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没落した元高慢悪役令嬢で結構。シーフとして成りあがります(いえ、短剣士ですわ)~イバラ屋敷の姫と令息、そして聖女~  作者: 未玖乃尚
第三章 イバラ屋敷の姫と令息

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18 実感する日常

 柄を握る手から血が滴り落ちた…… 


 -----------


 おい。

 声をかけられた。肩を揺さぶられた。

 頬を伝った汗が滴となって顎先から、落ちた。

 すん、と鼻を鳴らす。血の臭いはなかった。

 空を仰いで、風を感じた。


 アージア、いやナージャの息苦しい視線から解放されて、ようやく私は、この世界で息をつくことができる。


「大丈夫か?」


 青空が遮られた。

 眉を落とし、唇を結ぶ彼の顔が陰っていた。


 おかしい。

 どうしたのです?


 心配そうな顔はあなたには似合いませんわよ。あなたは年下のクセに、小憎らしく余裕ぶって、飄々としているのがお似合いです。

 それくらい生意気な態度をされるほうが、今はなんだか、安心できそうだ。


 日常に戻ったことを実感するだろうから。


「腹、痛いのか」


 探るように囁く声が、心地よかった。


「あ……」


 腹部をさする手を止める。痛みはない。

 握りしめていた拳を開いた。じっとりと皮膚を湿らせた汗が気化する。風を感じて手のひらを見つめた。

 皮膚を突き破って刺し込まれていた刃が、浮かんで空気に溶け込み、消えた。遺骨との間に紡がれた糸がプツンと切れ、漂いながら光に姿をくらませた。

 過去との繋がりが断ち切られた。


 私には、自由がある。


「そんなに心配だったのですか」


 少し、からかってやろうと思った。いつもの仕返しだ。

 安心感がそうさせたのかも知れない。


「当たり前だろ」


 真面目な顔で率直な返答をするイズルに対し、即座に切り返すことができなかった。

 ズルい男。いつもはからかうようなことばかり言っているのに、こんな時だけ真剣に答えるなんて。


 この人には、裏表はないのか。

 胃を縛り絞り上げられたような痛みが、少し弱まった。清涼な空気が喉を滑り、胸を満たした。


 私なんて仮面だらけの人生だったのに。

 アージアだってそう。みんな多かれ少なかれ演技をしてる。


 そう思うと……


「何だよ?」


 無言の視線を受けて、イズルは唇を尖らせた。


「いえ……」


 早くいつもの茶番に戻しなさいな。


 まだ私の心は、アージアから逃れ切れていない。頼れるものがあるなら、今の私はきっとそこに体を預けてしまう。


 イズルの黒い瞳に映る私は、いったいどの私なのだろう?

 これまで気が滅入るほど本心を隠し、笑顔で身を守り続けてきた。

 欲望の塊のようなあなたの言動も、欺瞞だらけの私たちに比べれば……

 案外、まともなのかもしれませんわね。


「よし、オレが腹をさすってやろう」


 やっと、元に戻れる。呼吸が日常に回帰する。

 瞼を閉じ、息を吸う。


 調子に乗るな!

 ごん。拳骨を落とした。


「痛い」

「許可なく、女性の腹部に触れるものではありません」

「じゃ、触るぞ」

「ダメです」


 いつもなら、叱って礼儀作法を指導するところ。今は、少し、この時間に心を委ねるのも、悪くない。


 遺骨から離れ、座るのにちょうどいい石の上に腰を落とした。

 膝を抱えてセバスチャンの顎を撫でる。


 腕に頬を預け、イズルを見上げた。彼の背で揺らぐ光に、目を細めた。


「あなたはいつも、楽しそうですわね」

「おう。オレは毎日が楽しくて仕方ないぞ」

「私も強くなれば、あなたのように楽しめますか?」


 私の目標は、かつてのように貴族として家の威光をひけらかすのではなく、冒険者として自ら輝きを放つこと。

 あなたくらい強くなれば、それを体現できるのでしょうね。


 悔しいけど、私が目指すものを、あなたは既に持っている……

 非常識な行動でも、周囲の反発を押さえつけるほどの力がある。


 イズルが住む世界は、私たちが過ごしていた社会よりも遥かに広い。あなたといることで、私はその世界を垣間見ることができる。


「オレと一緒にいるんだ。サラも楽しいはずだ」

「あなたらしい、自己中心的な理屈ですわね」


 説得力の欠片もない理屈だ。

 それでも否定しなかった。


 あなたの軽口が、私の心にねっとりと残っていたアージアの視線を剥ぎ落とし、流してくれたからだ。


「笑った」

「何ですか、急に?」

「サラが笑ってるところ初めて見た」


 セバスチャンまでも同意するように尻尾を振っている。

 二人揃って失礼な。


「あなたが、怒らせることばかりするからです」


 私はちゃんと笑ってます。

 むしろ得意です。ご令嬢たちとのお茶の場でも、会話内容に応じた笑顔を選ぶことで、与える印象を変化させてきました。長年の経験で学んだのですよ。


 頬が、引きつった。

 触れてみる。


 口角が意図していない角度で上がっていた。

 頬が、緩んでる?

 最適なタイミングで、最適な笑顔を作り上げてきたはずなのに、このように頬を綻ばせた覚えはない。


「オレは今も、今までもしてることは変わらないぞ」

「そう、かも知れませんが」


 目を伏せると、地面についた手が視界に入った。少し先に、影がある。

 イズルの指先だった。

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