1 退学届を返しなさい
木の葉が散った。
かと思うと、突風が顔に叩きつけられた。顔を背けて、髪を押さえる。
乱れた髪を整えることに意識が向き、指の力を抜いてしまった。
大切な紙が弧を描いて宙を舞う。
慌てて手を伸ばす。届かない。風に乗って紙が飛ぶ。
「お待ちになって」
あれを見られるわけにはいかない。私は石畳を蹴って駆け出した。
紙は遥か上空を漂う。ジャンプしたところで触れることすらできない。
見失わないように追いかけていると、前方の木の枝が揺れた。
影が飛び出し、太陽を遮った。たやすく紙を取って、音もなく着地したのは一人の男子生徒だった。
「げ!」
取ってくれたのはありがたい。
でも見られる前に取り返す!
生徒は私に紙を差し出した。
視線が紙面に落ちる……
前に、むしり取った。
「おわっ!」
「ありがとうございます」
胸を一撫でして、紙の無事を確認した。
退学届。
既に名前も記入済みだ。こんなもの、他の生徒の目に晒すわけにはいかない。
剣と魔法を高いレベルで学べる名門アルテナ学院。王族やそれに連なる貴族を除いて、ほぼ全ての階級の才能が集う。
その中でも最も誇り高き令嬢として名を馳せた私が、退学届を提出することになるなんて、絶対に知られてはならない!
自身の悪評くらい理解しています。
高飛車で高慢、家柄を鼻にかけ、政略結婚でのし上がった一族。
だから何ですの?
私は誇りを持って、家の名に恥じぬように努力をし、周囲の方にも同じことを求めた。それだけですわ。
まるで、物語の中の悪役令嬢、などと私を揶揄しますが、これからはどうぞお好きに噂話してくださいな。
支持基盤の崩壊から始まった、絵に描いたような没落劇は、さぞやあなたたちの目に面白く映ることでしょう。
私は悪役らしくひっそりと、この学院を去ります。
そんな思いを胸に、未来を見ようと顔を上げ、慌てて背中に紙を隠した。
「あれ?」
男子生徒の声を聞いて、体が固まった。
「お前、サラだろ。どうしたんだ、授業中に」
「イズル……」
全身の力が抜けた。あなたこそ、どうして授業中に、こんなところをウロウロしてますの?
今は授業の真っ只中ですのよ。
こちらはわざわざ、誰にも会わない時間帯を狙ってきたというのに。
それにしても、この態度。
男子生徒にこれまで指摘してきたことがある。
「また、呼び捨て……」
ため息をつく。
「いつも言ってますわよね。あなたは一年、私は三年。学院内でなければ、あなたは私と会話することすら、憚られる立場ですのよ。まずは敬語。呼び方は“先輩”か、“様”か、どうぞお好きに」
毎回礼節について教授しなければならないとは。
これだから教養のなってない平民は……
「あっ、サラ、気をつけろ」
視界をよぎるものがあった。
この男はいつも人の話を聞かない。
注意しようとして、今度は足元を駆けるものがあった。
素早く動く影が、イズルの肩に止まった。
「リス?」
両足を揃えて、ちょこんと座り両手を合わせる。くりっとした黒い瞳が印象的だった。濁りなく透き通った目に、私の顔が映った。
「見てろ」
イズルはポケットからクルミを出して弾いた。
リスは空中で一回転してクルミを両手で掴んだ。
凄い!
けど、この男はクルミを直でポケットに入れてますの?
信じられない。
「暇だから、さっき、手懐けた」
暇って、授業中に暇とは、何を言ってるのでしょうか、この男は。
それより手懐けたって、いったいポケットにどれだけのクルミが?
「こいつ、手先器用だろ?」
ポンポン投げられるクルミを次々キャッチして、リスは口の中に投げ込む。
「面白いヤツだけど気を付けろ。悪戯もするからな」
「悪戯とは、どのような?」
リスがイズルの肩に戻る。小さな手に持っている物を見て疑問を抱く。
背中で組んでいた、指を動かす。
やけに、自由に動く。
まるで何も持っていないかのような……
「盗み癖がある」
「あー!」
このリス!
無邪気な顔して、何持ってんだ!
それは私の退学届よ。
返せ。近くにあった石を投げつける。
イズルが掴んだ。
「動物を虐めるのはよせ」
急に真顔。
「あんたに言われたくないわよ!」
イズルみたいな非常識人に常識を諭される日がくるとは思わなかった。
「取り返して!」
リスは退学届を掴んだまま木を登った。
私を見下ろして、首を傾ける。
愛らしい顔をするのはやめなさい。そんなことしてもあなたの罪は消えませんよ。
「紙切れ一枚でムキになるなよ」
「いいから早く!」
生意気な後輩の頬を左右に引っ張る。
「ガサツな先輩だな」
お前が言うな!
リスが木を飛び移る。
その姿を飲み込む影があった。
「よっと」
リスを掴んで、イズルが枝に腰を下ろした。
え?
私は枝と足元を交互に確認した。
さっきまで私の前にいたのに、いつの間にリスを捕まえたの?
とんでもない一年生がいるとは聞いていたけど、ここまでとは思ってなかった。学生のレベルを確実に超えている。
とにかく助かった。これで私の秘密を知られることもなくなった。
返して貰おうと見上げた途端、眩暈がした。
リスにクルミを食べさせながら、イズルが退学届を左右に振っていた。
「学院、やめんの?」
よりによって、こんな非常識人にバレてしまった。