表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

試し読み

 試験期間中、生徒が早く帰宅しなくてはいけない日に、小久保啓人は忘れていた参考書を取りに戻って来ていた。

 ヤバかった。これが無かったら明日の試験が出来なかった。

 参考書を鞄に入れ、下駄箱を目指す。誰もいないはずの試験期間中、音楽室からピアノの旋律が流れてくる。

 誰だろう。

 啓人は少し道を外れて、音楽室を覗く。

 一人の女子高生が一心不乱にピアノを弾いていた。その曲は、ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカからの第三楽章』という難関曲だった。

 啓人は曲名は分からなかったが、その運指と叩きつけるような彼女の情熱に引き込まれるように見ていた。彼はまるで貸し切りのライブハウスにいるような気分になった。ただただ彼女の熱が伝わってくる。気分が高揚し、血流が速度を増す。本当に音楽の時間で使われる同じピアノなのだろうかと疑問も出るほどだった。

 曲は第二楽章『ペトルーシュカの部屋』から第三楽章『謝肉祭』へと入っていく。

 前のめりになった啓人の鞄が扉に当たった。

 しまった!

 その思いには彼女の演奏を止めてしまうことの他に、もうこれ以上聴けなくなるのかという無念も孕んでいた。

 だが彼女の演奏は止まらない。指が走る。

 聴き入っていた啓人は鍵盤を叩く彼女の姿にも見入っていた。まるで額縁で切り取ったかのように、絵になる彼女の姿に。彼女は背中まである長い髪を揺らし、整った容姿をしていた。

 鍵盤に目を落としていた彼女が一瞬、戸口に立つ啓人を見たが、彼女はクライマックスに向けて気持ちが加速していく。高音から低音へのグリッサンドから低音を押さえて彼女の演奏は終了した。

 終わったタイミングを見て、啓人は小さく拍手を送った。

 彼女は微かに笑みを浮かべて一礼をする。

「凄いね!」

 自分の語彙力の無さに気落ちしながらも、心からの言葉を述べた。

「ウォーミングアップです。レッスンまで時間があったので学校のピアノを借りたのですが、少しここのF♯が狂ってて、気持ち悪かったです」

 彼女はその狂っているF♯を押しながら文句を言う。

 啓人にはその差が分からなかった。本当に微妙な差だったのだ。

「俺は二ーBの大久保啓人。君は?」

「私はE組の床嶋……燕です」

 燕という名前にコンプレックスか何かあるのだろう。名前を言う時に僅かな間があった。

「君みたいな同級生がいるだなんて知らなかった」

「学校は広いですからね。それより下校時間は過ぎてますよ」

「君こそ」

「私は先生に許可を貰っているから良いのです」

「まだ弾くの?」

 燕は頷く。

「聴いていていいかな?」

「あなたが明日の試験で困らないのなら、別に構いませんが」

「大丈夫、少しぐらい時間が押しても大して変わらないよ」

「なら良いのですが」

 そう言い残して燕は鍵盤に向き合い、ベートーヴェンの月光、第三楽章を弾き始めた。出だしから激しい曲調だが、彼女は集中して弾く。

 血が滾るような曲に啓人は聴き入っていた。


「また君の演奏を聴けるかな?」

 三十分ほど聞いて、啓人は曲間に尋ねる。

「試験期間中は吹奏楽部の練習が無いので聴かせられるのですが、試験勉強の方は大丈夫なんですか?」

「大丈夫。また聴きたい」

「分かりました、ではまた明日」

 名残惜しそうに帰る啓人に燕は少し微笑んで言う。


 期末試験の三日目が終了した。残すはあと一日だった。

「ねぇ、啓人、物理の六ー二の答え、何だった?」

 行橋綾香が啓人の席まで来て尋ねる。

「ちょっと待って」

 答え合わせ用にテスト問題に書いてある答えを見る。

「三分二十秒になった」

「えー、嘘! 間違っているかも」

「俺の方が間違っているかもよ」

「だって私、物理苦手なんだもん。啓人が間違っていて、私が合っているなんてない!」

「ちょっと待って、もう一度計算してみる」

 公式に当てはめ、複雑な計算をする。

「やっぱり三分二十秒だ」

「えー、ショック~! そしたら次の問題も間違いじゃない!」

 綾香は眉をハの字にしてしゃがみ込んだ。

「ドンマイ」啓人は笑顔を返した。

「笑いごとじゃないんだって! も~、なんで物理って役に立つか分からないのにしなくちゃいけないの?」

「それを言ったら、現国以外要らないことになるぞ」

「明日の数学もヤバいのよね。ねぇ一緒に勉強しよう? というか教えて!」

「今日はちょっと用事があるんだ。夕方以降なら良いけど」

 綾香は立ち上がる。「何か用があるの?」

「ちょっと約束が」

「……そう、じゃあ夕方五時に啓人んちに行くね」

「晩御飯はどうする?」

「久しぶりに夏美さんの料理食べようかな」

「じゃあ、後で母さんに連絡入れとくよ」

「やったぁ!」

 先ほどの物理の間違いなど気にしないといった様子で、心弾ませながら綾香は席に戻っていく。

 その様子を啓人は笑いながら見ていた。

この作品は、Amazonにて販売しております。

続きに興味がある方は、Amazonにてご購入下さいますと幸いです。

https://www.amazon.co.jp/dp/B0F31WL41P

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ