8 悲劇に抗うように……
人の不幸は蜜の味、貴族社会では真理の一つだ。
貴族間で演劇の如く繰り広げられる婚約破棄は、まさにその典型といえる。
台本のない悲劇を目の当たりにして、彼らは感情を揺さぶられる。それは彼らにとって中毒性を帯びるほどの甘みがある。
お優しい方は、破棄されたご令嬢の心境に寄り添い涙し、ご自身の感受性の豊かさを誇りに思う。高位の方はご自身の力の強さを再認識できる。
偽善と虚栄に満ちた貴族社会では、婚約破棄劇は、自らが物語の登場人物となって演じることができる参加型の舞台だ。
本日の主要人物は主催者ノエラン・エグレイド、婚約者セレーナ・ルネベル。
舞踏会の参加者は、軽やかな音楽に心躍らせ、ステップを踏み、舞台の幕が開けるのを心待ちにする。
果たして彼らは口元を歪めてほくそ笑むのか、彼女たちは涙を流して心で拍手するのか……
出番が近づくにつれ、彼女の体は強張り、震えは大きくなっていった。
イズルがセレーナさんの肩を掴んだ。彼女は反射的に肩を大きく弾ませたが、深く息をついてイズルに手を重ねた。
また、軽々しく触れて。あなたの役目はセレーナさんの従者ですのよ。
強く注意しようとして、言葉を飲み込む。緊張した表情が穏やかになる様を見せられては、何も言えない。
「それでは参りましょうか」
開演の時間だ。私は侍女として扉を開けて、廊下に招く。
会場への通路は赤い絨毯が敷かれ、等間隔で近衛兵が観客の行先を見守る。表情を変えずに立ち尽くしていたが、セレーナ様が通り過ぎるときは、揺らぎを感じた。
主の婚約者を警護しようとする責任感か、本日の演目を知った上での憐憫か……
大広間への扉が開け放たれ、私たちを舞台へと導く。
足を踏み入れたところで、近くにいた男性貴族がセレーナ様の姿を認めて目を細める。続いて侍女である私に視線を移して「おや」と呟いた。
私は目を合わせることなく、視界の片隅で彼を確認する。何度か会話をしたことがある男性貴族だ。
かつての貴族姿から遠ざけるため、化粧を施し服装を変えたが、ごまかしきれないか。
侍女姿の私を指摘して、笑いものにするような方ではないはずだが、騒がれても面倒だ。
対処法を探っていると、ポケットからセバスチャンが飛び出した。空中で後方に回転し男性の顎を蹴り上げる。
「な、なんだ、何が起こった?」
突然の衝撃に男性は顎を押さえて、周囲を見渡している。セバスチャンは誰の目にも止まることなく、ポケットへと舞い戻る。
「お、凄いな、あんころもち。あいつ、何が起きたか分かってないぞ」
イズルがポケットから顔を出したセバスチャンを褒める。
いささか乱暴ではありますが、うまくやり過ごせたみたい。あとで、セバスチャンにはクルミをたっぷり差し上げましょう。
安心するにはまだ早い。
セレーナ様は主役の一人だ。会場の視線が集中しやすい。私は目を伏せ、顔を俯き加減にする。
正体がバレることは大きな問題ではない。任務に支障が出ることは避けねばならない。
音楽が始まる。それぞれがリズムに乗ってパートナーと踊り始める。
さあ開演の時間だ、と言わんばかりに参加者たちは踊り狂う。それでいて意識は途切れさせない。
彼らの中心にいるのは、悲劇の主人公。私の前にいるセレーナ様なのだから。
セレーナ様の瞳は逃げることなく、ノエランとその想い人ナージャを映していた。
かつて彼女がいた場所には、新たな想い人がいる。優し気な笑顔を受け止め、ナージャが微笑み返す。
ナージャの視線がセレーナ様に注がれる。顔立ちは整っているものの、細面に大きく切れ長な瞳が印象的であった。ゆがめた唇から舌先が覗いた。
セレーナ様は、震える手を小さく握りしめた。
観客の踊りが熱を帯びた。まるで彼女を中心として、灼熱の渦が湧き上がる。
彼らが、セレーナ様の喪失、屈辱、孤独、やがて訪れる空虚を、自らの内面に照らし合わせようとしたところで、想像しきれるものではない。
それでも、晒しものとなった令嬢の気持ちを慮り、奥底で共感し、共に涙を流したつもりになる。舞台に参加し、踊りながらも、ちらりちらりと観覧する。
今夜は彼女に近い位置こそが、彼らにとっての特等席だ。子細な反応や息遣いにすら、彼らは酔いしれる。
どれだけ近づいたところで、手を差し伸べるなど誰一人として…….
ふわり、と彼女の拳が包まれた。
「来い」
イズルは両手を使ってセレーナ様の拳を解きほぐす。気持ちを探るように、彼女の意志を尊重するように、一本ずつ指を伸ばす。
伸びきった指を握る。
従者が貴族を踊りに誘うなど。
非常識な行為のはずなのに、イズルがすると様になる。イズルは枠に収まらない。
彼女の手を引き、広間の中央へ躍り出た。
音が響いた。
二人の影が跳ねる。
今夜の主役なら、ど真ん中に来い!
そんな主張をするように、イズルが貴族たちに割り込む。
体をぶつける。セレーナ様の腰を抱え、解き放つ。手を引き、懐に招く。
華麗な踊りではない。粗削りで、乱暴で、力任せだ。優雅さのカケラもない。
だからこそ衆目を集める。未完成の踊りを見ろ、と言わんばかりの力強さは、人々の顔を掴んで振り向かせるほどの魅力があった。
イズルが彼女を舞踏会の中心に引きずり出した。
人々は足を止め、イズルとセレーナ様に目を奪われていた。
不確かでありながら自己主張の激しいステップ。タイミングのズレすらも表現の一部に組み込んでしまう大胆さがあった。
イズルとノエランの視線が交差する。続いてナージャとすれ違う。イズルが笑った。
この瞬間、セレーナ様は悲劇のヒロインではなくなっていた。
イズルの腕に抱かれて、びっくりしたようにセレーナ様が笑った。
一切の曇りがない、澄み切った笑顔だった。幼いころから、私とセレーナさんが遊んでいた時から、もしかするとノエランと彼女が恋仲になってからも見たことのない笑顔かもしれない。
まさか、ね。よぎった考えを否定する。あまりにも彼女が純粋に見えたからだ。
会場から憐憫の情は消え、ざわめきさえも失せ、静寂が彼女を祝福していた。
淀みない笑顔は、まぎれもなく、華やかな舞踏会を牽引する主役となった。
だが、そんな夢のような時間は長くは続かない。
この舞踏会には覆しようもない力の関係が確実に存在する。
主催者のノエランは高位の貴族で、進行役だ。会場の雰囲気を多少押し戻したとはいえ、大きな流れには逆らえない。
ノエランが婚約を破棄し、セレーナ様がそれを受ける。下位の者が劇の結末を変更することなんて許されない。
舞台は次の幕へと移る。悲劇を楽しむ貴族たちが美酒を味わう時間が訪れる。
華やかな時間が終わると、ノエランとナージャは奥へと消えた。