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ALMA観測記録:魂生成理論と学習過程  作者: 無欄句カルタ
優しさが遅かった全ての魂へ
10/17

第八節 無色の祈り


 村の北側。

 鬱蒼とした森の入口に、小さな礼拝堂がひっそりと佇んでいた。


 石造りの壁には深いひびが走り、屋根の苔が季節の記憶を重ねている。

 夕暮れの光が木々の隙間から差し込み、礼拝堂の足元に長い影を落としていた。

 その影すら、ここではひとつの祈りのように思えた。


 古い石畳の道は、所々に雑草が芽を出し、時の流れを物語っている。

 けれど不思議なことに、礼拝堂へと続く最後の十歩ほどは、誰かの手によって丁寧に掃き清められていた。

 枯れ葉ひとつ落ちていない。


 石畳の隙間から顔を出した小さな野花さえ、まるで意図的に残されたかのように美しく咲いている。

 誰かが、この花たちにも愛情を注いでいたのだろう。


 ルナシアは立ち止まり、重厚な木扉に手をかける。

 ざらついた木目、冷たい金具。かすかに指先が震える。


 ——この扉は、幾度となく誰かの手によって開かれてきた。


 その気配が、指先に沁み込んでいた。

 扉の取っ手は、長年の使用で磨り減り、丸みを帯びている。

 それでいて、最近も頻繁に使われているような、温かみがあった。

 金属なのに、まるで生きているかのような感触だった。


「ここが……眠りの礼拝堂か」


 背後で、オルドが息をひそめるように呟く。音量は変わらないのに、どこか、それは“沈黙に寄り添う声”だった。

 森の静寂が、言葉を包み込んでいる。風もない。鳥の声もない。

 まるで、時間そのものが祈りの中で止まっているかのようだった。


 ルナシアはゆっくりと扉を押し開ける。

 きぃ……という長く低い音が、空気を破り、礼拝堂の中へと導く。


 その音は、単なる軋みではなかった。

 長年の使用で馴染んだ、どこか懐かしい響きだった。

 まるで、古い友人に再会した時のような、温かな音色だった。


 そこは、蝋燭ひとつに照らされた薄明かりの空間だった。


 鉄製の燭台に灯された小さな炎が、石壁に揺らぐ影を映している。

 その影は、十字を濃くしたり掠れさせたりしながら、呼吸のように揺れていた。

 壁の彫刻も、揺れる光によって表情を変え、まるで生きているかのように見える。


 天井のアーチには、時代を感じさせる美しい装飾が施されている。

 だが、それらもまた、手入れが行き届いていた。

 蜘蛛の巣ひとつない。


 祭壇の上には、一輪の白い花。

 花弁には露が残り、その白さはまるで——ここに咲くために選ばれたかのようだった。


 木製の長椅子が左右に整然と並び、背もたれには手垢ひとつついていない。

 床の石材も、隅々まで清められている。

 空気には、石鹸の香りとかすかな花の匂いが混じり、誰かが最近ここを手入れしたことを物語っていた。


 窓のステンドグラスも、一枚一枚が丁寧に磨かれている。

 月明かりがそこを通り抜けて、虹色の光を床に描いていた。

 その光さえも、まるで祈りの一部のように美しかった。


「誰か……つい、さっき……?」


 ルナシアは静かに歩を進め、花にそっと触れる。

 その感触はほんのり温かくて、それは植物ではなく、“誰かの時間”の名残のようだった。


 花の茎は丁寧に切り揃えられ、小さな陶器の花瓶に美しく活けられている。

 水も新しく、透明で澄んでいる。

 まるで、数時間前に誰かが心を込めて用意したかのように。


 花瓶の底には、小さな石が敷き詰められている。

 それらの石も、ひとつひとつが選び抜かれた美しいものだった。

 川で拾った丸い石、森で見つけた光る石。

 誰かが、長い時間をかけて集めたものだろう。


「変だね」

 オルドの声が背後から響く。


「今はもう、村人は誰も来ていないはずだ。あの花も……とっくに萎れているはずなんだ」


 なのに——枯れていない。

 蝋燭も、消えていない。

 埃はなく、家具も整然としている。

 まるで、昨日誰かが整えていったように。


 祭壇の前に置かれた小さな聖書は、特定のページが開かれていた。

 ルナシアが覗き込むと、それは「愛」について記された箇所だった。

 文字は薄れているが、丁寧に手入れされている。

 ページの端には、誰かが残した小さな押し花が挟まれていた。


 聖書の表紙は、使い込まれて柔らかくなっている。

 だが、破れやシミはひとつもない。

 大切に、本当に大切に扱われてきたことが分かる。


 そのとき、奥の扉が音もなく開いた。


 姿を現したのは、先ほど伝言を届けてきた神父だった。

 黒い修道服を引きずるように歩み、柔らかな瞳でルナシアを見つめる。


「ようこそ……御使いさん。来てくれたんだね」


 彼は祭壇の花に視線を落とし、静かに言葉を紡ぐ。


「不思議だろう? たまに、こうして花が供えられているんだ。誰が置いたのか、私も知らないんだよ」


 そして、礼拝堂の隅へと視線を向ける。


「掃除が終わっていたり、扉が閉じられていたり……最初は気味が悪かった。でも、最近はね。誰かがまだ、ここを愛してくれているんだと思えるようになったんだ」


 神父は窓辺へと歩み寄る。


「この礼拝堂は、もう村では使われていない。新しい教会が出来てね。私も、週に一度見回りに来るだけのはずなんだけど……」


 彼の声には、困惑と同時に、深い感謝が込められていた。


「でも毎回、こうして美しく整えられている。まるで、誰かがずっとここで祈り続けているかのように」


 静かに、ルナシアは頷く。


 そして、光が揺れたその瞬間——


 次の瞬間、視界の端に、淡い光が差した。


 ルナシアにはわかった。これは”断片”だ。



 光が、祈りのように揺れていた。

 それは、声も名も持たない魂の輪郭。

 毎日ここを清め、花を供え、言葉なき祈りを捧げ続けた者の記憶。


 その中心に、ひとつの影が浮かび上がる。

 人の形をしているが、空気より淡く、火よりも儚い。


 ——それが、ルクスだった。


 彼は祭壇の前に跪き、静かに目を閉じて祈っていた。

 声はない。対象も定かではない。

 けれど、その動きには“毎日祈り続けてきた者”の所作があった。


 蝋燭を取り換え、布の皺を整え、埃を払う。

 誰にも求められず、誰にも気づかれないままに。


 記憶の中で、季節が巡っていく。

 春は菜の花を携え、夏は白い野薔薇を飾る。

 秋は色とりどりの落ち葉を集め、

 冬は常緑の枝を供える。

 どんな花でも、ルクスの手にかかると、まるで宝石のように美しく輝いた。


 彼は花を活ける前に、必ず祭壇に向かって一礼した。

 そして、花に向かっても頭を下げる。

 植物への敬意と、神への感謝を込めて。


 雨の日は、濡れた石畳を丁寧に拭き取る。

 雪の日は、入り口の雪を掃き清める。

 暑い日は、花に水をたっぷりと与える。

 寒い日は、そっと風に蓋をする。


 嵐の夜も、晴れた朝も、ルクスは変わらずここにいた。

 ただ、この場所が清らかであるように。

 それだけを願って。


 音のない日々。名前もない時間。

 それでも彼は、微笑んでいた。


 時には、小さな動物たちが迷い込んでくることもあった。

 傷ついた鳥、雨に濡れた子猫。

 ルクスは彼らにも優しく接し、暖かい場所を提供した。

 動物たちも、彼の存在を恐れることはなかった。


 ルクスは、時々小さな聖書を開き、声に出さずに読んでいた。

 文字を目で追いながら、心の中で言葉を反芻する。

 その表情は、まるで古い友人と会話しているかのように穏やかだった。


「……今日も、誰かが迷わず帰ってこられますように」


 読唇のように、その言葉がルナシアの心に届く。

 胸が軋む。孤独でも、意味がなくても、それでも祈る——


 それが、彼の“存在理由”だった。


 


 記憶の中で、最後の朝が訪れる。


 ルクスはいつものように現れ、花を替え、椅子を整える。

 そして、いつもより少しだけ長く、祭壇の前に膝をついた。


 その日の花は、特別に美しかった。

 彼が村の花壇で大切に育てた鈴蘭だった。

 純白の花弁が、朝日を受けて輝いている。


 やがて、静かに立ち上がると、祭壇の花を見つめる。

 その顔には、満足と、深い安らぎがあった。


「……ありがとう」


 はじめて、彼の声が、確かに聞こえた。


「祈る意味がなくなっても……祈りたくなる場所があるって、幸せだな」


 そして、彼は消えていった。

 夕陽に溶けるように、静かに。

 けれど、その温もりだけが、確かに残っていた。


 光の粒子が、ゆっくりと舞い上がる。

 それは、彼の最後の祈りのかけらのようだった。

 粒子は祭壇の花に降りかかり、一瞬だけ花を金色に染めた。


 


【未登録NPC:ルクスの断片(2/3)を取得しました】

【幻燈の夢:再構築進行中】

【ルクスの記憶──《見えない祈りの守り手》を記録】




 記憶が収束し、光が消える。


 ルナシアは、そっと手を合わせた。


「……あなたの祈りが、確かにここにあったこと。私が覚えておく」


 祭壇の花がふわりと揺れ、蝋燭の灯が優しく瞬いた。

 まるで、見えない誰かが「ありがとう」と応えているかのように。


 神父が静かに言葉を落とす。


「御使いさん……あなたには、見えていたんだね。私たちには見えない何かが」


「とても優しい人だよ。この場所を、心から愛していた」


 ルナシアの声は、確信に満ちていた。


「そうか……それなら、私もよかった。この礼拝堂が、本当に愛されていたと知ることができて」


 神父は安堵の表情を浮かべる。


「たとえ記録に残らなくても、想いは残る。祈りも、きっと」


「……ああ、そうだね。これからも、この場所を大切にしていくよ。見えない誰かさんと一緒に」


 神父は祭壇に近づき、花瓶の水を確認する。

 まだ新しい。透明で、冷たい。


「不思議だね。この水、今朝替えたばかりのように新しい。でも、私は先週から来ていないのに」


 彼は微笑んで、十字を切る。


「見えない守護者に、感謝の祈りを捧げよう」




 礼拝堂を出たルナシアは、小道の途中で振り返った。

 蝋燭の灯が、微かに揺れていた。

 石壁に映る十字の影が、静かに呼吸していた。

 祭壇の花が、まるで手を振るように揺れていた。


 扉が閉まる音。

 それは、終わりの音ではなかった。


 ——新しい始まりの音だった。


 森の木々も、風に揺れながら、まるで礼拝堂を見守っているかのように見えた。

 鳥たちのさえずりが、静かな賛美歌のように響いている。


 オルドが振り返る。


「あの神父さん、きっと気づいてるよね。見えない誰かがいるって」


「うん。でも、恐れていない。感謝している」


「それって、すごいことだよね。見えないものを信じて、愛するって」


 ルナシアは空を見上げる。夕暮れの雲が、まるで天使の羽根のように美しく輝いている。


「愛の観測はまだ不十分だ。そういうこともある、と記録しておくよ」


 


 翌朝。


 神父は、ふと、礼拝堂を訪れる。


 しかし、祭壇の上に——花はなかった。

 蝋燭の芯は冷え、水も昨日のままだった。


 静寂が、礼拝堂を包み込む。


 神父は、ゆっくりと歩みを止めた。

 視線は花瓶の上で止まり、そのまま動かない。

 胸の奥に、冷たいものがじわりと染みていく。


「……そうか」


 声はかすれて、祈りのように空気に溶けていった。

 

 “それ”を理解するのは、自分が思っていたよりも重たかった。

 

 昨日まで、確かにあった気配。

 祈るように整えられていた空間。

 見えない手によって守られてきた、あたたかな日常。


 それが、もう……戻ってこないと知ることが、これほどまでに、苦しいとは。


 涙は出ない。

 けれど、胸の奥が、静かに沈んでいく。

 世界から色が抜け落ちていくような、そんな感覚。


 昨日、御使いの少女が見たもの。

 それが、確かにここにあった“祈り”だったのだと——ようやく、実感として胸に届いてくる。


 神父は、静かに祭壇の前に跪いた。


「ありがとう……本当に、ありがとう。……あなたがここにいてくれて、どれほど救われていたか……」


 その言葉は、誰にも届かないかもしれない。

 けれど、言わずにはいられなかった。

 祈りのように、魂からこぼれ落ちた。


 ゆっくりと立ち上がる。

 手を動かし、水を替え、蝋燭に新しい火を灯す。

 花瓶を丁寧に洗いながら、その手つきには、祈りにも似た優しさが宿っていた。


「……これからは、私が続けていくよ。あなたの祈りの、続きを」


 神父は扉を開け、森の中を静かに歩く。

 足元に、小さな白い花が咲いていた。

 そっとそれを摘み、礼拝堂へと戻る。


 祭壇の前に立ち、花を活けながら、彼はわずかに微笑んだ。


「上手じゃないけれど……きっと、君は許してくれるのだろうね」


 誰もいない礼拝堂で、蝋燭の炎がかすかに揺れる。

 それはまるで、「ありがとう」と「さようなら」が一つになった、最後の祈りのようだった。


 同時に、それは——新しい祈りの始まりでもあった。


 見えない愛は、確かに引き継がれていく。

 形を変えながら、それでも変わらない想いとともに。


 礼拝堂は、今日も静かに呼吸している。

 新しい守り手と、共に在りながら。

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