第十二節 覗き返す深淵
森を抜け、街へと続く草原で次に出会ったのは、狐だった。
長くしなやかな尾の先に、小さな炎が灯っている。まるで夕焼けの欠片を纏ったように。
「シンパシーを感じる気がする」
先ほどの黒牛とは違い、艶のある白毛が陽光に煌めいている。敵意さえなければ、永遠にその美しさに見惚れていたいほどだった。
「魔力を観測。気をつけて、今までの敵と明らかに違う」
これまでの敵が物理攻撃を主としていたのに対し、初めての魔法攻撃の予兆。空気が微かに震えている。
「どうせ被弾はできないんだから、やることは変わらないよ」
物理であれ魔法であれ、ルナシアにとっては同じこと。彼女の種族特性による耐久の低さは、あらゆる攻撃に対して致命的なのだから。
薄氷を歩むような戦いが、再び始まる。
白狐がくるりと尾を回すと、小さな火の玉がルナシアに向かって飛来した。空を切り裂く赤い軌跡。
体を捻ってそれを難なく躱す。課題だった自慢の尻尾への注意も、徐々に改善されてきている。
だが白狐は、尾を次々と振り回しながら火球を放つ。息つく間もないとは、まさにこのことか。
連続する炎の花が、草原を舞台に咲き乱れる。
「1.8倍の難易度は伊達じゃないってことね」
火の玉が焼ける音を、草原を渡る風がさらっていく。尾の動きに合わせて変わる軌道。
回避だけでは、やがて限界が来る。
時という砂が、刻一刻とこぼれ落ちていく。
《観測モード・起動》
オルドの声と共に、視界の隅に白狐の体温分布と魔力の揺らぎが映し出される。情報が光の糸となって、ルナシアの脳裏に織り込まれる。
「詠唱なしで放てる魔法……尾が媒介ってことか」
考えるより先に体が動く。ルナシアの動きは最小で、正確。火球の隙間を舞い踊るように駆け抜ける。風が彼女の頬を撫で、髪が翻る。
「回り込んで……次の隙、——ここだ!」
一気に距離を詰め、刃を振る。
だが、手応えは浅い。霧のように後退した白狐は、再び尾に火を宿らせていた。
攻撃の後に距離を取る。その判断は雷光のように早い。
「見た目に騙されちゃダメってことだね」
次に放たれたのは、狙いを定めた鋭い火球の連打。まるで刺突のような放射。炎の矢が次々と空を裂く。
彼女は跳んだ。草を蹴る音と、火球が地面を焼く音が交差する。焦げた匂いが空に舞い上がった。
戦場に漂う硝煙の詩。
跳躍の先で斬撃が肩を掠める。白毛に赤い雫が滲む。美しい絵画に一筋の朱が差したように。
「やっと当たった……!」
白狐の炎が揺らめく。怒りか、恐れか、それとも——痛みという名の嘆息か。
次の瞬間、狐は強く尾を振る。
「来るよ、最大火力……!」
もう逃げられない炎の奔流。
ならば、攻める。運命に立ち向かうのみ。
火球が集中する前に、一歩、また一歩と踏み込む。鼓動が戦鼓のように響く。
刹那、爆ぜる音が世界を包む。
炎の交響曲が草原に響き渡る。
その火の中で、ルナシアの刃が一閃する。
銀の月光が紅蓮を裂いて。
静寂。白狐の尾の火が、朝霧のように溶けていく。
風が吹き、焦げた草の匂いが鼻をかすめる。戦いの余韻が、そっと頬を撫でていく。
敵意を失った白毛は、最初に思った通り、神聖で美しかった。まるで雪のように純粋で、儚い。
「……同族殺しみたいで、なんか嫌だな」
白狐の命が風に溶ける。蝶が羽化するように、静かに。
その消え際、ひとすじの熱だけが、ルナシアの中に残された。
その熱が胸の奥でまだ燻っている。小さな炎が、心の灯火として宿ったように。
草原を歩きながら、ルナシアはふと尋ねた。
「ねえ、オルド。この世界って……スキルとか、ないの?」
オルドは少しだけ間を置き、答えた。まるで古い記憶を紐解くように。
「あるよ。ただ、君が思っているようなものじゃない」
「どういうこと?」
「この世界に存在するスキルは、大きく分けて三種類。《種族スキル》、《武器スキル》、そして《固有スキル》。ただし、《種族スキル》以外は、個人固有のものになる」
「……それ、今は使えないの?」
「武器スキル以外は、もう使えるよ。けれど、君の《種族スキル》は、まだ発動の兆しを見せていないようだね」
そして、オルドは少しだけ声を落とした。秘密を打ち明けるように。
「《固有スキル》——正式には《魂相》と呼ばれている。君自身が限られた条件下で、自らの意志と魂から生み出すものだ」
エイドス——本質。
哲学における根源的な概念が、この世界にも深い根を下ろしている。
「《容相》と呼ばれる、限られた器の中でしかスキルは生まれない。その中で何を選び、どう形を与えるかは、君の自由。でも——適正から遠いものは、力を発揮できない。やり直しもできない」
ルナシアはしばらく黙っていた。思考が静かな湖面のように凪いでいる。
結局、その時はスキルを生み出すことを選ばなかった。
やり直しが効かない要素を、今この場で決める気にはなれなかった。
それはきっと、もっとゆとりのある時にしっかりと時間をとって考えるべきことだ。
人生の重要な選択は、急ぐべきものではない。
「戦闘に役立つなら、欲しいけど……今じゃない、かな」
「そうだね、焦ることはない。必要になったとき、必要な力があればいい」
風が吹き、遠くで草が波のように揺れた。自然という名の詩人が、静かに歌を奏でている。
「……武器スキルについては、また今度説明するよ」
「まだ、落ち着いて考えるには早いみたいだしね」
ルナシアの本能はまだ警鐘を鳴らし続けていた。
元来の鋭敏な感覚に加えて、《天狐族》の感覚器官が、見えざる敵の情報を囁いてくれる。
「大きいのは近くにいないみたいだね。さっきの狐みたいなのが何体かいるみたいだけど、一匹変なのがいる」
ルナシアの感覚が捉えた異質な気配。それは先ほどの白狐に近いが、他に感じる気配とは明らかに異なっていた。
まるで同じ楽器でも、調律が狂ったような不協和音。
「さすがだね、そこまで分かるのか。ボクはまだ観測できていないから確証はないが、おそらく君が感じているのは変異体の気配だ。モンスターもまた、君たちと同じように経験を積み成長する。きっと誰か他のプレイヤーがその個体に負けたんだろう」
プレイヤーを倒し経験を積んだモンスター。あの白狐は確かに今までの敵の中では一番の難敵だった。初めての魔法を使う敵でもあるし、それほど進んでいない状況で負けても恥ずかしくはない。
戦いには勝利と敗北、光と影が常に寄り添っている。
「ドロップが豪華だったりするの?」
回復手段の目途が立つまではポーションより高価な携帯食に頼ることになる。金になるのであれば是非倒しておきたい。
旅の宿命——危険と報酬は常に天秤の両端にある。
「前にも言ったけど、ドロップアイテムについては開示できない。気になるのであれば自分で確かめるしかないよ。ただ変異体の実力は未知数だ。経験を積めばそれだけ強化されるからね。相手にするなら心してかからないと、君も餌食になる」
風が再び吹き、草原に小さなざわめきを運んでくる。次なる戦いの序曲が、静かに始まろうとしていた。
「まあ、いいか。お金にはなるし」
生きていくには金銭が必要になる。
それはこの世界でも変わらない。
空腹パラメーターがある以上、一定の金額は必要になってくる。
——ぞわり。
気配はまだ遠く、近くにはいない。
それでも一歩を踏み出した瞬間、全身の毛が逆立つような異様な感覚が身を包んだ。
否、感覚に確かに襲われた。形なき“襲撃”。
ばっと慌てて周囲を見渡す。やはり近くにはいない。それでも肌を貫通するような圧倒的な存在感。
「オルド、さっきの“視界”もう一度見せて」
声が、震える。
「了、《観測モード・起動》」
視界に再び周囲の流れが映し出されるが依然視覚では捉えられない。
「“戦わない”という選択肢があるのを忘れないで、ルナシア。プレイヤーが死亡した場合、一定時間その場に《魂の残滓》が残る。《魂の残滓》にはプレイヤーの情報が記されているんだ。君の種族特性が流出すれば致命的な弱点の露呈につながる」
判断は慎重にね、と。これから先、PvPを行う可能性もゼロではない。その時、種族特性は勝敗に決して小さくはない影響を与える。情報は何よりも強い武器なのだ。
「……迂回しよう。走るよオルド」
彼女の選択は、冷静な理性によって導き出されたものではなかった。
むしろ対極の“本能”による選択。
近づきたくない。
《魂の残滓》がどうのというのはルナシアにとって重要ではない。
ただひたすらにこの気配の主に近づきたくなかった。
了、といつものように最低限の音だけでオルドが応え、走るためにそれまで抜き身のままだった刃を白鞘に収めた。
——それが間違いだった。
過ちだった。抜き身のままでいるべきだったとルナシアはすぐに後悔する。
“汝、深淵を覗くものよ
汝が深く深淵を覗くとき、
深淵もまた、汝を覗いているのだ”
納刀し瞬きをした一瞬の間に、“それ”はいた。
まるで最初からそこにいたかのように。
眼前に迫っていた黒い影は鋭利な刃物となってルナシアを襲った。
「くっ……!!」
刀を収めた瞬間を狙われ武器で受けることもできない。それでもルナシアの極限まで研ぎ澄まされた感覚は完全な不意打ちを許さなかった。
すんでのところで後ろに飛び直撃を避ける。
しかし視界の端のHPバーは真っ赤に染まり、掠った腕を鈍い感覚が襲う。
咄嗟の回避行動でルナシアは地面を転がる。《魂測体》の異形の梟の姿でいたことが幸いしオルドは宙を浮き難を逃れている。
「もっと遠くにいたはずなのに……!!」
体勢を立て直したルナシアの視覚が敵を初めて視認する。
それは暗闇を切り取ったような、黒く美しい毛並みの狐。
やはり、こんな状況でなければ目を奪われていたかもしれない。
「あれは間違いなく変異体だ。君の不意をついてきたことから、やられたのは複数人と予測。逃走は難しいだろうね」
背を向け逃げ出したとしても、距離を一瞬で詰めてくるのであれば意味がない。
「落ち着いて対処しよう、大丈夫、君なら勝率はある」
ゼロではない、というだけの勝率だろうか。
「本来であれば君の知覚を掻い潜れるものはいない。変異にともなって何かのスキルを発現させたんだ。速度上昇か、認識阻害系か、どちらにせよ制約があるはずだ。連発はできないだろう」
オルドの声は、しかし届かない。
遠く離れていた時ですら近づくことを本能が拒否していた対象が、今目の前にいる。
ルナシアの大きな耳と尻尾は、もはや比喩でもなく逆立っていた。
この世界にないはずのデータの体の心臓が早鐘を打っている。
自身の声が届いていないことを察したオルドは数瞬の沈黙の後、今の主人にかけるべき言葉を導き出す。
それは果たしてシステムによって設計された行動か、それとも——
「“一つずつだ”、そうだろう? ゆっくり、一つずつ。丁寧にいこう」
それはロギアの言葉。ゆっくり、一つずつ。
ルナシアが納めていた刀を抜く。装飾のない白鞘から仄かに太陽の匂い。
——死んだダニの、死骸の匂い。
「認識阻害系の特徴は?」
小さな単眼の梟が静かにルナシアの肩に乗る。
「名前の通りだ。認識を一時的にズラす、近くにいることが認識できなかったり、別の姿に見えたり」
「なら違う。あれは確かに視界の外にいた。ただ一瞬で現れた。わかる?」
ルナシアの知覚は確かに黒狐を捉えていたはずだった。それが一瞬で移動してきたのだ。
「なら瞬間移動、ワープの類の可能性がある。極めて強力だがその分重い制限があるはずだ」
事実、黒狐は初撃から攻撃をしかけてきていない。
ただ不気味なほどじっとそこに佇んでいる。
なら勝機は——
「スキルの再使用に時間がかかるのが制約だと仮定して、狙うならその再使用までの時間だね」
焦らず、丁寧に、一つずつ。
「問題は君のHPだ。もう危険域だろう? 我慢してポーションを使っても初心者用ポーションの回復量はたかが知れている。攻撃を一度防げるまでは回復しないだろう」
即時回復効果を得られるポーションだが、やはり隙は大きい。そもそも飲めたとして、二本連続で飲むなどルナシアにはできない。
「結局やることは変わらないわけだ」
攻撃を避け被弾せず急所を破壊する。
ルナシアに残された唯一の勝ち筋。
今までにないくらい、感覚が冴えていく。
不思議な感覚だった。
恐怖は消えていない。
ないはずの心臓は早鐘を打ち続け、本能は逃走を願っている。
しかし手には力がこもり、ひどく冷静でいられた。
黒狐の尾に火が灯る。
集中。今のルナシアにできることは、この一言に尽きる。
黒狐が、動く。くるりと回した尾から放たれる火球は白狐のそれと比べて速く思えた。
一つ、また一つと尾が回転するごとに襲ってくる火球の数が増えた。
草原の生い茂った緑を小さな火が燃やす。
一発でも被弾すれば終わり。
後がない極限状態の中、ルナシアの集中がさらに一段階深くなる。
だがまだ足りない。いつ来るかわからない瞬間移動、その考察が正しいという確証すらない。
最低でもさらに一段階、深く潜る必要がある。
深く、深く、深淵まで。
カチリ——。
何かのスイッチが入る音。
懐かしい感覚が、体を包む。
ノイズに苛まれていなかった頃の、寝食を忘れて絵を描いていた時のような。
ただ目の前のことにだけ集中できていた頃の感覚。
ルナシアのボルテージが、最高潮に達する。
それと同時に、絶え間なく火球を放っていた黒狐も姿を消す。
視界が——閉じられた。
ルナシアはそっとまぶたを落とす。
暗闇の中で、ただ風の流れを感じていた。
風が、身体の表面で止まらずに、皮膚の奥へと染み込んでくるようだった。
草の揺れる音が、耳ではなく背中から聞こえてくる。
感覚が、自身の境界を越えて広がっていく。
自分という器から、輪郭がほどける。
意識が、地面の温度や空気の密度にまで滲んでいく。
自分ではない“何か”が、先に気配を捉えていた。
その感触は、昔感じた恐怖や緊張とはまったく異なる。
広がった静けさのなかで、ひとつだけ鮮明な熱源が脈打っている。
「……そこだ」
読み合いではなかった。推理でもない。
ただ世界が、一瞬だけ“その未来”を見せてくれた気がした。
ルナシアは目を開けないまま、刃を振った。
目を開けることなく、ルナシアの身体が動いた。
彼女ではなく、風と地面と音が“そこへ向かって”動いたかのように。
その刃が触れた先に、黒狐の鼓動があった。
刃は寸分の違いもなく首を切り落とす。
刀が触れる金属音と、未だに慣れない不快な感触。
解放された視界には、灯が消えた黒狐の姿だけがあった。