9 婚約破棄
大広間を見下ろす位置にノエラン・エグレイドが現れた。寄り添うのは婚約者のセレーナさんではなく、現在の想い人であるナージャだ。
来場者が二人に注目する。会場が静まり返った。期待しているのだ。間もなく告げられる言葉を。
どれだけ冷たく言い放ち、どれだけ相手を傷つけるかに注目が集まる。
泣くのはいつも格下貴族の女性。涙をハンカチで隠し、足早に広間から逃げ出す。観客は涙に濡れた悲劇を、至高の娯楽として噛みしめ、心で喝采を送る。
そんな狂った現実が間もなく、ノエランの口から紡ぎ出される。
セレーナ様が俯き、拳を握った。肩を震わせているのが分かる。
「ここに、婚約破棄を宣言する」
投げた石が波紋を広げるように、会場の空気が震えた。
私は、ゆっくりと二度瞬きをした。必要な時間だった。
声の主を探す。
視線をノエランから右へ移した。階段を上った位置にイズルがいた。ノエランを含めて、全員が彼に視線を向けていた。
イズルの声が、静けさの漂う会場中に反響していた。
え?
思考が追いつかない。
何を言ったの、こいつ?
イズルが婚約破棄した!
「あれ、聞こえなかったか?」
イズルは廊下中央のノエランを指差す。
「お前に婚約破棄を宣言する!」
どうして、あなたがその言葉を言うの。
ノエランが婚約破棄を宣言して、私が傷ついたセレーナ様を連れ出す手はずだ。
イズルがノエランに婚約破棄なんて意味が分からない。
「お前が振られたんだよ。な、悲劇のヒーロー」
「無礼者!」
ノエランの声が会場を貫いた。
「かわいそうに。同情してもらえ」
イズルが手すりに飛び乗る。
「女の子を傷つけようとするのはオレが許さん」
身を投げ出す。イズルの行動に悲鳴が上がる。私とセレーナ様の周囲から一斉に人々が遠のいた。
イズルがセレーナ様の背後に着地した。
「ちょっと、あなた一体何をするつもりなの」
「黙ってろ」
非難しようとする私の言葉を遮り、イズルはセレーナ様の背後に身を隠す。袖口に指を入れて、人形のようにセレーナ様に身振り手振りをさせる。
「私、あなたよりもイズルさんのことが好きになりましたの。ですから、あなたなんかとは、結婚したくありませんわ。婚約破棄します」
セレーナ様の声音を真似ているつもりなのだろう。
全く似てないけど!
裏声で話してるようにしか聞こえませんけど!
「あの、あのその、私はどうしたら……」
セレーナ様は混乱して目を回している。瞳の奥に渦巻きでも描かれてそうだ。
彼女は性格上、咄嗟の状況に対応できない。右手を上げたり、左手を下げたり、いいように操られている。
「二度と私に話しかけないでくださいな。あとは、えーと、隣の腹黒そうな、蛇みたいな女の人とお好きにどうぞ」
イズルは自信満々にセレーナ様を演じている。
全然違います、セレーナさんの声はもっとこう……
胸元に手を当てた。
セレーナさん、あなたはもう少し、我儘になってもいいはずです。位が落ちる女性は主張することすら許されないの?
そんなはずはない。屈辱すら甘んじて受けろというのなら、そんな慣習私が破ってみせます。
この茶番に乗ることこそ、悪役令嬢と嘲笑される私にふさわしい。
喉を開く。奥底で声を発してみた。引き絞る。調節する。
例えば、セレーナさんの声は、このような感じ。
「無礼はあなたではございませんか、ノエラン様」
緩んだ空気感が引き締まった。単なる声真似が影響力を持った証左だ。
自分でもセレーナさんに近づけられたと思った。極力、唇を動かさずに声を発する。
「婚約者である私を差し置いて、他の女性を伴って壇上に現れるなど。これを無礼と言わずして、何と言いましょう?」
イズルは左手でセレーナさんを腕を動かし、右手を顎に沿わせて口を動している。
いえ、それ台無しですから。
腹話術じゃないんですのよ。
イズルの不躾な行動に、会場から失笑が漏れる。
これはこれでいい。
こんなものは、会場に入った瞬間から最後まで茶番だ。
私の言葉もセレーナさんの声音をなぞっただけ。人格まで複写しきった上での言葉ではない。
私が彼に抱いた苛立ちを、セレーナさんの声に乗せて届けただけ。
演技者として私はまだ半人前ですらない。一人前でも物足りない。私が目指すのは一流なのだから。
イズルのせいで計画が大幅に狂ったが、あとは速やかに彼女を退場させるだけだ。
「お嬢様、どうぞ、こちらへ」
使用人としての自分に戻り、扉へ促す。
踵を返して会場外へ向かう。必然的にイズルの背中が観客に晒される。
まだ、背中にくっついている。
「あなたいい加減に離れなさい」
「え、終わったのか」
「あなたの背中が丸見えじゃないの!」
「そう言えばそうだな」
セレーナ様を解放して、背筋を伸ばしたイズルの脇に寄り添う影があった。
従者の腕を取り、体を預ける令嬢の姿は会場の視線を釘付けにした。
「彼の名前はイズル様。ギルドリュミエールの最強冒険者ですわ。ノエラン様、あなたよりもずっと魅力的なお方です」
か細く穏やかに話すセレーナ様とは思えないほどに、その声には張りがあった。
ノエランが引き絞った唇に歯を立てた。彼の隣に立つ、現在の想い人は縦長に歪めた瞳孔を開いて、私たちを見下ろしていた。