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八咫烏と蛍草  作者: 綺月 遥
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七月一二日、午後一〇時。

待機を命じられた結城が一時的に戻っていただだっ広い部屋で、無粋なバイブレーションが短く鳴り響いた。振動が元の静寂に溶けて消えていくと、結城は俯けていた顔を緩慢に上げる。

 破壊の痕跡だけが色濃く残る伽藍洞な部屋で、結城は喜怒哀楽の全てが抜け落ちたような虚ろな瞳を静かに揺らした。鏡に映った自分の顔は想像よりも酷く歪んでいて、思わず乾いた失笑が喉の奥から縺れながら飛び出す。たった一人の女と関係を切っただけで、己の精神状態と私生活がここまで荒むとは思っていなかった。仕事にだけは支障を出さないように注意を払えるだけの理性が残っていたことだけは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。現在の結城の惨状をロンが見れば、腹を抱えて笑い転げるだろう。

 普段の五倍は重苦しい両足を叱咤して動かし、ユラユラとうろつく幽鬼のように歩き出す。ドアの前に放り出された鞄から仕事用の端末を取り出して中身を確認すると、メールボックスの中身が一件追加されていた。送り主は龍堂啓仁。ロンの偽名だった。未だに震えが残る指先で画面に触れると、内容を入念に確認する。

『首謀者が確定した。既に判明していた紀川、氷室、赤羽、御堂、霧ヶ埼に加えて島田組と秋華組の計七組織の過激派からなる同盟が今回の黒幕だ。よって我々は今夜開催される会食に急遽突入して本陣を殲滅する。お前は単身で最後の鼠を殺せ。』

三行分にも満たない短いメッセージに詰め込まれた途方もない情報量に、慣れている結城も流石に頭痛を禁じ得なかった。

「相変わらず仕事が早い……。」

 主犯の特定を終えてすぐに襲撃に踏み切る、その流れるような判断は見事としか形容出来ない。下準備に余念がない。その上、七つもの組織が関わる危険な案件を、いとも簡単に掌握する異次元の立ち回り。この分なら、夜明けを待たずして事態は終息を迎えるだろう。

 ようやく訪れた厄介事の幕引きと気乗りしない仕事に、結城は思わず万感の思いが滲んだ長い溜め息を吐き出した。今回ほどの規模に発展することは珍しいが、内通者の発覚や他組織との抗争は日常風景に他ならない。ドラマもロマンも人らしい情も存在しない血塗れの作業が長時間続くだけで、結城にとっては憂鬱しか生まない厄介な業務だった。

 今回の任務では、結城は武器部門に放たれた内通者達を統括していた男の始末に向かわなければならない。ロン達主力に比べれば楽な任務であることは間違いないが、相手は組織内部に深く食い込みながらも、長期間正体を看過されずに生き抜いた男だ。アケガラスの中でも、飛び抜けて優秀な人材だった事実は否定しようがない。それを泳がせておけという指示通りギリギリまで拘束もせずに野放しにしていた以上、戦闘は避けられないだろう。

 自宅とセーフティハウスは既に抑えてある。しかし、相手も護衛で身を固めている可能性が高い。

 迅速な制圧を最優先に考え、虎の子であるサブマシンガンやアサルトライフルは使用しない。常日頃から愛用しているグロックの予備に加えて、サブウェポンとしてベレッタとリボルバーを専用のキャリーケースに慎重に詰め込み、備え付けられた弾倉ポーチには補充用の銃弾を大量に入れる。    

一対多戦闘においては、多少手負いとなっても倒れずに撃ち続けるタフネスと戦況を的確に見極める判断力、数の暴力を躱し切れるだけの機動力が求められる。中でもタフネスと判断力において、結城は阿修羅と恐れられるほど傑出したセンスを持ち合わせていた。残る機動力を削がないように、長身の結城は小型でクセがない銃を意識して使用していた。

 アケガラスが誇る独自密輸ルートの賜物である銃火器を忍ばせたキャリーケースを軽々と持ち上げると、腰のホルスターには幾度となく己の命を預けてきたオートマチックの無骨なピストルを差し込む。七月の気温には不相応な長袖のシャツとスラックスは、いずれも夜闇に溶け込む濃い漆黒。視線を落とせば、一際大きなガラス片にアケガラスが誇る死神の姿が見事に映り込んだ。

 碌な仕事ではない。やりがいなんて存在しないし、僅かにでも感じ取ってしまえば人間として何かを永遠に失う。失敗しても逃げ出しても待っているのは死で、昨日まで背中を合わせて共に生き抜いてきた相手を手に掛けることは日常茶飯事。

 それでも彼女の願いを無碍にしないように、結城は今回の任務でも死ぬつもりはなかった。そしてその決意は、恐らく何の障害もなく達成されるだろう。過度な慢心でも過信でもなく、結城という男の戦闘力と生命力が突き抜けているのは単なる事実だ。

 普段と何も変わらない任務。仲間だった男を狩りのように追い詰めて、組織を裏切った制裁として死を与える。そして生き残った自分は、あの人と決別した世界でまた誰かを殺めて生きていくのだ。

 そう考えると、ただの鼠討伐が何故か永遠に続く孤独の幕開けのように思えた。

 ぐるぐると昏い方へと歩み出した思考を掻き消すように頭を振り、結城は二度目の溜め息を吐き出した。孤独だから何だというのか。彼女と過ごした日々が異常だっただけで、この世界に足を踏み入れた瞬間から、生涯孤独である覚悟は決めていただろうに。

止まることを知らない憂鬱の波に沈みそうになったその時。

静寂を切り裂いた一本の着信が、全てをひっくり返した。

 けたたましい音を立てて震え出した端末の液晶。非通知の文字が躍る画面を睨み付け、躊躇わずに通話を繋げると、やけに聞き慣れた柔らかい男の声が耳を擽った。

『もしもーし、聞こえてますかね?ご無沙汰してます。元気でしたか?』

 状況とは裏腹に酷く間延びした声が響いた瞬間、結城は一気に警戒心を爆発させた。

声の調子も発された言葉も、全て何処か軽薄で能天気な雰囲気に満ちている。そのせいか、一見一般人にしか見えない男だった。薄汚れた手を血に浸して生きるよりも、日向の下を何食わぬ顔で歩き回り、道端の露店でクレープでも買っている方がお似合いだ。しかし裏の瘴気を嗅ぎ慣れた人間には、能天気で平和的な柔和さの奥に上手く隠された、獣よりも酷薄な本性が手に取るように感じられる。そもそも着信を受けた端末が仕事用である以上、相手は少なくとも結城と同類であることは明白だった。

しかし、結城の驚愕と警戒を促した最大の理由は他にある。

今まさに裏社会の勢力図が書き換えられようとしているこの瞬間、わざわざ非通知で結城とコンタクトを取ろうとする相手を警戒しない理由が何処にあるというのか。

その上電話口から聞こえた声は、結城が追い続けた男に有り得ないほど酷似している。結城の既知であり、最後の裏切り者でもある男からの接触を受け、端末を握り締める掌は徐々に鋼のように硬化していく。

「……何の用だ?」

 逸る感情を意識して呑み込み、敢えて普段と変わらぬ無愛想な態度で切り返す。このタイミングで接触を図ってきた意図が掴めない。襲撃を悟って探りを入れに来たのか、交渉を持ち掛けたいのか。牽制や命乞いの線も捨て切れない。いずれにせよ、結城に粛清以外の選択肢は許されていないが、それでも可能な限りは迅速に事を済ませてしまいたかった。

 しかし、男の方は全く異なる望みを持っていたらしい。やけに弾んだ声色が、結城の焦燥を嘲笑うように翻った。

『相変わらず面白みの欠片もないんですから。ロンさんだっていつも言ってるでしょう、そんなんじゃ人生楽しめませんよ!まぁいいや、率直に言いますね?結城さん、今からオレのこと殺しに来るんですよね?だったら今からこっちが指定する場所まで会いに来て、二時間以内にオレを殺してください。それが要件です。簡単でしょう?』

 陽気な態度で不可解な要求を提示してきた男に、流石の結城も二の句が継げずに硬直した。すると男は更に機嫌を良くしたのか、突然カラカラと声を上げて笑い出す。悪戯を成功させた子供のような、それでいて砂漠よりも乾いた笑い声を響かせる男に薄気味の悪さを覚えながら、結城は結局無為に思考を巡らせることしか出来なかった。

 あまりにも突拍子がない戯言のような言葉は、しかし何処か空虚で必死な響きを伴って、混乱した結城の脳内にジワジワと侵食して正気を削り取らんと絡み付いてくる。底知れない不安と焦燥が腹の底で蜷局を巻き始め、背中から滲んだ氷のような雫が、臓腑をゆっくりと融解させる毒薬のように上半身を濡らしていった。

「要するに、殺されてやるからお前の掌の上で踊れと?そう簡単に俺が従うとでも思っているのか?」

『従うに決まってますよ。荒木志帆ちゃんでしたっけ?やっぱり地味だけど素顔はなかなか可愛らしいんですね。もしかして彼女、身体があまり強くないんですか?予想よりもずっと細くて驚きましたよ。大切だから手放すだなんて思考回路は永遠に理解出来ないと思ってたんですけど、確かにこれじゃ傍には置けませんね。あぁご心配なく、手荒な真似は一切許していません。眩しいくらいに無傷ですよ。』

 悪びれることなく言い切った男の言葉に、結城は全身から血液が蒸発して消えてしまったかのような錯覚に陥った。カラカラに乾いた喉が引き攣って上手く言葉を紡げないのに、心臓の奥底に棲む獣が絶えず狂ったように叫んでいる。

 唐突に出された想い人の名前。画面の向こうの男が何故彼女を知っているのか。

 点と点が結ばれた時、結城は冷や汗が染み込んだ臓腑が一気に凍結したかのような感覚を覚えた。心臓は何処までも冷たく波打ち、反対に身体そのものは加速する血流の影響を受けて際限なく熱く燃えていく。業火のように烈しく燃え始めた心とは対照的に、ずっと混乱を引き摺っていた思考回路は霧が晴れたように冴え渡っていた。

「それだけ周到に事を進められるだけの手駒が揃っているなら何故逃げない?わざわざカタギの女を人質に取ってまで俺を呼び出す目的は何だ?」

 奴が目の前にいなくて本当に良かった。今にも暴発しそうな激情を抑えながら、それでも結城は心の底から安堵していた。きっと対面していたなら、交渉も駆け引きも、人生さえも全て放り出して奴の喉元を引き裂いていただろう。

『そんな難しく考えないでくださいって!最後にあなたとゲームしてみたかったんですよ。ルールは簡単、制限時間内にオレを殺せば結城さんの勝ちです。あなたみたいな化け物なら簡単でしょう?それにオレだって今更命を惜しんだりはしませんから、最悪あなたがクリア出来なくてもオレは自決しますよ。まぁその場合、死ぬ前にあんたの女を殺しますけどね。嫌なら本気で掛かってきてください!それなりに楽しませる用意は出来ていますよ。』

 狂ったピエロのような腐敗した陽気さを纏いながら、和泉は理不尽なルールを愉しげに発表する。喜劇の幕開けを告げる口で命を紙屑のように投げ捨てる酷薄さは、和泉が日頃纏う軽薄で破滅的な雰囲気と相俟って、滲み出る狂気を更に濃く深いものに仕上げていた。

愛した女の命を芝居の小道具のように扱われ、激情に苛まれた結城が手元の端末を軋ませても、和泉は心底愉しげに笑うだけ。無邪気で残酷な子供のような態度は酷く自然で、だからこそ何処か作り物めいているようにも思えた。

「何故こんな無意味で不愉快な催しを始めた?目的は復讐か?」

『嫌だなぁ、あなたみたいな有能で無害な上司をわざわざ恨む理由がありませんって。結城さんのことは嫌いじゃないんです。あなたの下で働いてる時が一番楽でしたからね。アケガラスだって悪くない職場でしたし、出来ることならギリギリまで居座りたかった。だってオレも好きで裏切った訳じゃありませんから。だからって、言い訳も命乞いもしませんけどね。』

 仮面を被りながら笑う部下の腹の底は見えず、あっさりとした声音がより一層不可解さを際立たせている。

『復讐とか報復とか、そんな生産性もないことで死ぬ前の大事な時間無駄にしたくないんで。オレはただ、死に方も死に場所も自分で決めたいだけです。後はまあ、強いて言えば……八つ当たり、ですかね。』

 ほとんど掠れ掛けた呟きを最後に、ブツリと特徴的な音と共に通信が途絶えた。

 空間は再び静寂で満たされ、藍色に染められた仄暗い室内に白銀の月光が降り注ぐ。片付けられないまま散乱したガラス片にも淡い光が反射し、まるで天上に君臨する満月が無数の小さな結晶と化して地上にばら撒かれたかのようだった。

 魂が抜けたかのように立ち尽くしていた結城も、やがて月光に充てられたようにふらりとガラス片を手に取ってぼんやりと見つめた。表面をじっくりと観察したかと思えば、ひっくり返して裏面をまじまじと眺める。手持ち無沙汰の幼児が、手元にあったもので永遠と手遊びを繰り返すように、傍に落ちていたガラスを適当に弄り回しては弾け飛びそうな正気を辛うじて繋ぎ止めていた。

 現実の時間に換算すればほんの瞬きの間、しかし結城の脳内では無限にも等しい時が過ぎて、それから。

 魔法が溶けたかのように突然動き出した結城が、掌中に収めたガラス片を己の左腕に思い切り突き立てた。

 その瞬間、ヘドロのような深淵の色がせめぎ合った虚な色の眼に、一条の閃光が宿った。正気と狂気の狭間を絶えず行き来していた虹彩は凪いだ深海のような静けさを取り戻し、クリアになった視界を確かめるように周囲を見渡せば、荒れた部屋と不釣り合いの見事な望月が己を優しく照らしていた。絶えず流れ落ちる鮮血とジクジクと疼き続ける左腕の痛みは、まるで結城が自分自身を手放さない為の道標のようだった。

 凪いだ瞳に刃よりも鋭い殺意を迸らせ、結城は一度厳重に封をしたキャリーケースを床に置いた。誤って銃器が外に転げ落ちてしまわぬように固定された蓋を手早く開封し、予備の拳銃として携行するつもりだった二丁を取り出して元の保管場所へと戻す。代わりに手に取ったのは、拳銃の中では最も大きく重量も段違いの暴れ馬のような銃だった。元々使う予定だったリボルバーやベレッタのような、小型で使い勝手の良いスタンダードとは全く正反対の異分子。装弾数は多くないのに破損や不具合が頻発し、使い勝手は最悪と言っても差支えないだろう。扱い難さも傑出しており、下手に片手で撃とうものなら強い反動で肩が外れ兼ねない。しかし、一方でハンド・キャノンと異名取るほどの威力を誇り、世界最大の大口径拳銃として名を馳せる名銃としての顔も有している。

 白銀の銃身を持つ砂漠の鷹、デザートイーグル。威力は桁違いだが扱いが難しく、常にリスクが付き纏うことから結城もあまり使用せずに仕舞い込んでいる骨董品だ。しかしその一方で、合理的な造りとは程遠いこのトリックスターこそ、結城が最も得意とする武器でもあった。しかし上記の理由から普段は禁じ手として携行はせず、箍を外して暴れることが最善手となる状況下でのみ持ち出す奥の手だ。

 現段階では、結城が衝動のままに立ち回ることが最善の手であると断言は出来ない。現地の状況も配置された人員の数も戦闘力も未知数な以上、機動力が大幅に下がり兼ねない銃の装備は寧ろ悪手となる可能性が高いだろう。

 理解することは簡単だ。不合理も非効率も結城の天敵であり、効率だけを追い求めて無数の修羅場を潜り抜けてきた。銃の暴発で命を落とした人間だって見たことがある。デザートイーグルは六発に一度破損する曰く付きであり、得手だからと言ってそう簡単に踏み切れるリスクではない。

 数拍ほどの逡巡を経て、結城は一丁分の体積が減ったままのキャリーケースをそっと閉じた。

 体積の代わりに重量が増えた鞄を軽々と抱え、結城は静かに瞑目した。心臓を鷲掴むように左胸を抑え、酷い虚ろを抱えながら、結城はそれでも歩みを進めて行く。

 数え切れない覚悟と屍をたった一人で抱え込み、それでも独り往こうとする不器用な背中は、見る人間の感性によってはダークヒーローの美学の結晶のように写るのだろう。夜の世界でも光の残像を忘れられず、薄暗いヒーローに飢えている人間は思いの外多かった。そして、その理想によって、清廉で高潔な『アケガラスの阿修羅』という虚像が生み出された。ただ心を殺し切れなかっただけの結城を勝手に畏怖して、その本質を理解しようとすらしないまま勝手に退場していく。繰り返される歪な出会いと別れに、やがて結城は誰に対しても義務感だけで接するようになっていった。己を慕ってくれた人間に心を許したとして、その関係が辿る結末はいつだって血に塗れていたのだから。

 だから、志帆の手を離した。

 自分のような人間では、どう足掻いても彼女を幸せには出来ないと知っていた。だからせめて、彼女の命と未来だけでも守りたかった。

 その結果、この世で唯一守りたかった宝石を危険に晒している。

 本当は自分を殺してしまいたかった。今この瞬間だって、無駄に強靭なこの心臓に鉛玉を撃ち込んでやることだけを考えて息をしている。

 しかし、その衝動が単なる逃げでしかないことも十分過ぎるくらい理解していた。

 故に結城は前を向き続ける。ボロボロの心は元通りになんてならないけれど、それでも進むべき方向だけは見失わずに。

 深い藍色を帯びた鋭い眼光が覚悟に染め上げられ、殺意と戦意が瞬くように迸る。血と硝煙と苦悩を人生の輩として生きてきた男の本性が、むくりと頭を擡げる気配がした。


ゲーム開始から約二〇分後。

愛車を適当な場所に乗り捨てて外に降り立つと、煙草と酒と香水が濃密に混ざり合った匂いが容赦なく鼻を衝く。すれ違う無数の人影も、この地の色に染まった人間ほど独特の退廃的な雰囲気を纏っていた。小太りの冴えない男に腕を絡めて歩くのは、美しく着飾った若い女。派手な出で立ちの男がネオンの奥から女の手を引いて現れ、広場の真ん中では年端もいかない子供達が寄る辺もなく屯している。ありとあらゆる世俗の光と影が交錯する夜の街。結城にとっては、酷く懐かしい場所だった。

昼と夜が交差する日本最大の歓楽街、新宿区歌舞伎町。

その一際奥まった外れに位置する寂れた四階建ての廃ビルこそが、ゲームの舞台だった。

崩れかけた粗末なビル。入り口はシャッターで閉ざされているものの、二階以降は窓ガラスが半分以上が割られている。外壁は何箇所か剥がれ落ちて、地面には壁の残骸と思しきコンクリートの欠片が散乱していた。正真正銘の廃墟である。

志帆を人質に取った敵がいるのは最上階だ。そこまで辿り着くには、各フロアに配置された敵の子飼いの私兵を全て倒し切ることが絶対条件となる。更にこのビルは元々とある半グレの拠点となっていた建物であり、それ故に内部の構造が少々特殊だ。一階から四階まで直接繋がっておらず、一階分の長さしかない階段が各フロアにバラバラに配置されている。最短ルートは把握して来たものの、実地でどれだけ通用するかは未知数だ。

ここで突入してもしなくても、裏切り者が辿る結末も結城が得られる成果も、結果的には何も変わらない。敢えて危険を冒す必要はない、今すぐ引き返せと五感が一斉に叫び出す。

何も一人で組織を丸ごと一つ相手取る訳でもない。雇われた戦闘員の数は推測するしかないが、精鋭なら多くて一〇人、数だけ掻き集めたとしてもせいぜい二〇が限度。蹴散らすのは決して容易ではないが、結城ならば不可能ではないと言い切れる。

 それでも定石から考えれば有り得ない行動だ。結城がどれだけ強かろうが、余程の重装備でない限り、包囲されれば全てが終わる。そして数の差とは、そのまま包囲のリスクを表す。

 だが、定石や経験が何を囁こうが、結城の耳に入ることはない。

デザートイーグルの安全装置を取り外し、堅く閉ざされたシャッターに狙いを定める。

 喉奥からせり上がる熱を飲み干し、身体の芯に意識を集中させる。引き金に手を掛けただけで肩が圧迫される、この骨董品ならではの感覚が無性に懐かしく思えた。

 大きく息を吸い込んで、吐き出す。射干玉の夜に溶けていく心音に耳を傾けながら、結城は右手に大きく力を込める。

 そして、引き金は引かれた。

 直後に手首が弾け飛ぶような衝撃が全身を貫き、次いで強烈な反動が右肩を襲う。

 五〇口径の鉛玉が夜天を切り裂き、瓦礫を吹き飛ばす疾風と轟音を伴って金属製のシャッターに巨大な風穴を開けた。

 拉げて大破したシャッターの向こうから、数人の人影が見えた。その内一人は今の先制攻撃に巻き込まれたのか、腹から血を流して蹲っている。

 舞い上がる土埃を掻き分けながら一気に距離を詰め、結城はぽっかりと口を開けた暗闇を目指してビルの中へ飛び込んだ。

 手始めに、勢いのまま蹲っていた一人を蹴り飛ばし、戦力を削ぐ。ただでさえ重傷を負っていた上に弾丸のような蹴りを食らい、大型トラックに轢かれた猫のように壁に叩き付けられた男は呆気なく事切れた。

 まずは一人。

 そしてスピードは落とさないまま方向を転換し、反応が遅れていた敵を間髪入れずに撃ち殺す。瞬く間に二つの命を奪っても、結城の心臓は正常なリズムを刻んでいた。

 物言わぬ人形と化して地面に転がった男を一瞥もせずに、更に二回引き金を引く。脳漿を貫く破裂音がコンクリートで覆われた地獄に木霊し、人型が心臓と脳味噌に風穴を開けられたガラクタに成り果てて地を這った。

 理不尽に轢き殺された男達には目もくれず、結城は一度後ろに下がってから柱の陰に身を隠した。爆発的な加速と銃撃戦で乱れた呼吸を整え、破裂しそうなほど激しく軋む右肩を庇いながら戦況を伺う。

 残りは二人。その内一人は気丈にも結城を威嚇するだけの戦意を保っているが、もう一人は恐慌状態に陥って銃すらまともに握れずに震えている。

 ビル自体はそう広い訳ではなく、各階層ごとに一つのフロアしか存在しない。つまり、残りの二人を殺せば一階の制圧は完了する。しかし、二階へ上がる階段とは少し距離があった。各フロアの階段はそれぞれ離れた位置に設置されており、フロアの大部分を通り抜けないと先へは進めないように設計されている。これは元々反社会的勢力の拠点であったせいだろう。侵入者を蜂の巣にするための構造が、この悪趣味なゲームに巧く利用されていた。

 不利を悟った上で、愚直に進み続ける以外の攻略法は存在しない。

 全身がガタガタと震え出し、落ち着き掛けていた心音が再び加速する。決して怖気づいている訳ではない。寧ろ不可解な高揚感が全身を貫き、アドレナリンの過剰分泌で必要以上に漲った力が熱に変わって全身を火照らせていた。

際限なく上昇する体温、目にも止まらぬ速度で回転を繰り返す脳。駆られ続けていた焦燥と殺意の狭間に芽生えた奇妙な感情の渦に呑まれ、結城は凄絶に笑った。

「お前らに恨みはないが、ここで殺させて貰う。地獄で待っていてくれ。」

 宣言と同時に発射された二発の弾丸。月下に降り立つ獣に睨まれた不運な男達は、抗うことさえ許されずにその命を刈り取られた。

 フロアに散乱した血塗れのガラクタ。五体全てが物言わぬ躯であることを確かめた後、結城は眉一つ動かさずに階段を駆け上がる。

 新たなフロアに足を踏み入れた瞬間、鋭い風切り音が結城の頬を掠めた。

「来たぞ!ターゲットだ!」

 威勢の良い掛け声と共に襲い掛かってきた刺客は二人。繰り出された二発の銃弾の軌道を何とか予測してやり過ごすと、結城は不敵な笑みを浮かべた。

「行かせて貰う。」

 言葉を発すると同時に踏み込んで距離を詰め、向かって右端に立っていた男を蹴り飛ばす。その反動を利用して壁際に飛んで反撃を躱し、床に倒れた男の脳天に鉛玉を撃ち込みながら、タイミングを正確に見定めて左側の男を撃ち抜く。

 それは、ほんの刹那の攻防だった。

 決して多くない装弾数を全て撃ち切ったデザートイーグルを軽く振り、結城は疲労と焦燥を滲ませた短い溜め息を零す。

 結城が突入してから二階に上がるまでの僅かな時間で、既に七つ分の命が空へ還った。

 それに引き換え結城は未だに無傷だった。過度な負荷が掛かり続けていた右肩はそれなりのダメージを負っているだろうが、それだけだ。

傭兵が束になっても掠り傷一つ負わせることすら叶わない、圧倒的な暴力の化身。

 これこそが、阿修羅の真髄であった。

煩い経験論も雁字搦めの理性も、今この場では無用の長物でしかない。冷静さと広い視野だけは決して手放さず、それ以外は本能に従順に従いながら、鮮血が乱れ舞う空間を利用して大胆に立ち回る。爆発的な瞬発力と人間離れした第六感を存分に活用し、結城は鼠色と真紅が入り混じったフロアを縦横無尽に駆け抜けた。

柱の陰に潜んでいた最後の一人が飛び出してくるのを、視界の端で捉える。飛んできた銃弾は床を穿ってコロコロ転がり、焦げた火薬の匂いが結城の鼻を衝いた。床を蹴って一度引き離すと、腰のホルスターから抜き放ったグロックを握り締め、無造作に撃つ。ありふれた自動拳銃ではあるが、その分滅多に使わないデザートイーグルよりも余程手に馴染んでいる。鉛玉は吸い寄せられるように脳天に突き刺さり、一撃で脳漿まで木端微塵に粉砕した。

一階及び二階、制圧完了。

飛び散った血と内臓を申し分程度に拭い、結城は再び走り出す。

朴念仁だの堅物だのと揶揄されるほど表情の乏しい結城だったが、こうして地獄に身を置く間は幾分か表情が豊かになる瞬間があった。一人殺す度に口角が吊り上がり、血走った目玉は飢えた獣のように爛々と輝く。

特に今この瞬間、結城は全身が熱に浮かされるような不思議な感覚に突き動かされていた。目覚めた本能のままに全てを蹂躙する鬼神のような男は、雇われただけの私兵にとっては最悪の死神だっただろう。

阿修羅そのものの狂気を纏い、獰猛な本性を解放させた獣は次の狩場を目指して地獄絵図を駆け抜けた。



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