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八咫烏と蛍草  作者: 綺月 遥
6/7

黄なる涙

星祭が幕を引き、弓張り月も叢雲に呑まれて跡形もなく隠れた頃。眠らぬ街と謳われる一千万の大都市、それでも煌びやかな街並みは時間の経過と共に輝きを失っていく。圧倒的な存在感を誇る色鮮やかなネオンライトも、遠くの星のように瞬いていた橙色の生活灯も少しずつ夜に侵食されていき、いっそ毒々しいほどに強烈な紅を放つ航空障害灯だけが、藍色に呑まれずに孤独に輝き続けていた。

 強化ガラスで囲まれたエレベーターに越しに月が去った後の空虚な夜天を眺め、結城は独り一際深くて長い溜め息を吐き出した。草木も眠る丑三つ時も半ば過ぎ去った今こそ、悪名高い烏の怪物どもにとっては眠るどころか最も活発で喧噪に塗れた時間帯である。

 これから結城が取り掛かる仕事は、この巨大な伏魔殿を象徴するような血生臭くて不愉快極まりない作業だ。ほんの数時間前に見た花のような笑顔との、この世のものとも思えない温度差に眩暈がする。目的地に到着するまでひたすら下降を続けるエレベーターは、宛ら地獄への輸送装置。なら、結城はさしずめ死神だろうか。

 ここまで気が乗らないのも久々だ。だが給料分の役割は果たさなければならない。

 いつの間にか地中へ突入していたエレベーターが停止し、僅かな衝撃と共にガタガタと耳障りな物音が響く。次いで開け放たれた狭い扉を抜けると、途端に噎せ返るような血臭が強烈に鼻を衝いた。無骨でだだっ広い空間の真ん中で、ガラクタのように横たわる人型の生物を踏みつけながら、紫紺の漢服を返り血で染め上げた糸目の男がニタリと嗤う。

「随分と遅かったじゃないか。」

 薄暗い空間の中、蛇のように粘着質で、それでいて何処か砂漠のように乾いた独特の声が不気味に木霊する。戯れのように足元に転がした男の肋骨を一本踏み砕き、待ち構えていた上司は愉しげに笑った。骨が軋んで爆ぜる音と響き渡る断末魔を無視し、結城は無言で頭を下げて愛用のグロックを取り出す。近寄るほどに濃度が増していく血溜まりに辟易しながら、ロンと男の目の前に辿り着くと同時にセーフティを外して男の脳天に照準を合わせた。

「遅れて申し訳ありません。現状の進捗はどの程度でしょうか。」

「なかなかにしぶとかったが、少しずつ吐き始めている。飼い主は氷室組だそうだ。残りは動機だが、ここからはお前の方に任せる。速やかに吐かせろ。」

「了解しました。」

 無表情で頷いた結城に薄く笑ってから最後に男の膝を蹴り砕き、ロンは静かに後ろへ下がった。代わりに前へ進み出た結城は突き付けた拳銃を一度下ろし、腰を僅かにかがませて満身創痍の男と目線を合わせる。どうも見覚えがある顔だ。結城の麾下の中では比較的関わりがある立場の人間だったか、又は自分の預かる一部隊に連なる構成員だった者か。もしかしたら食事くらいは連れて行ったことがあったかもしれない。顔見知りを処断することなど今更珍しくもないが、到底良い気分にはなれなかった。

「裏切り者には死を。それはお前もよく知っているだろう。日本だろうが大陸だろうが将又西洋だろうが変わらねぇ、それが裏の掟だ。」

 拷問も尋問も、方法なんて星の数ほど存在する。故に、相手を散々甚振って痛め付けるのがアケガラスの流儀だった。加虐趣味のない結城のような人間からすれば不愉快でしかないが、効率が良いことは間違いない。しかし、他者を殺して自分が生き残る為に刃を研ぎ続けた結城にとって、殺さない程度に嬲るという行為は加減が酷く難しかった。拷問はロンや和泉の得手だ。今この場に結城が呼ばれた理由は、どちらかと言えば情けの色が濃い。

「……そう、か。あんたが死神だなんて、幸運でした。」

 案の定、男は入れ替わった結城の顔を見るなり、あからさまに安堵の表情を浮かべた。大多数の部下達にとって、結城という男はこの世界では類を見ないほど温和な上司だ。無論、結城の化け物染みた強さを知らない者は存在しないが、百戦錬磨の魍魎共にも奇妙な安心感を抱かせる不可思議な力があった。

 視線を合わせたまま互いの吐息が掠めるまで距離を詰め、相手の髪を掴んで無理矢理顔を上げさせる。容赦ない力加減に顔を歪めた男は、次いで凍て付くような結城の眼光を正面から喰らって呆気なく怯え出した。特別睨まれる訳でも凄まれる訳でもない。しかし、阿修羅とまで呼ばれた男から注がれる絶対零度の視線は恐ろしく冷たくて重かった。

「お前、既に雇い主も吐いたんだろう。もう後戻りは出来ない。向こうにとってもお前は立派な裏切り者だ。ここで何を成してもお前に明日はない。だが、死に方くらいならまだ選択の余地はある。」

 艶のある低い声が薄汚れた処刑場に反響し、淡々と紡がれる言葉が男の脳髄を穿っていく。ロンが人を謀り弄び嬲りながらジワジワと息の根を止める蛟だとすれば、結城は修羅に生きる獣だった。光差す世界に産まれながら、光の中では生きられなかった男。それでも、今も尚高潔で在り続ける魂の質量はあまりにも圧倒的だった。

「今この場で動機を全て吐き出して一息で死ぬか。強情を貫いて、生きながら少しずつ切り裂かれて死ぬか。好きな方を選べ。」

 目も当てられないほどガタガタと震え出した男を内心で哀れみながら、結城は淡々と苛烈な飴と鞭を突き付けた。裏社会の人間は、誰しも他人に対する情を何処かに置き忘れて生きている。だが、結城に限っては情も義理も何もかも捨てられなかった。人らしくあるための箍を外せないまま銃を握って、相手を哀れみ気に掛けながら容赦なく踏み付け命を奪う。結城が疎む己の矛盾は、皮肉にも彼の最大の武器だった。

「雇い主を吐いた時点で、俺達が知りたかった情報は手に入っている。お前はとうの昔に用済みだ。今すぐ解体して売り飛ばした方が余程儲かる。だが、お前はアケガラス設立時からの構成員だ。だからこそ、お前は動機なんて簡単な自白をするだけで楽に死ぬことを許されたんだ。これはアケガラスからの最後の温情だ、くれぐれも無駄にするなよ。……未練があるならそれも吐け。死ぬ前に言えば、俺も出来る限り動いてやれる。」

 最終通告と同時に手を放すと、硬直したボロ人形のような体が冷たいコンクリートの上に無様に転がった。

「自供する気があるなら五秒以内に手を挙げろ。さもなければ指を一本ずつ切り落とす。」

 懐から抜き放ったナイフを静かに回転させると、羽虫にたかられた蛍光灯のうすぼんやりした灯りに照らされ、鈍色の刃がギラリと揺らめく。研磨された刃先を喉元に突き付けられた男は、全てを諦めたように諸手を挙げて降伏の意を示した。

「……大した理由はありませんよ。カタギの妹を人質に取られましてね。アケガラスに入った時点で距離を置いてました。だから毎月金だけ振り込んでたんですが、そこから特定されたんでしょう。親に捨てられた俺にとっちゃ唯一の身内なんです。……結城さん、最後に頼みがあるんです。俺が処刑されるのは構いません。だけどアイツは……あの子は何も知らない。本当に優しい子なんです。俺のことはどうバラしてくれても構わねぇ、だからあの子だけは……見逃してやってくれませんか。」

 血と煤で汚れ切った身体はボロボロに壊され、最早死を待つだけの男。二十数年の短い人生に鉛玉を打ち込まれる瞬間が目前まで迫っても、加虐趣味のロンを以てしてしぶといと言わしめた男の瞳には、確かな覚悟が鮮烈に迸っていた。

「約束しよう。お前の資産は組織に還元されるが、俺が幾らか金銭的な支援もしてやる。だから安心して逝け。」

 真摯な眼光を真っ向から見返し、結城は表情一つ変えずに頷いた。それに呼応するように、ロンが小さく首肯する。絶望と覚悟で埋め尽くされた男の顔が、ほんの僅かに安らいだ。

「感謝、します。こんな世界でもどうか、あんたは、生きてください。」 

 穏やかに目を閉じた男の眉間に銃口を向けると、結城は躊躇を振り切って引き金を引く。弾丸が空気を貫く鈍い音と共に、必死に足掻き続けた男の頭部が派手に吹き飛んだ。

 散らばった血液と肉片、頭を失った胴体が伽藍洞の広間にポツリと残されて床に散乱し、つい先ほどまでとは比較にならない量の血溜まりが床を覆い隠す。ボロボロだった身体は正真正銘物言わぬガラクタになり果てて、消え失せた命は二度と戻ることはない。

 全て終わったことを見届け、結城は持参していた通信機で部下を呼び出す。死体の後処理の指示を出した後に再び死体に向き合うと、銃とナイフをしまってから死体に自らが羽織っていたジャケットを掛け、静かに手を合わせて瞑目した。

「良くやった。これで六人目か?」

「はい。恐らく残りは元締めだけかと。特定は難航しましたが、ほぼ完了しました。指示さえ頂ければ、いつでも始末は可能です。」

「今は泳がせておけ。追加で放たれても面倒だ。」

 踵を返したロンの後を追い、結城は再びエレベーターに乗り込んだ。速度を上げて天へ昇っていく箱の中は完全な密室状態となる。幹部が集まる階に直通しているこのエレベーター内には、機密保持の目的から監視カメラが設置されていない。誰にも聞かれる心配がないこの空間は、密談には適した場所だ。

「随分と鼠の数が多いように思えますが、やはり複数の組織が結託していると結論付けて良いのでしょうか。」

 これまで行った尋問で名前が挙がった組織は合計で五つ。先日徹底的な報復を行った紀川組や今回始末した男が抱き込まれていた氷室組を始めとして、いずれも古くから東京の地に根を張る任侠組織だった。

「間違いないだろう。お前の一件から伊月と追っていたが、いずれの組も身の振り方を巡って内部分裂が顕著になっている組織だった。共通の争点は一つ、奴らにとって異分子である我々アケガラスの存在を容認するか否か。今回の件は、内部分裂で劣勢に立たされた各組織上層部の否認派の連中が、小賢しくも共同戦線を張ったことが発端だ。」

 アケガラスが誇る最高幹部が二人も出張っただけあって、今回は滅多に見ない規模の大きな厄介事だったようだ。初めて知った全貌に戦慄を禁じ得ない結城を愉しそうに一瞥すると、ロンは上機嫌に景色を眺め出した。

 打倒アケガラスを目的とした共同戦線。それなら、これまでに起きた全ての辻褄が綺麗に合う。今まで当たり障りのない関係を保っていた紀川が襲撃を実行したのも、間違いなく否認派によるものだろう。いつの時代でも何処の世界でも、過激派と呼ばれる連中は手段を選ばないものだ。これまで築き上げてきた信頼を利用し、取引をダシに最高幹部であるロン、或いはその側近である結城を始末しようと企んでも何ら不思議ではない。

 個々の規模はそこまで大きくないとは言え、長い歴史の中で力を蓄えてきた五つもの組織の権力者が集えば流石に侮れない勢力になる。幾らロンとは言え、そう簡単に片付けられる相手ではない。ならばロンの右腕である結城も共に敵本陣を追うべきではないだろうか。静かに独り黙考を始めた結城に、ロンは細い眦をうっそりと吊り上げて笑った。この無愛想な男が稀に見せる可愛げのある思考回路をロンは存外気に入っている。

「なんだ、情けない面を晒すんじゃない。昔みたいだぞ。」

「何の話でしょうか。」

 途端に失われた可愛げに、ロンは一層笑みを深めた。遥か昔に見たきりで、一向に見せることのなくなった餓鬼らしさを、ロンは未だに好ましく思っていた。  

 首領と共に新天地を探して訪れた島国で奔走していた頃、全てを放棄したように路上で死に掛けていた餓鬼を拾った。何のこともない、単なる気まぐれだ。だからロンも滅多に帰らない自宅にとりあえずの寝床を用意してやった後は放置していたし、餓鬼も特別ロンを慕うような素振りは見せなかった。時折気が向いた時に裏の心得やら技術やらを叩き込んでは遊んでやるくらいで、餓鬼が夜に抜け出しても口を挟んだことはない。もう一度助けてやる気はなかったのでいずれ死ぬだろうと傍観していたが、気付けば七年も傍に置いている。

 養い親のつもりはない。餓鬼とは言え、出会った時点で二十歳は越えていたし、そもそも寝床以外は特に与えなかった。結城の方も親だなんて思っていないだろう。ロンは結城の本名も知らないし、自ら明かしたこともない。ひとつ屋根の下に住んでいるだけの他人に過ぎなかったのに、何故か結城はロンに着いて来た。その時流石のロンも、自分がある種の奇妙な愛着を抱いていたことをようやく自覚した。

 無骨で聡いわりに単細胞なところがある部下がロンの身を案じていると思うと、腹の底に巣食う腐敗した良心の欠片が愉快に爆ぜる。本来なら無条件に付き従う立場である結城が、今回だけ単身で動いている理由が分からない訳がない。だからこそ、やたらと難しい顔で考え込むかつての餓鬼の姿は悪くなかった。同時に、情を捨てることさえ叶わなかったこの男の行く末が、らしくはないがほんの少しだけ気掛かりだった。

「結城、お前はくれぐれも手出しするなよ。今回主軸となって動いているのは伊月の方だ。私の面子を潰せば殺す。」

 そもそも今回主な被害に遭ったのは、ロンではなく伊月が率いる薬物部門だ。武器部門からは、ロンのみが私兵を動員して伊月の捜索に協力している。鼠狩りの別働を担う結城の役回りはあくまでもサポートであり、この約定を勝手に反故にすれば伊月の怒りを買うことになるだろう。そうなっては流石に寝覚めが悪い。

 結城もそれは重々理解していたのだろう、釘を刺されれば素直に頷いた。それきり会話は途切れ、並び立った二人の男を運ぶ小さな箱は静かに上昇を続けていく。

「しかし、あの鼠も哀れなものだ。妹など最早この世の何処にもいないだろうに。」

 思い出したように落とされたロンのさりげない呟きは、夜の湖水のようだった結城の中に岩を投げ込むように響いた。あの男の身柄を拘束して、処刑場へ送り込んだのは結城自身だ。当然素性も全て洗い出している。あの男が氷室組と内通し始めてから僅か三日後、男の妹はいつでも自らを監視する氷室組の存在に勘付いた。賢い彼女は裏社会に身を沈めた兄を想い、離れても大好きだった家族の足枷になることを恐れて自ら命を絶っている。妹の為に命を投げ捨てて裏切り者へ成り果てた兄と、兄を殺させない為に死んだ妹。螺旋を描くような悲劇の連鎖だ。強くて哀れな男の今際の願いすら、結城が知ったその時には既に葬り去られていた。

「今回の一連の件で数人尋問しましたが、ほとんどの鼠が身内を人質に取られています。別に珍しい話ではありませんが、それにしても多いように思われますが。」

「単純に安上がりだからだろうな。恥を捨てて結託しないと動けないような連中が、大それた経済基盤を持っている訳がない。金を積まずとも裏切らない手駒だ、さぞ便利だろう。」

 当たり前のように言い渡された答えを、結城は異常だとは思わなかった。切り捨てられなかった人間から利用され、強く想うほど悲惨に死んでいく。それが裏社会だ。道徳も常識も倫理も何の役にも立たない地獄で愛を叫んだところで、魍魎共が貪る甘い蜜にしかならない。

 切り捨てられない人間から死んでいく。夜の世界の住人に愛された人間ほど、残酷に命を擦り減らす。

 切り捨てなければ生きることすら許されない。それがこの世界だった。

 しかし、結城は情も義理も切り捨てられなかった。だからこそ他の全てを捨てたのだ。

 最初に手放したのは自分の名前だ。人生の始まりに母から贈られた愛の証明を捨てた時、全てが綺麗に回り出した。欲を消し、愛を拒み、誰にも心を許さずにただ死なない為に生きた十年間。

 今更見苦しい言い訳を連ねる気はない。全ては結城が選んだ道の延長線上に存在する未来だ。

 確かに結城はどちらの世界でも生きていけるだろう。実際記憶の片隅で、結城によく似た青年は常に前だけを見て笑っていた。十年前、たった一度の惨劇の末に失った全て。あの夜を最後に、結城は何も知らないまま真綿のような幸福を掴み取る権利を残らず手放した。

 何もかもを叶えられず、何もかもを失った人生だった。それでも結城は生きている。阿修羅に成り果てても消えない命に絶望した回数は数知れないのに、それでも数え切れないほどの修羅場を潜り抜けて今も息をしている。

どれだけ探しても、どれだけ足掻いても、生きる意味なんて何処にもないのに。

 誰にも明かされずに朽ちていく、結城の孤独な傷跡。それは奇しくも、荒木が抱えて生きてきた喪失の傷と酷く似ていた。

 もしも彼女が人質に取られたなら。考えるだけで腸が煮えくり返って、氷の心臓が激しく軋んだ。結城は恐らく彼女を切り捨てられない。組織を裏切ってでも彼女を攫うだろう。しかし、荒木は件の妹に負けず劣らず聡明な上に、命への執着があまりにも薄い。あの人はきっと、自分の命なんて屑ごみよりも容易く放り出してしまう。

 そんな結末、認めてなるものか。

 握り締めた拳に込めた万力が皮膚を食い破って骨を軋ませても、結城は決して解かなかった。暴れ出しそうな激情を拳に封じて前を向く。瞳を満たす深海の底で、悲痛な覚悟を宿した光が美しく瞬いた。 

 

 抜けるような青に塗り潰された空。七夕の夜からもう、二日も経ってしまった。

夏本番はもう、すぐそこまで迫っている。蒸し暑い店の中でも、私が座るカウンターは窓の真隣だ。外から伝わる熱気と空調から吐き出される冷気に挟まれて、額から流れる汗が冷たく滴った。心做しか、頭がクラクラと茹だるような心地すら感じる。

 それでもまだ耐えられると思った。まだまだ休むには早いから、気力を奮い立たせて接客に集中する。無理を突き通せば、いつかは苦しさも消えていく。ゴリゴリと削られていく体力にも気付かないくらい仕事に傾けば、内側へ向ける意識も際限なく疎かになっていく。

 だから、悲鳴を上げる身体が限界を迎えるまで、私は何も気付かなかった。

 最初に襲われたのは、喉の付け根を握り潰すような強烈な息苦しさ。次いで心臓が悲鳴を上げて軋み始め、穏やかな世界が反転した。

 酸素を上手く取り込まない。まるで心臓が生を拒絶しているかのように、身体全体が震えに震えてる。酸欠状態に陥った脳が心臓に鞭を打つせいで、加速する動悸が小さな身体を脳天から刺し貫いた。

 ゼエゼエと不快な呼吸音が響き出した店内で、誰かが驚いたようにこちらを指さすのが、霞んでいく視界の隅で浮かび上がっていた。本当は今すぐ大丈夫ですよと微笑みたいのに、異様なスピードで暴れ回る心臓が当たり前の日常を許さない。

「あの、大丈夫ですか?」

 降って来た柔らかい声は焦りの色が濃く表れていて、混じりけなしの心配が苦しいほど伝わってくる。大丈夫ですよ、ありがとうございます。そう紡ごうとした声は耳障りなノイズに?き消され、爆散寸前まで膨れ上がった発作が容赦なく脳を蝕んでいった。

「志帆さん……?大丈夫ですか?しっかりして下さい!」

「駄目だ返事ない!」

「本格的に不味そうです。自分救急車呼びます!」

 にわかに慌ただしくなった店の様子に、気付く余裕なんて何処にもなかった。崩れ落ちた手足を必死に伸ばして、いるはずもない誰かに縋り付く。誰か、誰か。お母さん、お父さん、お願い手を握って。私はここにいるから、まだ生きているから、だからまだ、もう少し。もう少しだけ、この世にいさせて。未練なんてないけど、まだあの人にお別れを言っていないの。優しくてかなしい烏みたいな人ともう一度会うまで、どうしてもこの世を諦めきれないから。

 生きていたい訳じゃない。

 ただ、まだ死ねない理由があっただけ。

 二度と会えなくても、他人同然だったとしても、大嫌いな生を乞うほど焦がれた人が恋しかった。

「しっかりして、志帆ちゃん!」

「救急車まだですか?」

 残響のように木霊する声の群れが、耳を素通りして抜けていく。手足を弛緩させながら、ヒュウヒュウと嫌な音を立てる左胸が痛くて苦しくて、不意に冷たい感触が頬を伝った。

 会いたい。会いたいよ、あなたに会いたい。

 一生叶わないと思っていた幸せと、淡い夢をくれた人。

 傍にいて欲しい。叶わない願いを抱いてしまうほど、あなたが愛しい。

「荒木さん!どうしよう、どんどん呼吸が荒くなってる……。」

「救急車来ました!今表の通りに入ったみたいです!」

 どんどん遠くなっていく喧噪に混じって、妙に聞き慣れた甲高いサイレンの音がぼんやりと耳を揺らす。擦り切れていく意識の底で、誰かが幸せそうに笑う顔が翻った。

 沈みゆく意識は、最下層に辿り着くと同時に、深い眠りに落下していった。


 泡沫を寄せ集めた命の欠片が、また一つ綻んで解けていく。ひっくり返した砂時計が零れ落ちていくよりもずっと無情な音を立てながら、残された時間が抉られていく。夜を待たずに散り逝く露草の花のように、擦り切れた小さな命は小さな両手を擦り抜けて、あっという間に零れ落ちていった。


 漏れ出る光に押されるように、重たい瞼がパチリと開く。釣られて視線を上に向けると、グラつく視界いっぱいに、見慣れた寝室とはかけ離れた白い天井が広がっていた。

 白いベッドに寝かされた身体は鉛のように重たくて、今にも燃え尽きそうなくらい波打っていた心臓は、嘘のように静まり返っている。ゆっくりと身体を起こすと、僅かな眩暈とふらつく視界の向こう側で、西に傾こうとする白い太陽が見えた。

 ここは何処だろう。

 朧気な意識の中でぼんやりと浮かんだ疑問が、上手く働かない思考を静かに反芻して駆け巡っていく。店とは似ても似つかない空間で目覚めた脳味噌は、しかし次第に冷静さと理性に助けられてとある答えを弾き出した。

 私はここを知っている。ここは都内の病院、私が昔からお世話になってきた病棟のベッド。昔、ここに入院したことがある。なら、どうして病院に?

 仕事中に突然動悸が激しくなったことまでは覚えている。だけど、多少の発作なら意識までは失わない。余程酷かったのか。確かにまだ、左胸が軋むような不快な感覚が残っていた。

 両手を握り締めて、手のひらに残る感触を確かめる。手、首、その次は足。全身を問題なく動かせることを確認する。

 ああ、生きている。まだ、生きている。

「……今回も死ななかったのね……。」

 ポツリと呟いた言葉は、殺風景な空気に溶けて消えていく。ここまで大きな発作を起こしたのは何年かぶりだった。また行きそびれた、そんな寂しさが心を包んでいく。でもどうしてだろう、響いた音には何故か否定し切れないほどの安堵が滲んでいた。

 どうやら私は、仕事中に重度の発作を起こして救急搬送されたらしい。エプスタイン病の症状の一つ、頻脈を伴う不整脈。しかし、意識が飛ぶほど危険な発作を起こした経験は数えるほどしかない。不整脈による意識消失は時には死に至るほどの重症であること、また今回に関しては重度の貧血や喘息などの合併症状も見られたことを考慮して、このまま数日間入院することが決まった。

「エプスタイン病についてですが、薬物療法にも限界があります。今回のような発作も何度かあったようですし、手術も視野に入れて治療を行った方が良いと思われますが……。」

 さらさらと突き付けられた提案は至極当然で、本当なら逡巡する理由なんて何処にもないものだった。だって、今まで手術に踏み切ってこなかったことの方がおかしいのだ。生来の虚弱体質が成長と共にマシになっていくのとは対照的に、持病の方は年々少しずつ重症化しつつある。難病に指定されている病気を抱えて生きるのだから、手術しない理由なんてない。

 それでも私は、どうしても素直に頷くことが出来なかった。

「……すみません、まだ様子を見させて下さい。」

 白髪に眼鏡を掛けた顔見知りの先生が、穏やかな顔を気遣わしげに歪める。十代の頃からずっと、手術を打診される度に濁し続ける私に思うところがあるのだろう。頑固で意固地な子供の行く末を案じるような、溢れんばかりの憂いと優しさが滲む眼差しが、今だけはただひたすらに痛くて仕方がなかった。

 泣き出しそうな痛みを抱えたまま診察室を後にして、殺風景な個室のシミ一つないベッドにそっと身を委ねる。憂鬱な気分を無理矢理誤魔化すように、私は几帳面に整えられた薄い毛布の小山を突き崩してそのまま潜り込んだ。

 死にたい訳じゃない。だって、死ぬ理由は何処にもないのだから。

 それなのに、私はずっと手術から逃げ続けていた。

 完治する病気ではない。それは紛れもない事実だ。でも、手の施しようはあるのだ。

 エプスタイン病の治療法は外科手術だ。手術さえ受ければ、かなりの高齢まで生き抜いた事例も存在する。

 疼く胸元をきつく握り締め、バラバラになりそうな心を必死に押し留める。分かっている、手術を拒む正当な理由なんか何処にもない。

 ただ、私があまりにも臆病なだけ。大切なものが全てこの手を擦り抜けていく世界で、生き永らえる覚悟が持てないだけだ。

 どれだけ懸命に生きても、愛した人も愛してくれた人も、等しく遠くへ行ってしまう。

 どうしようもない現実に打ちのめされてひしゃげた心を誤魔化すように、必要以上に薄い身体をきつく抱き締める。初夏から盛夏へと移り変わる東京で、私だけが異様に冷たかった。

 どれだけ、そうしていただろう。

 不意に、サイドテーブルの上のスマホが光り出した。

 けたたましいアラーム音を叫び散らしながら振動する端末を震える手で取り上げると、浮かび上がった見覚えのある二文字の名前は、他でもないあの人のものだった。

『もしもし、俺だ。聞こえるか?』

 いつもよりも少しだけ張り詰めた低い声が空気を震わせ、騒めいていた心臓が自然と凪いでいく。戦慄く唇を必死に動かし、穏やかな彼の凪いだ瞳を思い浮かべながら、誰もいない部屋で必死に笑顔を貼り付けた。そうでもしないと、彼の前でみっともなく泣いて縋り付いてしまいそうだったから。

「はい、荒木です。どうされましたか?」

 努めて明るく聞こえるように心掛けて紡いだ言葉は、想像以上に捻りに欠けていたかもしれない。内心で吹き荒れる心を隠し通せるほど、私は器用じゃない。幾ら取り繕おうが、烏のように聡い彼はすぐに違和感に気付いただろう。

 しかし、何故かこの瞬間に限って、結城さんは何も言おうとはしなかった。今までの真心が嘘のように、不気味な静寂が離れた二つの空間を占領していた。

 思えば、この不自然な沈黙が全てを表していたのかもしれない。長い間を開けて飛び出した言葉は、この世にあるどんなナイフよりも痛かった。

『あんたとの縁を切りたい。もう、金輪際俺には関わるな。』

「……え……。」

 全ての音が色褪せて、世界から光が消えていく。

 輝いた日々が崩壊していく絶望は、これで二度目だった、

 沈黙が続く部屋に響くのは互いの息遣いのみ。本当は、叫び出してしまいたいのに。

 いずれ切れる縁だった。いつか来るはずだった時が満ちただけ。分かっていた。

 苦しくなるほど、分かっていた。

 それなのにどうして私の身体はこんなにも痛むのだろう。

「そう……ですか。分かりました。」

 嘘だ。納得なんて、欠片もしていないのに。状況を呑み込むほど受け入れ難くて、突き付けられた現実が心臓を手酷く殴り付ける。引き裂かれそうな感情が渦を巻いて刃に変じていく。散り散りになった心が、心臓が、祈りが、何もかもが痛くて痛くて。

 咄嗟に抑えた左胸が疼いて仕方ないのに、当の本人は名残を惜しむ素振りすら見せなかった。

 初めて会った夜のような凍て付いた声は冷然と響き渡り、ぽっかりと空いた心の穴を容赦なく抉り取っていく。

『二度と会うことはない。今まで世話になった。俺のことは忘れてくれ。今は厳しいが、こちらの事情が落ち着けば改めて礼金と手切れ金を送らせて貰う。今まで散々世話になったせめてもの礼と詫びだ、どうか受け取って欲しい。』

 事務連絡のように淡々とした口調で、必要事項のみを並べ立てていく声は、間違いなく優しかった結城さんのものだ。なのに、今だけは見知らぬ異形の怪物のように、冷たくて悲しいナニカにしか聞こえない。

 嗚呼、もう本当にお終いなのね。

 残酷な現実を空虚な胸で受け止めた時、千切れそうだった心が砕けた音がした。

 堪え切れずに壊れた涙腺をそっと拭い取って、漏れてしまいそうな嗚咽は喉の奥底に閉じ込める。

 砕けてから初めて名前を知った感情が、ガラスの破片のように頼りない胸に突き刺さった。それでも涙だけは零すまいと顔を上げ、心臓を抱え込むように胸を張る。

 今ここにはいない人。もう二度と会えない人。届く訳がない最後の意地で口角を吊り上げ、私は大げさに微笑んでみせた。

「もう終わりなんですね。本当に、楽しかった。」

 身を裂かれるほど辛いのは変わらない。声を発する度に喉が締められるような心地がして、まるで発作がぶり返したかのように呼吸も次第に浅くなっていく。

 それでも涙は一滴も零さない。せり上がってくる胃液を無理矢理飲み込んで、音を立てないように深呼吸を繰り返して必死に体調を安定させながら虚空に向かって笑い続ける。

 滑稽でもいい。無駄でもいいから、今だけは。

 いずれ切れるはずだった縁だ、覚悟はとうの昔に決めていた。だったら最後に無様な姿を晒す訳にはいかない。

「あなたと過ごしたこの半月間は、天涯孤独だった私にとって何よりも貴重で眩しい宝物みたいな日々でした。感謝するのは私の方です。本当に、ありがとうございました。」

 破裂しそうな衝撃と喪失感に苛まれながら、不思議と彼に対する怒りや憎悪は一切沸かなかった。だって、私は彼ほど誠実な人を見たことがない。私との面倒な口約束を邪険にせず、最後の瞬間まで破格の誠意を尽くしてくれるこの人を、責めようだなんて思わない。

 涙も未練も見せないと決めた。逃れられないなら、せめて笑っていたかった。

『僅かな期間とは言え、俺と付き合いがあったことは誰にも言うな。あんたが生きる上で害にしかならない。』

「勿論です。どうか身体には気を付けて。出来るだけ長生きして下さいね?」

 私がいなくてもこの人は生きていける。分かっていたけれど、どうしても言わずにはいられなかった。

 電話の向こう側で、大きく息を呑み込む音が聞こえる。明らかな動揺が滲み出たような吐息交じりの沈黙の後、結城さんは零れ落ちたかのように静かな笑いを漏らした。

『随分と難しい注文だな。だが努力はする。……あんたもどうか元気で。どんな形でも良い、兎に角幸せになってくれ。……さようなら、志帆さん。』

 何処か切なさを帯びた言葉を最後に通信が途切れ、病室に再び静寂が降りた。

 堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出す。身体を喰い破るように渦巻く激情も、痛みも緩和されることはなく、恐ろしいほど的確に心臓を穿ち続けていた。止めどなく流れる涙が枕を濡らしても、七夕の夜に私の目元を拭ってくれた優しい人はもう二度と会えない。

 拒絶された理由を予想出来ないくらいに鈍ければ、こんなに苦しくはなかっただろう。

 結局、私は彼の弱味にしかなれない。見切りを付けられた、ただそれだけ。

 それでも最大限の誠意を尽くそうとする優しい彼が、いっそ恨めしかった。

 あの人がもっと不誠実な人間でいてくれたなら、こんなにも苦しむことはなかったのに。

 とっくに自覚していた想いに蓋をして、ままならない現実から目を背けて今日まで来てしまった。名前さえ付けなければ、この不毛な想いもいつかは廃れていくと思っていた。そんな訳がないのに、希望的観測に縋って。

 二度目の恋だった。

 それは初恋よりもずっと仄暗く色褪せた、不格好な感情の爆弾だったのかもしれない。それでも純粋だった想いは泡沫の夢のように儚くて綺麗で、失った今でも苦しくなるほどに眩い光を放ち続けている。

 理不尽に奪われたあの頃とは違う。結末は最初から見えていた。だから深入りしないように取り繕って、ただ私の願望を叶える為に無知で好都合な『善い人』として振る舞い続けた。誰かと囲む食卓が恋しくて、あの頃の温もりをもう一度味わいたくて、その為だけに彼にとって都合のいい拠り所であろうとした。

 ほんの僅かな日々でよかった。いつまで続くのかも分からない一生の中で、たった数日でも孤独を埋められた時間があれば、それだけで充分だったはずなのに。

 運命に呑まれて身を焦がして、喪失に蝕まれながら生きていく。色褪せていく記憶に焦って、何処か知らない場所で命を削り続ける彼を想い続けて、それでも笑顔を絶やさずに店を守って。想像しただけで苦しくて堪らない。

 叶わない恋、苦しい愛、甘くて残酷な夢。七年前と同じで、私の心に芽生えた恋情はいつだって無残に散っていく。

 生きながらこの身を焼かれるように苦しくて辛くて、それでも私は彼との出会いを後悔することだけは永遠に出来ないだろう。もう二度と会えない想い人を恨むことも忘れることも出来ないまま歩んでいく未来は、きっと限りなく不幸に近い。それでも私にとって、彼との出会いは奇跡であり続けるのだろう。

 最初から存在しなければ、失うことすら出来なかった。

 宿り木としての役割を果たすことはもう出来ないけれど、せめて私だけは孤独な彼の無事を死ぬまで願い続けていたかった。

 

 ガンガンと爆ぜるような痛みが脳味噌を蹂躙しても、とうの昔に凍てついたとばかり思っていた心が泣き出しそうなほど疼いても、それでも結城の歩みは止まらない。少しでも止まれば最後、辛うじて保たれていた結城の理性は残らず弾け飛ぶだろう。ほんの僅かにでも気を緩めてしまえば、結城の身体は病棟まで長い道のりを駆け抜けずにはいられまい。そうなれば歯止めの利かない心も暴走し、結城の覚悟も願いも全て捨て置いて愛しい女を抱き締めて、水晶のように透き通った美しい涙をそっと拭ってやるのだろう。

 荒れ狂う感情を無理矢理抑え込んで、ただひたすらに目の前の景色が広がる方へと足を動かした。気が狂いそうなヘドロを抱え込んで歩き続けていれば、次第に目の前が真っ白に染まって世界が反転するかのような幻覚が脳裏にチラついた。

 その後のことはよく覚えていない。気が付けば自宅のリビングに立っていた。時計が指し示す時刻が当初の予想と変わらないことから推測すると、どうやら民間人を轢き殺さない程度の運転は出来たらしい。伽藍洞の部屋に虚しく響く己の呼吸音を聞いた時、奥深くまで封じられていた激情が轟音を立てて爆発した。

 煮え滾る感情のまま振り下ろされた拳の犠牲となって、殺風景な部屋にもの寂しく置かれていた瀟洒なガラステーブルが粉々に砕け散る。無情に差し込む月光に照らされた破片が、惣七に身を裂かれる獣の姿を映し出して煌めいた。

 嗚呼、クソッタレ。世界一の愚か者に成り下がりやがって。

 血塗れになった右腕をぼんやりと眺め、結城は腹の底から込み上げた衝動のままに無様な己を嘲笑った。

 彼女と出会ってからの結城はあまりにも愚かで、見通しが甘かったのだ。

 志帆と同じ空気を吸っている間だけは、常に身体を蝕む寒さを微塵も感じなかった。

 ひび割れた虚ろな心が温もって、険しいと評される表情だって気付けばいつも緩んでいた。

 彼女に出会ってから、いつの間にか生に希望を抱けるようになっていた。

 だから手放すまでに大層な時間が掛かってしまった。彼女と過ごす時間があまりにも眩くて幸福で、優しい彼女を手折ってしまいたいと望んでしまったのだから。

 いっそ彼女を囲い込んでしまえば、全てが解決するのかもしれない。それなりにリスクも伴うが、天涯孤独の女一人程度どうにでもなる。組織もそんな些事に口を挟むことはない。結城が従順で使える人材である限り、飼い主であるロンやアケガラスはそれ相応の地位と報酬を保証してくれるのだから。どれだけ手を血みどろに染めても壊れないという特性上、結城は他の道具や飼い犬達よりも使い勝手がいい。使い潰されない限り、少なくとも彼女にそれなりの金を残せる程度の年月は生き抜けるだろう。

 決して不可能ではない。それでも結城は、その選択肢を自ら破り捨てた。

 不意に頬を伝った妙な温度に顔を顰める。破片に映り込んだ不格好な顔面の真ん中で、目玉から滴り落ちて散っていく小さな水が僅かに瞬いた。

 まともな人生と一緒に切り落としたはずの涙腺が暴発し、雄叫びのような嗚咽が全身を震わせながら溢れ出す。鋼よりも強靭だった理性は弾け飛び、何の罪咎もない置き時計がまた一つ結城の激情の犠牲となって砕け散った。

 本能のままに号哭する姿は、正しく獣の成れの果て。冷静さと精神力を武器に裏社会を生き抜き、阿修羅とまで謳われた孤高の烏の面影は何処にもない。

 荒木志帆という女に出逢ってしまったあの夜からずっと、結城は得体の知れない奇妙な熱に浮かされ続けている。本来の結城なら、幾ら恩人にせがまれたからと言って、初対面の女の家にわざわざ通ったりはしない。十分な対価を支払えば帳消しになる案件に、無駄なリスクを加算させるような愚行。それこそ慎重な結城が最も避けてきた危ない橋だった。当然受け入れる気なんてなかったのに、何故か熱の赴くまま承諾してしまった。

 堅物と揶揄される結城だが、色事の経験自体は決して少なくはない。仕事の一環として女をエスコートした回数は両手では足りず、抱いたこともあれば好き者に抱かれたこともあった。無論全て空虚な行為でしかなかったが、気に入った男を落とそうと狙うギラギラとした欲に塗れた視線は嫌というほど浴びてきた。

 しかし、志帆からは濁りの欠片すらも感じ取ることは叶わず、それどころか恩人への義理立てという名目で通えば反対に結城の方が尽くされる。それがあの女の恐ろしさだったと気が付いた時にはもう後の祭りだった。人畜無害なただの女でしかないのに、彼女はいつだって結城の仮面を笑顔で?ぎ取ってしまう。それが、全てを狂わせていった。

 自分とは正反対のようで、何処か似通っている彼女に恋をした。互いの歩幅は違っても、呼吸の温度は誂えたようにそっくりで、彼女の傍にいると息をするのが本当に楽だった。

 彼女との食事は、胸が痛くなるほど温かかった。彼女と会う時間は馬鹿みたいに穏やかで居心地が良くて、どうしようもないくらい幸せだった。

 七夕の夜、水晶のような涙を流しながら花びらのように微笑んだ彼女の美しさは生涯忘れられないだろう。

 星も見えない闇夜のような世界を生きてきた結城にとって、彼女は儚くもひっそりと未来を照らし温もりを振り撒く灯火そのものだった。

 だからこそ、どうしようもなく惹かれていくと同時に焦燥が募っていった。一刻も早く、手放せなくなる前に縁を断ち切れと己の理性が絶えず叫び続けていたのに、ズルズルと続けてしまった関係性が、今になって結城の心臓を刃よりも手酷く穿ち抜いた。

 自分のような男の隣にいれば、彼女はいつか必ず不幸な最期を遂げるだろう。良くて銃殺、悪くて拷問による衰弱死、最悪なら風俗に落とされ酷使された末の野垂れ死に。結城が歩む道の先にハッピーエンドが存在しない以上、結城はどう足掻いても彼女にとって最悪の死神にしか成り得ないのだ。

 不幸しか齎せないのなら、せめて最良の状況で手を離すことを選んだ。

 関係を完全に断ち切った今、己が死のうが消えようが彼女には一生伝わらない。

 そうすればいずれ結城の存在は彼女の中で限りなく小さな破片へと変わり、勝手に風化していく記憶の中で思い出の切れ端として処理されるだろう。二人で過ごした泡沫はいつしか無価値なものへと変貌し、結城という男の存在さえも記憶の彼方へ消えていく。それこそが結城の狙いだった。

 忘れてくれて構わない。恨まれても構わない。綺麗で優しい彼女には、こんな獣の隣なんて似合わない。だからどうか、光の当たる世界で笑っていて。

 献身的で利己的な願いの行方を知る者は何処にもいない。ただ粉々に砕かれたガラスの破片が月光を宿し、淡い白銀の光を宿して冷たく煌めいた。

 


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