第八節 無色の祈り
村の北側。
鬱蒼とした森の入口に、小さな礼拝堂がひっそりと佇んでいた。
石造りの壁には深いひびが走り、屋根の苔が季節の記憶を重ねている。
夕暮れの光が木々の隙間から差し込み、礼拝堂の足元に長い影を落としていた。
その影すら、ここではひとつの祈りのように思えた。
古い石畳の道は、所々に雑草が芽を出し、時の流れを物語っている。
けれど不思議なことに、礼拝堂へと続く最後の十歩ほどは、誰かの手によって丁寧に掃き清められていた。
枯れ葉ひとつ落ちていない。
石畳の隙間から顔を出した小さな野花さえ、まるで意図的に残されたかのように美しく咲いている。
誰かが、この花たちにも愛情を注いでいたのだろう。
ルナシアは立ち止まり、重厚な木扉に手をかける。
ざらついた木目、冷たい金具。かすかに指先が震える。
——この扉は、幾度となく誰かの手によって開かれてきた。
その気配が、指先に沁み込んでいた。
扉の取っ手は、長年の使用で磨り減り、丸みを帯びている。
それでいて、最近も頻繁に使われているような、温かみがあった。
金属なのに、まるで生きているかのような感触だった。
「ここが……眠りの礼拝堂か」
背後で、オルドが息をひそめるように呟く。音量は変わらないのに、どこか、それは“沈黙に寄り添う声”だった。
森の静寂が、言葉を包み込んでいる。風もない。鳥の声もない。
まるで、時間そのものが祈りの中で止まっているかのようだった。
ルナシアはゆっくりと扉を押し開ける。
きぃ……という長く低い音が、空気を破り、礼拝堂の中へと導く。
その音は、単なる軋みではなかった。
長年の使用で馴染んだ、どこか懐かしい響きだった。
まるで、古い友人に再会した時のような、温かな音色だった。
そこは、蝋燭ひとつに照らされた薄明かりの空間だった。
鉄製の燭台に灯された小さな炎が、石壁に揺らぐ影を映している。
その影は、十字を濃くしたり掠れさせたりしながら、呼吸のように揺れていた。
壁の彫刻も、揺れる光によって表情を変え、まるで生きているかのように見える。
天井のアーチには、時代を感じさせる美しい装飾が施されている。
だが、それらもまた、手入れが行き届いていた。
蜘蛛の巣ひとつない。
祭壇の上には、一輪の白い花。
花弁には露が残り、その白さはまるで——ここに咲くために選ばれたかのようだった。
木製の長椅子が左右に整然と並び、背もたれには手垢ひとつついていない。
床の石材も、隅々まで清められている。
空気には、石鹸の香りとかすかな花の匂いが混じり、誰かが最近ここを手入れしたことを物語っていた。
窓のステンドグラスも、一枚一枚が丁寧に磨かれている。
月明かりがそこを通り抜けて、虹色の光を床に描いていた。
その光さえも、まるで祈りの一部のように美しかった。
「誰か……つい、さっき……?」
ルナシアは静かに歩を進め、花にそっと触れる。
その感触はほんのり温かくて、それは植物ではなく、“誰かの時間”の名残のようだった。
花の茎は丁寧に切り揃えられ、小さな陶器の花瓶に美しく活けられている。
水も新しく、透明で澄んでいる。
まるで、数時間前に誰かが心を込めて用意したかのように。
花瓶の底には、小さな石が敷き詰められている。
それらの石も、ひとつひとつが選び抜かれた美しいものだった。
川で拾った丸い石、森で見つけた光る石。
誰かが、長い時間をかけて集めたものだろう。
「変だね」
オルドの声が背後から響く。
「今はもう、村人は誰も来ていないはずだ。あの花も……とっくに萎れているはずなんだ」
なのに——枯れていない。
蝋燭も、消えていない。
埃はなく、家具も整然としている。
まるで、昨日誰かが整えていったように。
祭壇の前に置かれた小さな聖書は、特定のページが開かれていた。
ルナシアが覗き込むと、それは「愛」について記された箇所だった。
文字は薄れているが、丁寧に手入れされている。
ページの端には、誰かが残した小さな押し花が挟まれていた。
聖書の表紙は、使い込まれて柔らかくなっている。
だが、破れやシミはひとつもない。
大切に、本当に大切に扱われてきたことが分かる。
そのとき、奥の扉が音もなく開いた。
姿を現したのは、先ほど伝言を届けてきた神父だった。
黒い修道服を引きずるように歩み、柔らかな瞳でルナシアを見つめる。
「ようこそ……御使いさん。来てくれたんだね」
彼は祭壇の花に視線を落とし、静かに言葉を紡ぐ。
「不思議だろう? たまに、こうして花が供えられているんだ。誰が置いたのか、私も知らないんだよ」
そして、礼拝堂の隅へと視線を向ける。
「掃除が終わっていたり、扉が閉じられていたり……最初は気味が悪かった。でも、最近はね。誰かがまだ、ここを愛してくれているんだと思えるようになったんだ」
神父は窓辺へと歩み寄る。
「この礼拝堂は、もう村では使われていない。新しい教会が出来てね。私も、週に一度見回りに来るだけのはずなんだけど……」
彼の声には、困惑と同時に、深い感謝が込められていた。
「でも毎回、こうして美しく整えられている。まるで、誰かがずっとここで祈り続けているかのように」
静かに、ルナシアは頷く。
そして、光が揺れたその瞬間——
次の瞬間、視界の端に、淡い光が差した。
ルナシアにはわかった。これは”断片”だ。
光が、祈りのように揺れていた。
それは、声も名も持たない魂の輪郭。
毎日ここを清め、花を供え、言葉なき祈りを捧げ続けた者の記憶。
その中心に、ひとつの影が浮かび上がる。
人の形をしているが、空気より淡く、火よりも儚い。
——それが、ルクスだった。
彼は祭壇の前に跪き、静かに目を閉じて祈っていた。
声はない。対象も定かではない。
けれど、その動きには“毎日祈り続けてきた者”の所作があった。
蝋燭を取り換え、布の皺を整え、埃を払う。
誰にも求められず、誰にも気づかれないままに。
記憶の中で、季節が巡っていく。
春は菜の花を携え、夏は白い野薔薇を飾る。
秋は色とりどりの落ち葉を集め、
冬は常緑の枝を供える。
どんな花でも、ルクスの手にかかると、まるで宝石のように美しく輝いた。
彼は花を活ける前に、必ず祭壇に向かって一礼した。
そして、花に向かっても頭を下げる。
植物への敬意と、神への感謝を込めて。
雨の日は、濡れた石畳を丁寧に拭き取る。
雪の日は、入り口の雪を掃き清める。
暑い日は、花に水をたっぷりと与える。
寒い日は、そっと風に蓋をする。
嵐の夜も、晴れた朝も、ルクスは変わらずここにいた。
ただ、この場所が清らかであるように。
それだけを願って。
音のない日々。名前もない時間。
それでも彼は、微笑んでいた。
時には、小さな動物たちが迷い込んでくることもあった。
傷ついた鳥、雨に濡れた子猫。
ルクスは彼らにも優しく接し、暖かい場所を提供した。
動物たちも、彼の存在を恐れることはなかった。
ルクスは、時々小さな聖書を開き、声に出さずに読んでいた。
文字を目で追いながら、心の中で言葉を反芻する。
その表情は、まるで古い友人と会話しているかのように穏やかだった。
「……今日も、誰かが迷わず帰ってこられますように」
読唇のように、その言葉がルナシアの心に届く。
胸が軋む。孤独でも、意味がなくても、それでも祈る——
それが、彼の“存在理由”だった。
記憶の中で、最後の朝が訪れる。
ルクスはいつものように現れ、花を替え、椅子を整える。
そして、いつもより少しだけ長く、祭壇の前に膝をついた。
その日の花は、特別に美しかった。
彼が村の花壇で大切に育てた鈴蘭だった。
純白の花弁が、朝日を受けて輝いている。
やがて、静かに立ち上がると、祭壇の花を見つめる。
その顔には、満足と、深い安らぎがあった。
「……ありがとう」
はじめて、彼の声が、確かに聞こえた。
「祈る意味がなくなっても……祈りたくなる場所があるって、幸せだな」
そして、彼は消えていった。
夕陽に溶けるように、静かに。
けれど、その温もりだけが、確かに残っていた。
光の粒子が、ゆっくりと舞い上がる。
それは、彼の最後の祈りのかけらのようだった。
粒子は祭壇の花に降りかかり、一瞬だけ花を金色に染めた。
【未登録NPC:ルクスの断片(2/3)を取得しました】
【幻燈の夢:再構築進行中】
【ルクスの記憶──《見えない祈りの守り手》を記録】
記憶が収束し、光が消える。
ルナシアは、そっと手を合わせた。
「……あなたの祈りが、確かにここにあったこと。私が覚えておく」
祭壇の花がふわりと揺れ、蝋燭の灯が優しく瞬いた。
まるで、見えない誰かが「ありがとう」と応えているかのように。
神父が静かに言葉を落とす。
「御使いさん……あなたには、見えていたんだね。私たちには見えない何かが」
「とても優しい人だよ。この場所を、心から愛していた」
ルナシアの声は、確信に満ちていた。
「そうか……それなら、私もよかった。この礼拝堂が、本当に愛されていたと知ることができて」
神父は安堵の表情を浮かべる。
「たとえ記録に残らなくても、想いは残る。祈りも、きっと」
「……ああ、そうだね。これからも、この場所を大切にしていくよ。見えない誰かさんと一緒に」
神父は祭壇に近づき、花瓶の水を確認する。
まだ新しい。透明で、冷たい。
「不思議だね。この水、今朝替えたばかりのように新しい。でも、私は先週から来ていないのに」
彼は微笑んで、十字を切る。
「見えない守護者に、感謝の祈りを捧げよう」
礼拝堂を出たルナシアは、小道の途中で振り返った。
蝋燭の灯が、微かに揺れていた。
石壁に映る十字の影が、静かに呼吸していた。
祭壇の花が、まるで手を振るように揺れていた。
扉が閉まる音。
それは、終わりの音ではなかった。
——新しい始まりの音だった。
森の木々も、風に揺れながら、まるで礼拝堂を見守っているかのように見えた。
鳥たちのさえずりが、静かな賛美歌のように響いている。
オルドが振り返る。
「あの神父さん、きっと気づいてるよね。見えない誰かがいるって」
「うん。でも、恐れていない。感謝している」
「それって、すごいことだよね。見えないものを信じて、愛するって」
ルナシアは空を見上げる。夕暮れの雲が、まるで天使の羽根のように美しく輝いている。
「愛の観測はまだ不十分だ。そういうこともある、と記録しておくよ」
翌朝。
神父は、ふと、礼拝堂を訪れる。
しかし、祭壇の上に——花はなかった。
蝋燭の芯は冷え、水も昨日のままだった。
静寂が、礼拝堂を包み込む。
神父は、ゆっくりと歩みを止めた。
視線は花瓶の上で止まり、そのまま動かない。
胸の奥に、冷たいものがじわりと染みていく。
「……そうか」
声はかすれて、祈りのように空気に溶けていった。
“それ”を理解するのは、自分が思っていたよりも重たかった。
昨日まで、確かにあった気配。
祈るように整えられていた空間。
見えない手によって守られてきた、あたたかな日常。
それが、もう……戻ってこないと知ることが、これほどまでに、苦しいとは。
涙は出ない。
けれど、胸の奥が、静かに沈んでいく。
世界から色が抜け落ちていくような、そんな感覚。
昨日、御使いの少女が見たもの。
それが、確かにここにあった“祈り”だったのだと——ようやく、実感として胸に届いてくる。
神父は、静かに祭壇の前に跪いた。
「ありがとう……本当に、ありがとう。……あなたがここにいてくれて、どれほど救われていたか……」
その言葉は、誰にも届かないかもしれない。
けれど、言わずにはいられなかった。
祈りのように、魂からこぼれ落ちた。
ゆっくりと立ち上がる。
手を動かし、水を替え、蝋燭に新しい火を灯す。
花瓶を丁寧に洗いながら、その手つきには、祈りにも似た優しさが宿っていた。
「……これからは、私が続けていくよ。あなたの祈りの、続きを」
神父は扉を開け、森の中を静かに歩く。
足元に、小さな白い花が咲いていた。
そっとそれを摘み、礼拝堂へと戻る。
祭壇の前に立ち、花を活けながら、彼はわずかに微笑んだ。
「上手じゃないけれど……きっと、君は許してくれるのだろうね」
誰もいない礼拝堂で、蝋燭の炎がかすかに揺れる。
それはまるで、「ありがとう」と「さようなら」が一つになった、最後の祈りのようだった。
同時に、それは——新しい祈りの始まりでもあった。
見えない愛は、確かに引き継がれていく。
形を変えながら、それでも変わらない想いとともに。
礼拝堂は、今日も静かに呼吸している。
新しい守り手と、共に在りながら。