音色。それは新しい始まりを告げる音のようだった。