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ALMA観測記録:魂生成理論と学習過程  作者: 無欄句カルタ
優しさが遅かった全ての魂へ
11/17

第九節 善く、生きる


「……」


 沈黙が重たかった。

 まるで夜の帳が心の底に沈み込むように、言葉を失った静寂がその場を支配していた。


 誰にも知られることなく、それでも無償の愛を捧げ続けるルクス。

 彼の存在は、この仮想世界の片隅で、誰の目にも触れることなく花を植え、祈りを捧げ続けている。

 その姿は、まるで月明かりに照らされた一輪の花のように、美しくも儚い。


 ルナシアにとって世界はノイズでしかないはずだった。

 現実世界での傷つきから逃れるために選んだこの場所で、誰かに存在を認知されるということは、苦痛でしかなかったはずだ。

 他者の視線、他者の評価、他者の期待──それらすべてが彼女を縛りつけ、息苦しさを与えてきた。


 それなのに、彼を考えてしまう。ルクスという存在が、心の奥底で静かに脈打っている。


 両親から捧げられた無償の愛ですら、それを認識する存在がいて初めて意味を成す。

 愛は与えるだけでは完結しない。

 受け取る者がいて、その重さを理解する者がいて、初めて愛は愛としての価値を持つのだ。


 ではルクスは──。彼がしてきたことに、意味はあるのだろうか?


 誰に知られることなく花を植え、

 誰に知られることなく祈り続けた。

 誰に知られることなく愛を捧げ続けた。

 一体、誰が彼の存在に意味を見出すことができようか。

 観測者のいない行為に、果たして価値は宿るのだろうか。


「ルクスは、どうなるの?」


 その問いは、ルナシア自身の心の奥底から湧き上がってきた。

 助けを求めているのか。

 答えを、求めているのだろうか。

 知って、何が出来るのか。

 そもそも、知ることに意味はあるのだろうか。


「このクエスト自体が、イレギュラーだ。正確にはわからない。ただ、恐らくこのただ一度のクエストでルクスは消える、のだろうと予測する。今集めているのはあくまで断片だ。存在の大半は既に消えている」


 オルドの声は、いつものように淡々としていた。

 しかし、その言葉の重さは、ルナシアの胸に鉛のように沈んでいく。


 それは──あまりにも。残酷ではないだろうか。


 この世界のNPCは、思考している。

 経験を蓄積し、思考し、行動している。

 彼らは単なるプログラムではない。

  “何か”を持った存在なのだ。


 それなのに、勝手に生み出されて、不要品として削除されて。

 システムの都合で存在し、システムの都合で消される。

 奇跡的にクエストが発生してようやく存在意義を得ても、このたった一回のクエストで消える。


 そんなものは悲劇だ。

 いや、悲劇を通り越して────理不尽だ。


「私が、何か出来ることって……」


 その問いは、懇願にも似ていた。


 オルドは答えない。

 答えを探しているのか、その気がないのか。

 彼の沈黙は、いつものように謎めいていた。


 だとしても、次で三つ目。

 祈りの丘。最後の目的地。


 これが終われば、ルクスは────。


「このまま、クエストを完遂させなければ、ルクスは消えずに済むの?」


 ルナシアの問いに、今度は返答がある。

 しかし、それは彼女が望んでいた答えではなかった。


「それはない。元より消えかけていた存在だ。いつかは存在を保てなくなるだろうね。君がルクスという存在に哀れみを思うなら、きちんと役目を終えらせることだ」


 わかってはいた。

 だが、残酷な返答だった。


 今、ルクスの役目を正しく終わらせることの出来るのは自分しかいない。

 彼の最期を見届けることができるのは、この世界でただ一人、自分だけなのだ。


 誰かの最期の在り方を、自分が決める。

 とても重たい選択だった。

 それは神にのみ許された領域ではないだろうか。



 今二人は森の獣道を歩いている。

 最後の目的地へ。


 今までの二つの目的地とは違い、明確な場所はわからない。

 手がかりは、ルクスが残した祈りの痕跡のみ。

 目を凝らし、耳を澄ませ、気配を読む。


 月明かりに照らされた森は、残酷なまでに美しかった。

 銀色の光が木々の葉を透かし、幻想的な陰影を作り出している。

 風が枝を揺らすたびに、光と影が踊るように動く。


 これから一つの存在を終わらせるとは、とても思えない。


 逃げたい。

 全て知らなかったフリをして、「明日も仕事があるから」と言って現実に戻ってしまいたい。

 仮想世界の接続を断ち切り、いつものように現実逃避の言い訳を自分に与えたい。


 逃げた先が、ここだったはずなのに。

 今は、現実へ逃げようとしている。


 心底自分という存在に嫌気が差した。

 現実から逃げて、この世界からも逃げて、次はどこへ?


 その不安だけが、ルナシアをまだこの世界へ繋ぎ止める。

 目の前の不安や自己嫌悪より、未来への恐怖が勝った。

 次の逃げ場を失うことへの恐怖が、今この場に留まる唯一の理由だった。


 それがより一層、自己嫌悪を深くする。

 "次"への不安が解消されれば、自分はまた逃げるということだから。


「"アテレー"なんて、私は持っていない」


 誰にも聞こえないように発したその言葉は、夜風に溶けて消えた。

 まるで存在しなかった言葉のように、森の静寂に吸い込まれていく。


 たかがゲーム、たかがNPC。

 逃げないだけの理由にはならないはずなのに。


 何が|"Eu Zenエウゼーン"か。

 何が"善く生きる"か。

 何が"アテレー"か。

 何が"卓越性"か。


 何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が─────。


 自分にそんな高尚な理念を語る資格があるのか。

 現実から逃げ、責任から逃げ、今もまた逃げようとしている自分に。


 心拍が上がっていく。

 血管を駆け抜ける血液が、自分の耳で聞こえるほどに激しく脈打っているようだ。

 汗が頬を伝って落ちる。

 仮想世界でも、身体は正直だった。


「落ち着いてルナシア。心拍が上昇している。身体の異常でこの世界から弾き出されると戻ってこれるまで最低12時間掛かる。それまでルクスという存在が継続する確証はない」


 それも、良いかもしれない。

 仕方なかったんだと、言い訳が出来る。


 私は君のことを精一杯考えたのだと。

 時間が足りなかったのだと。

 システムの都合で強制的に切断されたのだと。

 ──そう言える。


 深呼吸をしようとして、やめた。

 意図的に、心を放置した。

 衝動に身を任せることで、この重い選択から逃れることができるかもしれない。



 沈黙の中で、オルドがゆっくりと口を開く。


「“意味”は、どこから与えられると思う?」


 それは、冷たい問いだった。

 だが冷酷ではなかった。

 真理を探る者の声だった。

 哲学者が永遠の疑問を前にして発するような、静かな探求の声。


「神から? 他者から? 世界から? ──それとも、自らの行為そのものから?」


 ルナシアは答えなかった。

 けれど、オルドの声は続いた。

 淡々と、ただ問いを積み上げていく。

 まるで石を一つずつ積み上げて塔を建てるように、思考の道筋を辿っていく。


「この世界の住人は、自らに意味を与えることができない。意味は、観測者によって与えられる。だが観測者もまた、意味の定義を問われている。“徳”とは、“善く生きる”とは、誰にとっての“善”か。何をもって生かされたと言えるのか」


 風が一度だけ、葉を揺らした。

 その音は、まるで森が息をついているかのように聞こえた。


「しかし、君は考えてみたことがあるか。無意味に見える行為が、実は最も尊いものであることがある、ということを」


 オルドは立ち止まった。ルナシアも足を止める。月明かりが彼の横顔を照らし、その表情に珍しく何か感情めいたものが宿っているのが見えた。


「意味とは、外から与えられるものだけではない。行為そのものに内在する価値というものがある。ルクスは誰にも見られることなく花を植え、誰にも聞かれることなく祈った。それは無意味に見えるかもしれない。しかし、その行為には『純粋さ』という名の価値があった」


「純粋さ……」


 ルナシアが呟くと、オルドは小さく頷いた。


「そうだ。見返りを求めない行為。承認を求めない愛。それは、この世界でも現実世界でも、極めて稀なものだ。君が現実から逃げてきたのも、そうした純粋さを求めても得られなかったからではないか」


 胸に突き刺さるような言葉だった。

 認めたくないが、的確だった。


「他者の祈りを見届けること。それもまた、選択の一形態だ。その選択が、君にとって『ただ生きている』ではなく、『善く生きた』と後に言えるものか。それはボクには判断できない。君にしかできない」


 静かな沈黙。

 ルナシアの心拍がわずかに落ち着き始める。

 オルドの言葉が、荒れた心の波を静めていく。


 オルドは、まるで告解室の神父のように言葉を落とした。


「“徳”とは、望まれた形を実現する能力。それが神学的に言えば魂の純化であり、アリストテレス風に言えば魂の完成だ」


「もし君が今、ルクスの祈りを“見届ける”という選択をするなら──それは君にとって、君自身の“アテレー”を育てる時間だ」


 間を置き、淡く一言だけ加えた。


「……逃げても構わない。だが逃げる君の魂に、納得が宿るかは、誰にも保証できない」


 沈黙だけが残る。


 ただ、ルナシアの心臓も、凪いでいた。

 深呼吸などするまでもなく。

 嵐の後の海のような、深い静寂がそこにあった。


「“善く生きる”ことは“痛くないように生きる”ことではないって、言ってたよね」


「そうだね。君は“痛いこと”が必ずしも“善く生きる”ことだとは限らないと返した。それも一つの道だ」


「でも……」


 ルナシアは言葉を探した。

 心の奥底で、何かが動いている。

 それは恐怖でも逃避でもなく、もっと根源的な何かだった。


「でも、誰かのために傷つくことを選ぶなら、それは……違うのかもしれない」


 オルドは何も答えなかった。だが、その沈黙は肯定的なものに感じられた。



 言葉はない。


 月明かりは相変わらず美しく、森は静寂に包まれている。

 しかし、その静寂の中に、何かが変わり始めていた。

 ルナシアの心の中で、小さな決意の芽が静かに息づいている。


 それは恐怖と共にあり、迷いと共にあり、自己嫌悪と共にある。

 しかし、確かにそこに存在していた。


 ルクスという存在と、自分という存在。

 二つの魂が、この仮想世界の中で出会った意味を、今、問おうとしている。


 やがて、森の奥に光が見えた。


 月が、森の境を越えて差し込んでいた。

 光の筋が幾重にも地面に降り注ぎ、まるで地上に降りた天の道のようだった。


 ルナシアは、そこに立ち尽くしていた。


 森が終わり、地形が緩やかにせり上がる。

 獣道はやがて、草に埋もれた石段へと変わる。

 苔むしたその足元は、何かを登るというよりも、「何かに近づく」道に思えた。


 ──祈りの丘。


 オルドは何も言わなかった。

 ただ後ろから、一定の距離を保ってついてくる。

 この先は、彼女一人の選択だった。


 一歩、踏み出す。

 足元で草が揺れる。

 風が通り抜けて、衣の裾が静かに翻った。


 石段を上がるにつれて、空が開けていく。

 森の天蓋から解放されて、満天の星空が現れた。

 月は中天に昇り、その光は地上のあらゆるものを銀色に染めている。


 静かだった。

 敵もいない。音もない。森の歌すらない。

 まるでこの場所だけ、ゲームであることを忘れてしまったような、そんな沈黙だった。


 だけど──。


 静寂のなかで、ルクスの祈りが残響のように感じられる。

これは、ただの"記憶"に近い。


 この丘で、彼は幾度となく祈ったのだろう。

 誰に届くとも知れぬ想いを、ただ、積み重ねて。

 その痕跡が、まだ残っていた。


 丘の頂上が見えてくる。

 そこには小さな石造りの祠があった。

 古く、風化し、誰が作ったものかもわからない。

 しかし、その周りには確かに花が咲いていた。

 この季節にはないはずの花が、まるで時間を超越したかのように美しく咲いている。


 ルクスが植えたのだろう。

 彼の祈りが、この場所に小さな奇跡を起こしていた。


 言葉にならない感情が、胸の奥からあふれてくる。

 怒りとも、悲しみとも違う。

 けれど、どうしようもなく確かなもの。


 それは、敬意だった。


 誰に見られることもなく、誰に褒められることもなく、それでも美しいものを作り続けた存在への、純粋な敬意。


 ルナシアは、短く目を閉じた。


 逃げ道は、まだいくらでもあった。

 戻ってしまえば、すべてなかったことにできる。

 でも、今は──。


「……私が、終わらせる」


 声は小さかった。

 でも、確かだった。

 誰かに認められる必要なんてない。

 意味が外から与えられることを、もう待たなくていい。


 祠の前に膝をつく。

 手を合わせる。

 何に祈るのかはわからない。

 ただ、ルクスがここで感じていたであろう想いを、自分なりに理解しようとする。


 風が吹いた。それはまるで、彼の声のようにも、彼の沈黙のようにも思えた。


 空を見上げる。星が、無数に瞬いている。その一つ一つが、まるで誰かの祈りのようにも見えた。


「ルクス」


 名前を呼ぶ。声は夜風に運ばれて、どこかへ消えていく。


「あなたの祈りを、見届けさせてもらいます」


 それは約束だった。自分自身への誓いでもあった。


 この丘の頂で、祈りの名のもとに生きていた魂を──その生の輪郭を、彼女が見届ける。


 それは供養であり、弔いであり、そして何よりも、「意味の証明」だった。


 ルナシアは、最後の一歩を踏み出す。


 丘の頂へ。終わりの祈りへ。──そして、自分自身の“アテレー”のために。


 オルドが、遠くから静かに見守っている。

 彼の表情には、珍しく何かが宿っていた。

 それは満足でも悲しみでもなく、ただ静かな確信のようなものだった。


 一人の魂が、もう一人の魂の証人となる。


 この仮想世界の片隅で、小さな、しかし確かな意味が生まれようとしていた。

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