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子爵令嬢セリティーヌ・ティートバインは子供のころから特殊な性癖を持っていた。愛しい者が苦しむ姿を目にすると快楽を感じてしまうのだ。いわゆる嗜虐趣味を有していた。
しかし彼女は理性的な令嬢であり、分別をわきまえていた。自分を厳しく律してこの性癖が露見しないよう努めていた。
やることと言えば、気に入った使用人を少々厳しく叱責する程度だ。それで自分の中に湧き起こる情動をある程度解消していた。その節制は徹底したもので、周囲からは「見込みのある者に対して厳しく躾ける貴族の鑑」などと評価されていたほどである。
そんなセリティーヌだったが、成長するにつれ、徐々に自分の性癖を抑えることが難しくなってきた。第二次性徴期を経て性欲が高まり、嗜虐への欲求も強くなっていった。使用人を叱責する程度では満足できなくなっていた。
いずれ抑えきれなくなる。その時は見た目のいい奴隷でも秘密裏に入手して性癖を発露しするしかない。王国で奴隷の売買は表向きは禁止されている。発覚すれば子爵家の名を落とすことになるだろう。それでもこの性癖がバレるよりはましだと考えていた。
そんな時に出会ったのが伯爵子息パーゼティラム・アインポルトだった。伯爵家伝来の美しい金の髪。宝石のように綺麗な緑の瞳。これまで苦労一つせずに育ったことがうかがえる、完璧な青年。
出会った瞬間、胸にひとつの想いが湧き上がった。
――この人をめちゃくちゃにしたい。
子爵令嬢セリティーヌ・ティートバインにとって、生まれて初めての一目ぼれだった。
彼を跪かせ、汚い言葉で罵りたい。その白い肌が真っ赤になるまでむち打ち、屈辱の涙を流させたい。そんなことをいくつも妄想した。
しかし相手は上位貴族の子息だ。結婚すれば家長となり、妻である自分は従わなければならない。屈服させるなど夢のまた夢だ。
だがセリティーヌは自分の性癖を諦めなかった。密偵を使ってパーゼティラムを探らせた。令嬢が婚約相手の身辺調査をするのは当たり前のことなので、周囲に不審を抱かれることもない。何か弱みを握れば、パーゼティラムを屈服させ嗜虐の性癖を満たすことができるかもしれない。諦めず粘り強く、その可能性を探り続けた。
しかしパーゼティラムは意外と潔癖で、これと言った弱みを見せることはなかった。
セリティーヌは耐えてしのんだ。パーゼティラムと婚約者としての付き合いをするときは特に気を付けた。情欲があふれ出さないように、感情を表に出さないように務めた。
それでもパーゼティラムが作法のミスをした時は細かく指摘した。彼が嫌がっていることはわかっていた。それでも正しいのは彼女であるので、面と向かって言い返すこともできない。悔しがる彼の姿は、セリティーヌにとって何よりのごちそうだった。それでどうにか性癖の発露を抑え込んだ。
そうこうするうちに、密偵からの報告でパーゼティラムと男爵令嬢マリライゼが距離を縮めつつあることを知った。
普通の令嬢なら嘆き悲しむか、怒りを燃やして直談判しに行くところだろう。しかしセリティーヌはこれを好機ととらえた。婚約者がいるのに他の令嬢と不義を働くのは大変な失態だ。セリティーヌは彼の父、アインポルト伯爵にこのことを少しずつ報告した。もしパーゼティラムが浮気相手と肉体関係を結ぶようなことがあれば、彼が勘当されるよう巧みに誘導した。
浮気相手のファストラーク男爵家についても調べた。男爵家が懇意にしている商人も手掛けているいくつかの事業も、どこを押さえれば息の根を止められるか把握した。没落しつつあるとはいえ名家と謳われたティートバイン子爵家の権力を使えば、問題なく対処できる相手だった。
もしパーゼティラムが浮気相手マリライゼと肉体関係を結べば、それを咎として平民に落とすことができる。
平民に落ちればあとはどうとでも料理できる。「保護」の名目で引き取り、貴族と平民の身分差でもって思いつく限りの屈辱的なことをさせてやろう。その日を想像するだけで、セリティーヌの身体は火照って仕方なかった。
下準備はできた。あとは待つだけだ。セリティーヌはパーゼティラムが決定的な行為に至るのを一日千秋の想いで待ち続けた。
そんなある日の夜会。予想外の出来事が起きた。なんとパーゼティラムが夜会の会場で婚約破棄を宣言したのである。
これでパーゼティラムは平民落ちすることはほぼ確定した。アインポルト伯爵に名を傷つけられたと訴える。名家からの訴えに対し、伯爵はパーゼティラムを勘当する。そして彼は平民に落ち、セリティーヌのものになるのだ。
この時はさすがにセリティーヌも感情を抑えきれなかった。驚きに目を見開き、喜びに顔が紅潮した。
もう勝利は確定した。あとは婚約破棄を宣言された悲劇の令嬢として、泣く振りでもしながら会場を去ればいい。
しかし、待った時間は長かった。抑え込んできた欲望は大きかった。だからこの場で屈辱を与えたいと思ってしまった。
そして、セリティーヌは婚約破棄によって領民がいかに苦しむことになるかを語った。本来は子爵家の不手際が原因のことを、まるでパーゼティラムに全ての責任があるかのように会話を誘導した。語った内容はどれも当たり前のことだったし、彼も承知済みのことだと思っていた。生徒たちの前で返答に窮する姿をちょっと楽しむだけのつもりだった。
しかし、パーゼティラムは思ったよりも幼かった。自分の決断がいかに陰惨な結果を招くか、今初めてしったかのように苦悩した。その苦しむ様は想像以上に素晴らしいものだった。誰も足を踏み入れない新雪を踏み荒らして泥にまみれさせるような、背徳的な喜びがゾクゾクと背筋を駆けあがった。
彼の姿をじっくりと眺めてしまった。その目は、不意に露わになった女性の胸元に視線が吸い寄せられた男性のそれと、同種のものだった。
『不備の無い婚約破棄の宣言』もただパーゼティラムを困らせるための戯言だ。そもそも婚約破棄の宣言に不備もなにもない。そんな宣言自体が不備だ。
とにかく領民の不遇を強調し、それを下地に絶対に言えない言葉をならべた。無理難題を吹っかけてパーゼティラムを困らせるのが目的だった。
『不備の無い婚約破棄の宣言』をしなければ浮気相手との仲はおしまいだ。だからといって宣言すれば、周囲の生徒たちから非難を受け、貴族としての立場は無くなる。いずれにせよ彼の苦しむ姿を楽しめる。
パーゼティラムが逆上して暴力を振るう可能性も考えられたが、その程度は許容範囲だ。その醜態は彼のことをより強く縛る鎖となるだろう。それはセリティーヌにとってはむしろ望むところだった。
だがパーゼティラムは予想を超えた行動をとった。彼は真実の愛の相手からも距離を置かれ、絶望の果てに婚約破棄を撤回した。しかも多くの生徒たちの前で、下位貴族相手に跪き、涙を流しながら許しを乞うたのだ。
セリティーヌはこれまで、彼を苦しめる妄想に耽ってきた。その妄想は実に多彩なものだったが、それでもこんなにも惨めな姿は想像したことはなかった。妄想を凌駕する刺激的な光景だった。
セリティーヌはこの時、目もくらむような快楽がこの世にあると初めて知った。あまりの快感に足がふらついた。気を引き締めなければ色々な物があふれ出し、貴族令嬢としてあるまじき痴態を晒してしまうところだった。そんな劣情を隠しきった彼女の自制心は、実に卓越したものだった。
快楽にとろけそうになりながら、それでもセリティーヌは自分を律し、努めて冷静に考えた。
この謝罪を受け入れず、糾弾したらどうなるだろうか。学園の生徒たちの目の前で思うままにパーゼティラムを罵倒するのはたまらない快楽をもたらすに違いない。これほどの醜態を晒したのだから、うまくアインポルト伯爵を誘導すれば彼を平民落ちさせることは十分に可能なはずだ。
とても魅力的な選択肢だったが、セリティーヌはあえて自分を抑えた。
手を差し伸べると、パーゼティラムは顔を上げた。
涙に濡れ絶望しながら、ひとかけらの希望にすがろうとする彼の姿。涙にぬれたその顔。セリティーヌがこれまで見てきた何よりも蠱惑的なものだった。
「……承知しました。宣言の撤回を受け入れます」
セリティーヌはこのまま己の性癖を隠し続けることを選んだ。
彼を糾弾するという選択肢は魅力的だ。しかしその楽しさはおそらく一回で終わってしまう。そのあとで、彼を手の内に収めていたぶることはできる。
だが、今日ほどの快楽は得られないと思った。
これまでの婚約者関係で己の性癖への理解が深まった。耐え忍ぶことこそが、己の快楽を一段階上の高みに導くのだ。
これからの婚約者生活は楽しいものとなるだろう。結婚すれば墓に入るまでこの快楽を味わえるに違いない。その未来の幸せのあまりの大きさに、無表情を保ってきた彼女もたまらず笑みをこぼした。
パーゼティラムは彼女の笑みに慈愛を見たが、実はそれは情欲にまみれた女の顔だったのである。
パーゼティラムはこれから、浮気したことをひけめに感じつつ、それでも自分を受け入れてくれたセリティーヌを愛することだろう。
セリティーヌは貞淑な婚約者の仮面を被ったまま、彼が困難に直面するよう状況を操作する。そうして彼の苦しむ姿をすぐ横で眺めて楽しむのだ。
パーゼティラムが不幸になったかと言えば、必ずしもそうとは言い切れない。
彼はこれからいくつもの困難に対面し、苦しむことになる。しかしそれはやりがいのある仕事が常にあるということだ。愛する伴侶を傍らに困難に立ち向かうのは、充実した幸せな人生と言えるかもしれない。
セリティーヌが幸せになったかと言えば、必ずしもそうとは言い切れない。
性癖は確かに満たされるだろう。だが彼女は己の性癖を隠すことを選んでしまった。誰にも知られず理解されることもなく、身近にいる夫を騙しながら生き続ける。それは常に緊張を強いられるつらい生活ともいえる。
どちらも相手を強く相手を求めている。しかしお互いの愛はあまりに別物で、どうしようもなくすれ違っている。それでも永久に分かちがたい深く愛し合う婚約者となったことだけは、間違いないことだった。
終わり
「令嬢自らが婚約破棄を前提にした婚約をする」というネタを思いつきました。
それが成り立つよう設定やキャラを詰めていったらこういう話になりました。
ここ最近はちょっと殺伐とした感じの話になりがちだったので、わりと穏やかな恋愛ものを書けてなんだかホッとしました。
2025/3/19 20:30頃、22:00頃
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。