18 実感する日常
柄を握る手から血が滴り落ちた……
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おい。
声をかけられた。肩を揺さぶられた。
頬を伝った汗が滴となって顎先から、落ちた。
すん、と鼻を鳴らす。血の臭いはなかった。
空を仰いで、風を感じた。
アージア、いやナージャの息苦しい視線から解放されて、ようやく私は、この世界で息をつくことができる。
「大丈夫か?」
青空が遮られた。
眉を落とし、唇を結ぶ彼の顔が陰っていた。
おかしい。
どうしたのです?
心配そうな顔はあなたには似合いませんわよ。あなたは年下のクセに、小憎らしく余裕ぶって、飄々としているのがお似合いです。
それくらい生意気な態度をされるほうが、今はなんだか、安心できそうだ。
日常に戻ったことを実感するだろうから。
「腹、痛いのか」
探るように囁く声が、心地よかった。
「あ……」
腹部をさする手を止める。痛みはない。
握りしめていた拳を開いた。じっとりと皮膚を湿らせた汗が気化する。風を感じて手のひらを見つめた。
皮膚を突き破って刺し込まれていた刃が、浮かんで空気に溶け込み、消えた。遺骨との間に紡がれた糸がプツンと切れ、漂いながら光に姿をくらませた。
過去との繋がりが断ち切られた。
私には、自由がある。
「そんなに心配だったのですか」
少し、からかってやろうと思った。いつもの仕返しだ。
安心感がそうさせたのかも知れない。
「当たり前だろ」
真面目な顔で率直な返答をするイズルに対し、即座に切り返すことができなかった。
ズルい男。いつもはからかうようなことばかり言っているのに、こんな時だけ真剣に答えるなんて。
この人には、裏表はないのか。
胃を縛り絞り上げられたような痛みが、少し弱まった。清涼な空気が喉を滑り、胸を満たした。
私なんて仮面だらけの人生だったのに。
アージアだってそう。みんな多かれ少なかれ演技をしてる。
そう思うと……
「何だよ?」
無言の視線を受けて、イズルは唇を尖らせた。
「いえ……」
早くいつもの茶番に戻しなさいな。
まだ私の心は、アージアから逃れ切れていない。頼れるものがあるなら、今の私はきっとそこに体を預けてしまう。
イズルの黒い瞳に映る私は、いったいどの私なのだろう?
これまで気が滅入るほど本心を隠し、笑顔で身を守り続けてきた。
欲望の塊のようなあなたの言動も、欺瞞だらけの私たちに比べれば……
案外、まともなのかもしれませんわね。
「よし、オレが腹をさすってやろう」
やっと、元に戻れる。呼吸が日常に回帰する。
瞼を閉じ、息を吸う。
調子に乗るな!
ごん。拳骨を落とした。
「痛い」
「許可なく、女性の腹部に触れるものではありません」
「じゃ、触るぞ」
「ダメです」
いつもなら、叱って礼儀作法を指導するところ。今は、少し、この時間に心を委ねるのも、悪くない。
遺骨から離れ、座るのにちょうどいい石の上に腰を落とした。
膝を抱えてセバスチャンの顎を撫でる。
腕に頬を預け、イズルを見上げた。彼の背で揺らぐ光に、目を細めた。
「あなたはいつも、楽しそうですわね」
「おう。オレは毎日が楽しくて仕方ないぞ」
「私も強くなれば、あなたのように楽しめますか?」
私の目標は、かつてのように貴族として家の威光をひけらかすのではなく、冒険者として自ら輝きを放つこと。
あなたくらい強くなれば、それを体現できるのでしょうね。
悔しいけど、私が目指すものを、あなたは既に持っている……
非常識な行動でも、周囲の反発を押さえつけるほどの力がある。
イズルが住む世界は、私たちが過ごしていた社会よりも遥かに広い。あなたといることで、私はその世界を垣間見ることができる。
「オレと一緒にいるんだ。サラも楽しいはずだ」
「あなたらしい、自己中心的な理屈ですわね」
説得力の欠片もない理屈だ。
それでも否定しなかった。
あなたの軽口が、私の心にねっとりと残っていたアージアの視線を剥ぎ落とし、流してくれたからだ。
「笑った」
「何ですか、急に?」
「サラが笑ってるところ初めて見た」
セバスチャンまでも同意するように尻尾を振っている。
二人揃って失礼な。
「あなたが、怒らせることばかりするからです」
私はちゃんと笑ってます。
むしろ得意です。ご令嬢たちとのお茶の場でも、会話内容に応じた笑顔を選ぶことで、与える印象を変化させてきました。長年の経験で学んだのですよ。
頬が、引きつった。
触れてみる。
口角が意図していない角度で上がっていた。
頬が、緩んでる?
最適なタイミングで、最適な笑顔を作り上げてきたはずなのに、このように頬を綻ばせた覚えはない。
「オレは今も、今までもしてることは変わらないぞ」
「そう、かも知れませんが」
目を伏せると、地面についた手が視界に入った。少し先に、影がある。
イズルの指先だった。




