第十一節 魂の余熱
光が薄い帳を透かして、静寂の午後を告げていた。
正午を少し過ぎた頃、魂縫ほつれの意識は浮上する。
天井の隅に踊る光の粒子たちは、まだ夜の記憶を纏った部屋に、穏やかな侵入者として降り注いでいた。
夢と現実の境界線は、水彩画のように滲んでいる。
仰向けのまま、彼女は呼吸を数える。
一つ、二つ、三つ。
枕元の耳栓を手に取り、それを装着してから、ゆっくりと体を起こした。
浅い眠りの残滓が、まだ意識の表層を漂っている。
何度も覚醒の波に攫われては、濡れたような微睡から浮き上がる。
体のどこかに宿る温もりがあった。
その余熱を纏った体が、部屋を彷徨う。
相も変わらず唸り声を上げ続ける冷蔵庫は、現実世界の心拍のように響いている。
その冷蔵庫からゼリー飲料と無色透明な水を取り出す。
食事という行為は、彼女にとって戦場だった。記憶は、時を超えて彼女を苛む。
給食で出た豆料理の独特な匂いと味付けに負けた幼い日々、担任教師の顔は今でも鮮明に脳裏に刻まれている。
どんな言葉を浴びせられ、どんな表情で見下ろされたか、記憶は残酷なほど完璧だった。
給食を残すたびに謝罪しに行く理不尽なルールを経て、食事は彼女の苦手な行為の一つとなった。
ゼリー飲料の蓋を開け、一気に流し込む。人工甘味料の甘さが喉を通り、胸まで広がって吐き気を催す。
それを無味の水でさらに押し流す、まるで罪を洗い流すかのように。
デスクから朝の薬を取り出す瞬間、視界の端に《ALMA》専用デバイスが映り込んだ。
──ルクス。最後に見た、あの無邪気な姿。
彼の最期を見届けて、ようやく一度目のログアウトが叶ったのだと思う。
それでも、彼が「終わった」のか「救われた」のか。
答えはまだ形を成さず、霧のように心の奥で揺らいでいる。
「仕事、しなきゃ……」
呟きは空気に溶けた。
デスクから薬を取り出し、吐き出さないよう勢いよく飲み込む。
パソコンの電源ボタンを押すと、耳障りな機械音が部屋に響いた。
不快であろうが、ゲームの余韻が残っていようが、生きるためには労働が必要だった。
漫画やアニメの主人公ならば、永遠に冒険を続けられたのだろう。
しかし魂縫ほつれは主人公ではない。
世界に溢れる無数の人間の一人で、消えても誰も困らない存在。
そんな人間でありながら社会に適合できなかった、敗走者の烙印を押された者。
「誰もが主人公なんて、一体誰が言ったんだろう」
そんな台詞は、主人公であることを許された側の特権だった。
その日は、集中が幾度となく切れた。
行き詰まったのではない、ただ集中が続かない。
頭の中に霧がかかったような、電波の悪い通話を延々と続けているような感覚。
“普通”への憧憬が胸を刺す瞬間だった。
コーヒーやエナジードリンク、ネットで知るクリエイターたちの集中手段を彼女も知っている。
試したことはあるが、コーヒーはすり潰した炭のような味で飲めなかった。
しかもカフェインの刺激で胃が荒れ、夜は覚醒して眠りを拒絶する。
エナジードリンクに至っては、試す気力すら湧かなかった。
集中できないまま、太陽は西の空に沈んでいく。
視線は無意識に、《ALMA》専用デバイスへと吸い寄せられていた。
時計の針が午後七時を指していた。
昼食も夕食も摂らなかったが、空腹感はほとんどない。代わりに胸の内を満たしていたのは、欠落という名の感触だった。
──まだ、終わっていない。
ルクスのことではない。
彼の「終わり」は、きっとあれで良かったのだ。
それでも、この世界のどこかに置き去りにしたままの何かがあるような気がしてならない。
彼女はゆっくりと、祈りを捧げるようにデバイスに手を伸ばす。
部屋を暗くし、今度は忘れずにパソコンの電源を落としてからデバイスを起動した。
青白い光が部屋の闇を照らす。祈るように、彼女はログインを選ぶ。
二度目のログイン。
世界が、肉体が、再び剥がれ落ちていく。
ログイン操作を終える。
目を閉じた。
まぶたの裏側に浮かんでいた、薄い昼光。机の木目。
……それらが、ゆっくりと、溶けるように消えていく。
代わりにやってくるのは、異様に鮮明な“感覚”──風の匂い。
空の圧。魂の輪郭。
「──ログイン、確認しました」
音声が響くと同時に、視界に《ALMA》の空が広がった。
「やあ。目が覚めたかい?」
幻燈村の宿屋で目覚めた瞬間、木の息遣いが聞こえるほどの静寂に包まれていた。
天井は低く、素朴な寝具が温かな安らぎを与えてくれる。
過剰な装飾も情報もない、境界に近い村の聖域。
祈りと忘却が交わる夜の内側で、ルナシアは新たな夜を迎えていた。
ベッドの傍らで、オルドがじっとこちらを見つめている。
深い海の瞳は、視線の先が定かではない。
ルナシアを見ているようで、その幾何学的な模様はさらに深い部分に焦点を当てているかのようだった。
「心拍も安定している。問題は見受けられないね」
「少し寝不足だけど、ね。オルドは何をしていたの?」
「ボクは君がいない間はスリープ状態になっている。君がこの世界に来ると同時に起動するんだよ」
起動──その機械的な言葉に、胸がざわめいた。
キノコ頭の《ペナテス》、ロギアの《ペナテス》、そしてオルド。
今まで出会った三体の《ペナテス》の中でも、オルドの言動や仕草には機械的な側面が際立って感じられた。
「今日はどうするんだい?」
こちらの胸の動揺など意に介さないとばかりに言葉を発する。
このAIは、一体どこまで自分のことを知っているのだろうか。
「とりあえず神父様に会いに行こう。ルクスの花壇のこと、お願いしなきゃね」
了、とだけ簡潔な返事が返ってくる。
特に提案はないようだった。
確信はなかった。
しかし神父は、新しく出来たという教会ではなく、ルクスが愛した礼拝堂にいる気がした。
何となくだが、居てくれる気がしたのだ。
「やあ、御使いさん。来ると、思っていたよ」
清潔を保たれた古い礼拝堂で、使い古された聖書を眺めていたらしい神父が穏やかな表情を向けてくる。
「あの、えっと……」
ルナシアが言葉に詰まっても、神父は急かすでもなく、ただ優しく待つ。
言葉が感情を伴って音になるのを、待っていてくれる。
「お願いが、あって。花壇なんだけど、中央の広場にある、隅の方の……」
うんうん、と頷きながら神父は彼女の声に耳を傾ける。
「昨日、お世話をする人が、その、なんて言うか……遠くへ行ってしまって、それでお世話を頼みたくて……」
そうか、と開いていた聖書をぱたんと閉じてその表紙を優しく撫でる。
「今日ね、花瓶の水が変わってなかったんだ。花も、蝋燭もね。そうか、うん。花壇の世話だね、任せてほしい。今度は、私の番だ」
そう言う神父の顔は、どこか遠くを見るようで、寂しそうで。
直接会うことのなかったルクスに、思いを馳せているのかもしれない。
「御使いさんはもう村を出るのかい?」
ルナシアは黙って頷く。
「そうか。近くに来ることがあれば、また顔を見せてくれ。これ、若い子はあまり好きじゃないかもしれないけど、持っていくといい」
神父がルナシアに近寄り、小さな包みを手渡す。
ルナシアの鼻がピクピク可愛らしく動く。
包みからは、香ばしい、しかし決して粘膜を引き裂かない優しい匂いがする。
「村の近くで取れる木の実を使った焼き菓子でね。子供の頃、好きで母がよく作ってくれた。昨日なんだか懐かしい気持ちになってね、今朝焼いてみたんだよ。母のように上手くは出来なかったが」
神父は何だか照れたような顔をして頬を搔く。
中を見てみると、少し形が歪な、優しい香りの焼き菓子が入っている。
「ありがとう……大事に食べるよ」
そう言うと神父はまた少し恥ずかしそうな、嬉しそうな顔をする。
「保存も効くから旅にはもってこいだよ。それじゃあ、気をつけて」
神父は穏やかに笑いながら手を振る。
ロギアのあの絶妙な距離感とはまた違った居心地の良さがあった。
焼き菓子の包みを抱いたまま、ルナシアは礼拝堂を後にする。
扉を閉める音が、わずかに木の柱を震わせる。
光が差し込む白い道を、彼女はゆっくりと歩き出す。
手の中の包みは、まるで心音のような温度を持っていた。
祈りの言葉も、明確な感情もそこにはない。
ただ、ありがとう、と誰にともなく呟いて、風に溶けた。
村の出口へと続く小道。
オルドは彼女の斜め後ろを、影のように歩いていた。
「……もう、ないんだね。《祈りの丘》」
ぽつりと漏らした言葉に、オルドは静かに頷いた。
「君が選んだ結果だ。それでも、いずれはルクスの消失と共に消えていたはずだけどね」
「そっか。でも、選んだ。私が、あそこを終わらせたんだね」
彼女の視線は、何もない空の一角に向けられていた。
そこにはもう、あの草原も、月光も、誰かの背中も残っていない。
けれど、記憶だけは変質しないまま、胸の奥で光を放っていた。
花壇のことを、あの人に託してよかった。
そう思えたのは──きっと、何かが報われた気がしたからだ。
その小さな安堵は、しかし決して「終わり」ではなかった。
いや、それこそが物語の、見えない歪みに差し掛かる最初の予兆だったのかもしれない。
村の風が、背中を押すようだった。
草の香りが混じった風は、朝よりも少し乾いていて、季節の移ろいを確かに運んでいた。
「行こうか、オルド」
ルナシアは足元を確かめるように一歩を踏み出す。
礼拝堂と、幻燈の村の静けさを背に、草原へとつながる道へ向かって。
「了。ここから先は、《サルタス・ウェニア》よりも戦闘の難易度が上昇する。数値にすると《サルタス・ウェニア》の1.8倍──加えて、AI行動パターンも複雑化する」
「……重たい選択よりはマシでしょ」
彼女は振り返らない。
ただ、丘を越える風の向こうに、“まだ知らぬ世界”があると信じるように歩き続ける。
「ルクスがいないからって、私の旅が止まるわけじゃない」
少しだけ目を細め、光の中へと視線を投げる。
草原の先には、戦いがある。
知らない名前のモンスターたちがいて、まだ誰も踏みしめていないルートがある。
そのすべてが、ルクスの”残響”になればいいと思った。
だから歩く。
もう祈りではなく、意思として。
刃を携えたまま、斬るために、確かめるために。
森の外、どこまでも広がる草原と長い街道。
草原は、光を孕んでいた。
風に揺れる草はまるで数千の針葉がきらめいているようで、一本一本が、命の声を持っていた。
人の手が入らぬ大地は、どこかで永遠を思わせる。
道などというものは、たまたま草が踏み倒された”痕跡”にすぎず、空と地平の間に、規則という概念はなかった。
鳥の影が遠く、斜めに横切っていく。
その羽ばたきに遅れて、風が頬を撫でる。
──うつくしい。
けれどこの「うつくしさ」が、刃の鋭さを持っていることも知っている。
ここはもう、祈りの丘ではない。
優しい言葉も、遅れて届く温もりも、この草の海には存在しない。
あるのは、遭遇と、決断と、帰還の選択だけ。
ルナシアは一歩、足を踏み出す。
草が裂け、風が押し返すように舞う。
その感触さえ、今は懐かしかった。
「でかいのがいるな」
大きな耳と小さな鼻がピクリと揺れる。
《天狐族》としての感覚が、すぐに敵を捉えた。
「四肢の欠損に気をつけて。再生には特別な治療が必要になる。それ以前に四肢を失うようなダメージを受けたら君の耐久性では耐えられない」
旅の補佐としての警告を受けて、ルナシアは黙って腰の刀を抜く。
オルドは既に一足単眼の魂測体となっていた。
「言われなくとも被弾する気はないよ。ポーション飲みたくないからね」
ポーションの代用品として用意出来た携帯食はそう多くはない。
ルナシアにとって生死や勝ち負けよりも重要な問題だ。
「今回は倒せるだけ倒して進もう。もう宿代に泣きたくはないからね。他に注意点は?」
「君は死んでも復活するけど、短時間での連続した死亡は能力の低下と、この世界の住人からの好感度低下により旅に支障が出る。現状まだそれらを回復することは出来ないよ」
「了解。どの道死ぬ気はないけどね」
勝ち負けに拘りはないが、負けるよりは勝つ方がいい。
「BUMOOOOOOHH!!!」
それは鳴き声とは言えないような叫び。
吐き出された音はルナシアの鼓膜に突き刺さる。
吠えたのは、二メートルを超える四つ脚の獣。
全身を煤のような毛で覆い、脚は逆関節。
瞳は──あきらかに“人”のものだった。
草を踏み潰しながら、音ではなく圧力で迫ってくる。
進行方向から真っ直ぐこちらに突進してくる黒牛は既にルナシアを敵と認識している。
森にいた一角兎よりも太く凶悪な二本角を向けていた。
「側面に回れルナシア。正面からでは武器が保たない」
了、とオルドに習って最低限の音だけで返事をする。
そのまま、さながら闘牛士のように黒牛の突進をヒラリと躱すと同時に、抜き身の刀を胸に向けて突き立てる。
しかし心臓から僅かに逸れた刀は胸に突き刺さったまま、黒牛にルナシアの小さな体躯ごと振り回される。
「クソッ……!」
深く突き刺さった刃は中々抜けず、暴れ回る黒牛に必死にしがみつくしかなかった。
ロデオでもしている気分だ。
「急所ってんなら、ここだって急所だろ!」
黒牛の肉に阻まれ抜けない刀から手を離し、そのまま黒牛の目玉を指で抉る。
生暖かい粘土をこねくり回すような、不快な感触に尻尾が逆立つ。
「GYUUUUUUUUTAAAAAAN!!!」
急所認定なのか、残存HPが尽きたのか、とにかく黒牛は独特な断末魔をあげながら光の残滓となって消える。
カラン、と音を立てて刀が落ちた。
「思ったより面倒な相手だな」
落ちた刀を拾い上げ、まだ鞘には納めない。
ルナシアの感覚は警鐘を鳴らし続けている。
近くに、まだ複数の──敵。
「直撃はイコール死亡を意味すると思ってね」
魂測体の梟の姿となったオルドが肩に掴まりながら警告を促す。
「わかってるよ」
風が草を揺らし、遠くから新たな気配が近づいてくる。
光の粒子が舞い踊る草原で、ルナシアは次の戦いに向けて刃を構えた。
村を出てから、まだ数十分も経っていない。
けれど既に、彼女の中で何かが変わり始めていた。
それは喪失の痛みでも、諦めの静けさでもない。
新しい物語への意志だった。
ルクスの記憶を胸に、彼女は前へと歩み続ける。
光と影が交差する、この果てしない草原を越えて。