第5話 ― 消えた教室
「何度も繰り返される道の中で、答えはまだ姿を見せない。」
アオイは目を開けた。窓から差し込む太陽の光が、部屋を正確な角度で照らしていた。まるで、決して変わらない儀式のように。 光の温もりと、まだ冷たいベッドの片側。そのコントラストが、空間を二つの世界に分けているようだった。
目覚まし時計は必要なかった。鳴る前に、もう目が覚めていた。
階下から、母の声がいつものように響く。少し遠く、少し曖昧に。 「アオイ、上着忘れないで。夕方は冷えるよ」
アオイは軽く頷いて答えた。 「うん、わかった」
階段をゆっくり降りる。足音は心臓の鼓動と同じくらい馴染んでいた。 母は庭を掃いていた。乾いた地面をこする箒の音は、機械的で、どこか催眠的だった。
門を開けると、軋む音がいつも通りに鳴った。隣の黄色い家の犬も、昨日と同じタイミングで吠える。 アオイはちらりと見ただけで、特に何も思わなかった。ただ、記憶に刻んだ。
学校へ向かう道。木々の葉がスローモーションのように揺れている。 アオイは、懐かしさと違和感が混ざった奇妙な感覚を覚えた。すべてが見覚えあるのに、どこか…違っていた。
学校に着くと、予想外のことに気づく。教室の番号が入れ替わっていた。 廊下は変わらないはずなのに、扉の位置が「昨日」の記憶と一致しない。
気づかぬうちに、アオイはレンの教室に入ってしまった。 本来いるはずのない場所。第一章と同じ、あの間違い。
レンは彼女を見て、驚くことなく立ち止まった。 教室の先生も、一瞬だけ視線を向ける。
二人の間に流れる沈黙は重く、語られない問いで満ちていた。 アオイは、この奇妙な繰り返しの重さを感じた。世界が凍りつき、何かを待っているようだった。
休み時間、アオイは庭へ向かった。そこには、いつものベンチに座るレンの姿。 彼のノートは開かれ、無数のメモが広がっていた。
レンは彼女を見て、真剣な表情で言った。 「学校が…再構成されてる気がする」 ノートをめくりながら続ける。 「教室の入れ替えだけじゃない。空間そのものが、内側から変わってる。まだ、パターンは掴めてないけど」
アオイは隣に座り、興味深そうに聞いた。 「壁が動いてるみたいな感じ?」
「そう。しかも、俺たちはそのループの中に閉じ込められてる気がする」 レンの目は、謎への興奮で輝いていた。
アオイは昨日見つけた手紙を取り出す。 丁寧に折りたたまれ、リュックのポケットにしまってあった。
「この手紙も関係あるかも。誰かが何かを伝えようとして…途中で止めたみたい」
レンは手紙を受け取り、不揃いな文字をじっと見つめる。 「ますます謎が深まるな。夢の世界とこの場所が…混ざり始めてるのかも」
「夢の中の教室を見つけられたら、何かが繋がる気がする」
二人はしばらく黙ったまま、言葉よりも深い視線を交わす。
柔らかな風が葉を揺らす。 アオイは、何か新しいものが芽生える感覚を覚えた。 それは、二人の間に走る微かな電流のような繋がり。
レンは視線を逸らしたが、口元の小さな笑みが、心の内を語っていた。
アオイはリュックを閉じて言った。 「夢の中の教室を探そう。“昨日”は二階にあったはず」
レンは頷き、すでにノートを手にしていた。
休み時間の後、教室には戻らず、アオイとレンは一緒に学校を探索することにした。
階段を上がり、二階へと向かう。 でも、青い教室は、あるはずの場所にもうなかった。
廊下は様子が違っていた。扉の位置が変わり、壁もずれているように見えた。
アオイは窓のそばで立ち止まる。そこには、青い小鳥が窓辺にとまっていた。
「この鳥、見たことある?」アオイが尋ねる。
レンは目を細めて、初めて本当に見たように答えた。 「うん…いつもそこにいる。でも、飛ばない。場所も変わらない」
彼は窓に近づき、鳥をじっと見つめる。 「何か変だ。まるで…閉じ込められてるみたいだ」
アオイは黙って見守る。
「昨日、ある女の子がこの鳥に手を伸ばしてた。まるで、自分のものみたいに」
レンはゆっくりと顔を向ける。
鳥は二人を見返す。でも、動かない。
階下へ降りる途中、アオイは段差でつまずいた。
レンは小さく笑った。楽しそうな、くすくすとした笑い。
アオイは彼を見つめ、微笑み返す。
その瞬間、言葉にできない何かが空気に漂った。
彼女は、心の奥で何かが目覚めるのを感じた。 それを皮肉な笑みで隠そうとする。
「何がおかしいの?」と挑発するように言うと、レンはさらに笑みを深めた。
二人は教室を探し続ける。 廊下はどんどん迷路のようになっていく。
時間は伸びていくように感じられ、 この場所が普通のルールに従っていないことが、ますます明らかになっていった。
彼らは歩き続ける。 廊下は一歩ごとに形を変えるようで、まるで学校そのものが生きていて、二人の周囲を再構成しているかのようだった。
レンは奇妙な分かれ道の前で立ち止まった。 以前は壁だった場所に、まったく同じ扉が二つ並んでいる。
「これは…迷路になってきたな」彼はつぶやいた。
アオイは周囲を見回す。 「これ、夢で見た?」
レンは少し考えてから答える。 「正確には違う。でも、目を閉じると、終わらない廊下が見えることがある。 この場所が、何かを隠そうとしてるみたいに」
彼はノートを開き、即席の地図を描き始めた。 「通った場所を記録しないと、同じところに戻ってしまうかもしれない」
レンはノートをゆっくり閉じる。 まるで、迷路をその中に閉じ込めようとしているかのように。
アオイは頷いた。空間が折り重なっていく感覚を、肌で感じながら。
レンは腕時計を見て、眉をひそめる。
「もう帰る時間か…」 時間の感覚を失っていたことに、少し驚いたようだった。
アオイも頷く。好奇心はまだ残っていたが、少し疲れも感じていた。
二人はもう一度、夢の中の青い教室を探した。 でも、痕跡すら見つからなかった。まるで完全に消えてしまったかのように。
チャイムが鳴り、校舎に響き渡る。 それは、今日の授業の終わりを告げる音だった。
二人は階段を降り始めた。
アオイは気を抜いて、また階段でつまずいた。 レンはすぐに手を伸ばし、彼女の腕を支えてバランスを取らせた。
でも今回は、何かが目に留まった。 段の隅に、青みがかった線があった。 ほとんど見えないほど薄く、まるで誰かがそこに新しい絵の具をこすりつけたような跡。
レンもそれを見て、眉をひそめる。 「これ…前からあった?」
アオイは首を振る。腕に残る彼の手の感触をまだ感じていた。
一瞬、二人の視線が重なる。 レンは顔を赤らめ、すぐに腕を離して目をそらした。
アオイは軽く笑った。自然で、柔らかな笑み。 「ありがとう、レン」 そう言って、微笑む。
レンは控えめに笑い返す。 でも、視線はまだ青い線に向けられていた。 まるで、それがただの偶然ではないかのように。
一階に着くと、奇妙な一日が、少しだけ普通に戻ったような気がした。
アオイは学校を出る。 でも、謎の重みはまだ心に残っていた。
通学路では、すべてが奇妙なほど正確に繰り返されていた。
古い自転車を押す老人が、ゆっくりと通り過ぎる。 ハンドルには袋がぶら下がっている。
犬たちは、いつものように塀の向こうで吠えていた。
家に着くと、門の軋む音が耳に馴染んだ。 それは、予想通りの音だった。
母はリビングにいた。テレビを見ている。 画面には、いつもの司会者が映っていた。 その目は、どこか虚ろだった。
アオイはそれに気づいたが、何も言わなかった。
静かに階段を上がり、自分の部屋へ。
スマホに、新しいメッセージが届いていた。
いつもの友達から。
「今日の授業、退屈だったね」
同じ言葉。
同じ時間。
アオイはすぐには返信しなかった。
その言葉の使い方に、どこか既視感を覚えた。
少ししてから、適当な絵文字を送った。
窓の外を見る。
アオイは目を閉じた。
部屋の中に、静寂が満ちていく。
そして、あの繰り返しのサイクルが、また始まろうとしていた。
すべてが繰り返されるわけではない。 でも、繰り返されるものには、意味があるのかもしれない。
アオイとレンが見たもの、感じたもの、そして見逃したもの。 それらは、夢と現実の境界に浮かぶ、痕跡だった。
答えはまだ遠い。 でも、探すことそのものが、物語を進めていく。
静けさの中で、誰かが囁く。 「すべての扉が、開いている必要はない――」
そして、次のページへと続いていく。