夢幻泡影 前
深夜一時三十分、草木も眠りに就いた頃。
突如鳴り響いたけたたましい音に、眠りの淵で揺らいでいた意識が強制的に叩き起こされた。信じられないほど重い瞼を擦りつつ、音の発生源であるベッドサイドのテーブルに手を伸ばす。ブルブルと震える携帯に表示されていた番号は見知らぬもので、私は何も考えずに早々に切った。
大人しくなった端末をテーブルに戻して、明日の仕事に備える為にモゾモゾと再びベッドに潜り込む。しかし、相手もそう簡単に諦めてはくれないらしい。少しの間を置いて再び鳴り出した着信音に、盛大な溜め息を漏らしながらも再び端末を手に取った。
何かの勧誘なら断ればいい。身寄りがない私にとっては、詐欺だって大して怖くはなかった。とりあえず今は、煩わしい着信音をどうにかしなければいけない。
「……はい、もしもし。どなたですか?」
寝起きの不機嫌な声が狭い寝室に木霊する。普段の数段低い声色で相手を問えば、画面の向こうの誰かが動揺したように息を呑んだ気配がした。目眩がするほど静かな私の寝室とは対照的に、液晶を隔てた向こう側は騒音が幾つも重なって酷く喧しい。
『……結城だ。起こしてしまったか?申し訳ない、配慮が足りなかった。』
「結城さん?」
予想外の相手に、思わず叫び声が漏れた。考えてみれば、私の番号を知っている人なんて限られている。でも、前に結城さんが掛けてくれた時は公衆電話からだったのだ。彼自身の端末からだなんて、予想外でしかなかった。
「いえ、気にしないで下さい。でもこれ結城さんの携帯からですよね?……私が言えることじゃないかもしれませんが……大丈夫なんですか?」
『ああ、これはプライベート用の端末だから問題ない。滅多に使わないから処分しようと思っていたんだが、案外役に立つもんだな。すまない、早速本題に入らせて貰いたい。あまり余裕がないんだ。』
三日振りに聞いた艶のある低い声は電話越しでも変わらず静かだった。しかし、彼の掠れた吐息に混じって遠くから聞こえてくる怒声や切羽詰まった濁声から、画面を隔てた向こう側が平穏な状況ではないことが分かる。
「勿論です。どうされたんですか?」
裏返りそうな声を必死に噛み殺し、平静を装いながら端末を強く握り締める。滲んでいく脂汗を無言で拭うと、その手がガタガタと震えているのが分かった。
『正直、無関係のあんたに教えるべきことではないんだが……今から少しやり合う。俺もそれなりに修羅場を潜り抜けて生きて来た身だが、それでも生きて帰れるとは断言出来ない。遺言とは言わんが、俺に何かある前に伝えておきたいことがある。』
少しやり合う。濁された言葉の意味を、理解出来ないほど鈍くはない。少し煩わしい程度だった喧噪が急にこの世で最も禍々しい音であるかのように強烈に鳴り響き、ガタガタと揺らぐ脳裏を穿った。
『万が一、俺が死んだらあんたには伝わるように手筈を整えている。その時は俺の部下が幾らか金を渡しに行くことになるだろう。あんたは必要ないと言うだろうが、まだ恩を返し切れていない分最低限の誠意だけは貫かせて欲しい。』
脳髄を貫かれたような衝撃が全身を貫いた。彼が言葉を紡ぐ度に浅くなっていく呼吸が苦しくて、鈍く軋み始めた心臓が私の身体を責め立てる。
『後は……どうかしたか?呼吸が荒い。何かあったのか?返事をしてくれ。』
大丈夫ですよ。私は大丈夫。お金なんて要りませんから、生きてまた会いに来てください。
いつも通りの笑顔でそう伝えたいのに、壊れた玩具のようにギシギシと不快な音を立てる脳が邪魔をする。
やめて、まだいかないで。私からもう奪わないで。離れていくのはかまわないけれど、どうしようもないことだと分かっているけれど、それでも。
やめてよ、お願いだから、それだけは辞めて。
お願いだから、なんだってするから、だから。
絶え間なく脳を殴り続ける耳鳴りが、過去を無理矢理呼び覚ます。
血相を変えて駆け寄って来た先生の荒い呼吸音。心臓に釘を打たれるような哀しみ。身を貫く慟哭と軋む身体、そして手元に還ってきた二つ分の骨壺。
また失ってしまうのだろうか。折角拾い上げることが出来たのに、神様はまた私の世界を砕こうとしているのかしら。
やめてよ、もうあんなの耐えられない。
捨てられるのも、見放されるのも怖くない。何があったって笑っているから。
だから、わたしをおいていかないで。
短く浅い吐息の連鎖が暗い部屋に反響する。過呼吸交じりのざらついた響きが、スピーカーを通して東京の何処かにいる彼の元へと届けられた。
『落ち着け!大丈夫だ、俺はここに居る。ゆっくり息を吐け。ああ、それでいい。焦らず呼吸を整えろ。大丈夫、あんたは独りじゃない。俺がいる、だから落ち着いてくれ。』
例えるなら、深海に差し込む一筋の光を見ているみたいだった。静かな光がきらきらと差し込んで、昏い過去の呼び声を消し飛ばしていく。北極星にも似た光が、あまりにも眩しくて。
ひとりじゃない。その事実だけで、どれだけ救われるだろう。
『落ち着いたか?』
「……はい。ごめんなさい、取り乱しました。ありがとうございます……。」
必死に抑えた胸元から辛うじて声を絞り出せば、電話越しから差し込むように、安堵の滲んだ音が優しく響いた。
『……言い方が悪かったな。あくまでも万が一だ。まだ仕事は山ほど残ってるんだ、そう簡単に死んで堪るか。この件が一段落付けばまたあんたの所にも行ける。……それまで待っていてくれ。』
きっとこれから彼の両手は、誰かの血で染まるのだろう。それでも、私の前では何処までも優しい人でいてくれる彼の言葉は煌いていた。
彼の本当の姿は知らない。私には知る資格がない。それでも、彼があまりにも優しくて温かくて、どうしようもなく離れ難いと思ってしまったから。
「分かりました。……ただ、一つだけお願いがあります。」
『……?ああ、俺に出来ることなら何でも言ってくれ。』
さらさらと耳を撫でる声の温度に、胸が少しだけ痛んだ。
万が一、その言葉にきっと嘘はない。彼はきっと強くて優秀で、何日かすればまた顔を見せに来てくれると信じている。それでも、一度懐に入れてしまった人を失ってしまう可能性が傍にあるだけで、怖くて堪らない。
「次がいつになってもいいですから。その代わり、今この場でリクエストをくれませんか?」
ささやかで、自分勝手なだけの願いだった。本当にどうかしていると思う。これから命懸けの場所に赴く彼は呆れて何も言えないだろうか。
それでも、縋れる何かが欲しかった。それが下らない約束だったとしても、私に対していつだって誠実だった彼が無碍にはしないことを知っていたから。
やけに長い沈黙の後、少しの笑声を含んだ溜め息が夜凪を震わせた。薄く閉じ掛けていた瞼を開くと、全く変わらない穏やかな声が右耳に吸い込まれていく。
『じゃあ、筑前煮が食べたい。昔好きだった。』
ありふれた家庭料理の中でも、素朴で飾り気がないもの。優しくて温かい味の、私の一番の得意料理だ。いつかの彼も、どこにでもあるような煮物を口にしていたのだろうか。おいしいと、思っていたのだろうか。生と死の狭間に身を置く前の彼の姿が垣間見えて、温もりと苦みが混じったような奇妙な感情が湧き上がってくる。
「ありがとうございます!用意しておきますね。」
不確かで宙ぶらりんな関係を唯一繋ぎ止められるのは、傍で過ごすうちに少しずつ積み上がっていく些細な約束だけ。守る義務も義理も何処にもないのに、私も結城さんも頑なに貫き続けている。
この関係に固執しているのが、私だけではなかったとしたら。
だとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「余計なお世話かもしれませんが……死なないで下さいね。待ってますから。」
長々と引き留めて良い場合じゃないと分かっている。それでも言わずにはいられなかった私の心を汲んでくれたのか、結城さんはクスリと笑ってから穏やかに言葉を紡いだ。
『ああ、約束しよう。落ち着いたらまた連絡する。』
「はい!では失礼します。くれぐれもお気を付けて!」
精一杯の明るさを保ったまま、そっと通話を切る。向こうの声が完全に切れたことを確認して、糸が切れたように全身から抜けていく力を辛うじて引き留め、ベッドサイドの小物入れから数粒の錠剤を取り出した。水を取りに行く余裕もないまま一気に口に放り込み、砂漠みたいな喉に無理矢理流していく。重石のように圧し掛かってくる重力に抗う余力はなくて、ガタガタと震える身体は引力のままにベッドの上に張り付いていった。
分かっていたはずだった。
私が口出し出来ることなんて一つもないのだと。単なる部外者でしかないんだから、ただ耳を閉ざしているべきなんだと。
あの夜だってあの人は血塗れだった。幸い怪我自体は私でも何とか対応出来るものだったからよかったけれど、もっと長時間あの場に放置されていれば命の保証はなかっただろう。
そんな世界に住んでいる人なのだ。他人の命や自分の命を天秤に掛け合い、命を削り合って己の利を追及しながら生きている。きっと彼にとっては、命を危険に晒すことさえもリスクとして割り切れてしまうんだろう。命を捨てる覚悟で仕事に赴いたことも、そう簡単には死なないという言葉も嘘ではない。でも、彼の死生観はあまりにも哀し過ぎる。
私と彼では住む世界が違うことも、価値観も生き方も、命に見出す重みも全く違うことも、理解出来ていたと思っていた。
でも、あの時の私は本当にどうかしていた。
彼が命を落とす可能性だけでパニックになって、過呼吸を起こしかけた。分かりました、ご無事をお祈りします。最適解はたったそれだけだったのに、ただ取り乱しただけ。
あの時彼が宥めてくれなければ、私はきっとあのまま彼に縋り付いていただろう。
いかないで。傷付かないで。お願いだから、手の届かないところで死んでしまわないで。
短い付き合いにしかならないことは分かっていても、彼の存在はもうとっくに私の心の深い部分に突き刺さってしまっている。
情けないなんてものじゃない。それでも、あの恐怖は真実だった。
私だって死ぬのはそれほど怖くない。幼い頃から、何度か命が危うくなるような発作を起こしたことだってあった。それにもう、失うものなんてない。だから、簡単に死ぬ気はないけれど、死ぬのは怖くない。だからだろうか、その分身近な他人の死には酷く敏感になってしまう。それこそ、両親の死を未だに引き摺って生きてしまうくらいには、大切な人の生存には異様に執着する性質を抱えて生きている。だから、彼にだって生きていて欲しい。
それでもきっと、彼もまた自分の生死なんてどうでも良いのだろう。私と彼はきっと、一番いやな部分が誂えたようにそっくりなのかもしれない。一見綺麗なあのゴツゴツした手だって、本当は鮮血が常に付きまとう。あの夜の彼は私に感謝をしてくれたけれど、自分が生き残ったことを喜ぶ素振りは一度も見せなかった。
彼は生きることを望んではいない。それでも私は生きていて欲しいと願ってしまうから。
あなたと食べるご飯ほど美味しいものなんて、きっともう世界の何処にも存在しない。
世に巨匠と謳われるような画家が死屍累々という言葉を描いたのなら、純白のキャンバスにはきっと目の前の光景が克明に浮かび上がることだろう。反社の本拠地特有の優れた防音処置が施されたビルの中、結城は劈くような悲鳴と命乞いを無情に踏み潰しながら進んでいく。辺りに転がった残骸は既に息絶えたガラクタばかり。しかし、結城の聴覚は肉塊が爆ぜる不愉快な音に混じって響く荒い呼吸音を逃しはしなかった。
隅でモゾモゾと蠢く、かつて人間だった生き物を睥睨する無機質な眼は何の感情も映してはおらず、ただドロリと濁った虚無だけがその瞳を満たしている。其処ら中から聞こえてくる銃声も断末魔も、結城にとっては鳥の鳴き声と同じくらい身近なものでしかない。噎せ返る血臭も、ほんの十日前に飽きるほど嗅いだあの悪臭と何ら変わらなかった。
握り締めたグロックの装弾数は一七発。アメリカの法執行機関の多くが使用する正義の鉄槌も、所詮は火薬が詰まった暴力の道具でしかないのだ。
既に瀕死に陥っている標的の脳天に、黒々と輝く武骨な銃口を真直ぐに向けて狙いを定める。そのまま引き金ごと銃身を握り込む人差し指にほんの少しだけ力を込めてやれば、命なんて紙よりもあっけなくグシャグシャに砕けて意味を失う。
ホースから飛び出した水のように勢い良く空を舞った血飛沫が結城の白磁のような頬を赤く色付かせる。世にも毒々しい化粧を容赦なく拭い取る結城の後ろで、同じように始末を終えたらしい和泉が大きく伸びをしていた。
「もう終わりですか。結城さん、今日は何人やりました?」
「此奴で七人だ。思いの外早く終わったな。」
「正直拍子抜けですね。それなりに歴史がある組織でもこの程度なんて、お粗末にも程がある。」
息絶えた男の頭を鼻で笑いながら蹴飛ばした和泉に、結城は無言で首肯を返した。上層部が軒並み魔の黒社会を生き抜いた羅刹で構成されるアケガラスの報復は苛烈を極める。どんなに少なく見積もったとしても、この分では紀川の組織機能は壊滅を免れない。
「今回は奇襲もありませんでしたし。というか、本当に鼠がまだウチにいるんですか?結城さんの一件以降目立った動きもありませんし、既にどっかで死体になってるんじゃないですかね。」
分かりやすく仕事から逃げる口実を作り出そうとする和泉の言葉に、結城はしばしの間黙考したのち大きく首を振った。
「まだ手を引くには早過ぎる。自滅した可能性も低くはないが、巧妙に潜伏を続けていることも十分有り得る。どちらにせよ判断材料がない以上は捜索を続けるしかない。ここで退けば、死体になるのは俺とお前だ。」
結城の幹部補佐という地位も、武器部門の実質的なナンバースリーという和泉の立場も、ロンが保持する最高幹部という権力でさえも、全ては砂上の楼閣に過ぎない。負傷を持ち帰った程度なら咎められることもないが、裏切り者の捜索で手を抜いたとなれば、まず五体満足ではいられない。しかも、一連の案件で発生した損害は馬鹿に出来ない額に膨れ上がりつつある。首謀者は幹部が追っているが、鼠の殲滅も重要事項だ。結城や和泉の尽力が功を奏し、麾下に紛れ込んでいた内通者は既に数人始末を終えている。しかしいずれも末端に近い小者やら良くて中堅の構成員ばかり。これだけ大掛かりな内部工作なら、敵が用意した駒も切り捨て易い無能な人間ばかりではないだろう。アケガラス中枢付近に食い込み、構成員と敵方の橋渡しや機密情報の横流しなど、重要な役割を担う大将格の鼠が居るはずだ。
「お前達、無駄話を叩いている暇があるなら後処理の指揮に回れ。サツに嗅ぎ付けられれば仕事が増えるのはお前達だ。それが嫌なら励めよ。特に結城、朴念仁のお前が仕事を無理矢理詰め込んででも会いたい女が出来たんだろう?滅多に居ないしっかりとしたお嬢さんだ。なかなかの良い女じゃないか。」
「……何故あなたがあの人を知っているんですか。」
影も気配も音もなく突然目の前に現れた糸目の上司に、結城の胃袋と頭がキリキリと刺すように痛み出した。妖怪よりも神出鬼没なこの男に、自分の一挙一動が把握されている事実は今更驚くようなことでもない。問題はロンが荒木志帆の人となりを知っていることである。無関係の女に理由もなく手を出すほど、ロンが暇ではないことは知っている。子の男がわざわざ激務の合間を縫って小さな茶店に足を運んだ理由の三割は結城の内通を警戒しての行動だろう。二割は相手の女こと荒木が、偶然知った情報を漏らさないかどうかの見極めだ。しかし残りの五割は単なる好奇心と野次馬根性、そしてタチの悪い嫌がらせである。
ただでさえ虚無と疲労が滲んで崩れかけていた無表情を一層歪めさせた結城とは対照的に、和泉はいきいきと根掘り葉掘り荒木のことを聞き出そうとする。自身も中々の色狂いである彼はやはり、人一倍他人の色恋沙汰にも敏感だった。加えて、結城という男はかなり見目が整っているにも関わらず、恋人どころかセフレやワンナイトの相手すら今まで一度も作ったことがなかった。不能だとばかり思っていたアラサーの上司に訪れた遅い春の話なんて、死んでも聞き逃す訳にはいかない。
「ロンさん、その女ってどんなのだったんですか?女も男も仕事以外じゃ一切抱かなかった結城さんが気に入るんだ、相当な絶世の美女でしょうね。」
無神経極まりないことを言い出した和泉に結城は思わず顔を顰めた。それを見たロンは何処か楽しそうに蛇のような微笑を浮かべる。
「容姿は地味な方だろうな。磨けばそれなりに光るだろうが、大した器量ではない。だが人一倍聡くて心根も明るく芯も強い。何よりも度胸が素晴らしい。一般人にしておくには勿体ないくらいだ。私相手に真っ向から凄んできた。」
「あーなるほど、いい女には違いないですね。オレの趣味ではありませんけど。オレは顔も脳味噌も思いっきり弱くて可愛らしい方が好きです。」
ロンの言う『いい女』とは即ち『都合がいい女』の意である。確かに荒木志帆という女は、最高に使い勝手の良い人物だ。金銭も人脈も装飾品も要求せず、此方のやることに何も口を挟まず、余計な詮索もしない。あれだけ的確な状況判断を下せる能力があるのに情に脆く、押しにも弱い。おまけに呆れるほどのお人好し。あの夜出会った相手が結城でなければ、きっと彼女はその優しさに漬け込まれて利用され使い潰された挙句に、小汚い路地裏で人知れず息絶えていたかもしれない。覚悟もない無知な女が裏社会の人間と関わったその先には、大概碌な死に方は望めない悲惨な未来が待っている。
「……あの人は別に関係ないでしょう。そもそも彼女は俺の恋人でも愛人でもありません。この世界のことを何も知らない、ただ恩があるだけの一般人です。」
素っ気なく切り捨てた結城に、ロンは面白そうに糸目を揺らして笑った。数多の仲間や同業者達を淡々と手に掛けて生きてきたこの男が、まさか偶然手当を施されただけの女をこれほど気に掛けるようになるとは。部下がどんな私生活を送ろうと干渉する気はないが、思いがけない面白そうな展開に、愉快犯としての性がムクムクと顔を出す。
「本当にそれだけか?少なくとも、女の方はお前を好いているようだが。」
「有り得ません。何の根拠があるんですか。」
「ある訳がないだろう。だが、私の勘が外れたことが一度でもあったか?」
煽れば煽るほどに眼光の鋭さが増していく結城を観察しつつ、ロンは能面のような口角を三日月形に吊り上げて、心底愉快そうにニタニタと笑った。結城にとっては腐れ縁に近い、いけ好かない上司ではあるが、数奇な人生の中で磨き抜かれた第六感は半ば妖怪染みた域まで到達している。それがどんなに荒唐無稽な指示だったとしても、ロンの判断に従えば白も黒にひっくり返る事実を、結城は嫌というほど知っていた。ロンが荒木の心中に結城への感情を見出したというのなら、それもまた事実なのだろう。
だが、それが一体何だと云うのだろうか。
「彼女がどう思っていようが関係ありません。俺はただ恩人への筋を通すだけです。それ以上深入りをするつもりはありませんよ。」
柔らかい目尻をふにゃりと綻ばせた荒木の横顔を思い出す度に、液晶越しに聞いた荒い呼吸が結城の脳内に絶えず反響する。死ぬ可能性があると伝えただけでパニックに陥る彼女が、死の化身のような結城の近くで呼吸をしていること自体が間違っているのだ。
結城にとって荒木志帆という女は温かい居場所であり、同時に決して傷付けてはいけない借り物の宝石のような存在でもあった。
若くして両親を亡くし、天涯孤独の身の上。身体にも何かしらの爆弾を抱えていて、長くは生きられないらしい。絶望で塗り潰された過去と、硬く閉ざされた未来の狭間に身を置きながらも、それでも彼女はどんな星よりも眩しく笑っていた。
消え入りそうなくらい儚いくせに、短い生涯を力強く生き急ぐ。まるで野に咲く花のような女だ。例えるなら、丁度今の時期が見頃の露草の花だろうか。刹那に散り逝く定めを受け入れて、鮮やかな群青色の花弁を揺らして咲き誇る。決して目立つ花ではないが、朝露を纏って凛と佇む姿は、懸命に生きる彼女の笑顔と重なった。
「あの人は俺と関わって良い人間ではありませんから。理不尽な巻き添えで死なせてしまう前に縁を切りますよ。」
ロンへの弁明というよりは、己へ向けた戒めのように発した言葉が心臓に重く圧し掛かる。
結城が身勝手に積み重ねた業に巻き込まれて、惨たらしく死ぬ荒木は見たくない。
取り返しのつかないところまで絆されてしまう前に、一刻も早く覚悟を決めるべきだ。あと二回、最悪でも四回会ったら手切れ金を渡して、それで何もかも終わりにする。
決意を胸に密かに拳を握り締めた時、ロンも和泉も既に結城の方を見てはいなかった。闇夜に身を置くには誠実過ぎた男の覚悟を、無様に砕け散ったガラスの欠片に反射した月光だけが淡く包み込んでいた。
東京都港区の一角、瀟洒でモダンな造りのタワーマンション。高額な管理費と引き換えに万全なセキュリティーを約束された要塞の高層階には、反社会的勢力の人間である結城の住処も存在する。
白み出した空の下で約三日振りに自宅へと足を踏み入れた結城は、鉛のように重い足を酷使しながら、無駄に豪華な造りの大理石の玄関を駆け足で通り抜ける。すぐにでも寝室に直行したい衝動を抑え込みながら、全身にこびり付いた返り血を落とす為に一直線に浴室へ向かった。
赤の他人の血液が飛び散り、赤褐色に変色したシャツを屑箱に投げ入れる。出来る限りクリーニングを繰り返して着用していたものの、そろそろ赤黒いシミを誤魔化すのも難しくなっていた。この時期はジャケットを着用しないから、シャツの消耗が激しいのだ。返り血があまり目立たないスラックスの方は後で処置を施す為に籠に畳んで置いた。残りは全て洗濯機に乱雑に投げ入れると、洗面台に備え付けられた鏡には一糸纏わぬ男の姿が大きく映し出される。結城は何の感情も籠っていない冷めた目で自らの分身を見つめた。
後頭部の入れ墨を隠す為に伸ばされた髪は襟足が異様に長く、戦闘の弊害で乱れて黒々とした鬣のようにうねっている。毛先に付着した血痕が固まり、頭を掻く度にパリパリとやけに軽快な音を奏でた。切れ上がった双眸も鋭い眉間も、ドロリとした黒目と相まって何処か攻撃的で見るからに冷酷そうな雰囲気を醸し出している。顔にまで飛び散った紅が獰猛さを引き立て、結城は改めて己の業の深さを静かに噛み締めていた。
嗚呼、どう足掻いても俺は普通の人間にはなれない。
あの女の前でどれだけ紳士的な仮面を被っていようが所詮は全て紛い物で、結局何処まで行っても俺は獣の成り損ないでしかないのだ。
鍛え抜かれた鋼のような肉体には無数の傷跡が刻まれている。殴打の痕や刺傷の縫い目、無数の火傷痕に加えて幾つかの銃創。最も新しいものは右肩を貫いた鉛玉が付けた傷だ。撃ち抜かれた肩は未だに疼いている。銃弾に薬物が付与されていたこともあり、人一倍優れた回復力を以てしても完治には時間が掛かっていた。
傷だらけの身体で、それでもまだ呼吸は止まっていない。
誰かの命を奪った後、自分が生きていようが死んでいようがどうでもいいと思っていた。ただ目の前の敵を捻じ伏せていれば、いつだって最後には自分一人が立っている。だから今も生きているだけで、任務遂行の対価として自身の命が要求されれば躊躇なく投げ捨てられるはずだったのに。
寒くて寒くて仕方がないのに、心臓が丸ごと氷塊に変わってしまったように冷たく軋むのに、それでも結城の身体は決して熱を失わなかった。
自殺願望がある訳ではない。だが、死にたいと願った回数は数知れない。
どれだけ軋んでも穴が空いても壊れない心が重過ぎるから、いっそ全部投げ出してこの世から逃げ出してしまった方が楽なだけ。どうせ長生き出来る訳でもあるまいし、拷問の果てに惨たらしく死ぬよりは弾丸に貫かれた方がずっとマシだろう。
今日だって、その気になれば死ねるようなチャンスは幾らでもあった。死と隣り合わせの局面で手を抜けば、結城の心臓などいとも簡単に弾け飛ぶだろう。
それでも結城は生きている。頬を掠めて背後の壁に突き刺さった鉛玉を見た時、心底安堵してしまったのは動かぬ事実だ。
少なくとも、今夜は一度も死を望まなかった。
溜め息を一つ零すと、結城はおもむろに足元に放置していた鞄を漁りだした。プライベート用とは名ばかりだった端末を取り出すと、僅かな発着信履歴の中から最も新しい番号に通話を掛ける。ほんの四時間前に起こしてしまった彼女は出てくれるだろうか。一抹の不安を掻き消すように、三回目のコールと同時にガチャリと通話が繋がった。
『無事ですか?』
挨拶も定型文も取り払った、必死な叫び声が耳を穿つ。普段の彼女からは想像も付かないような切羽詰まった大声に、結城はきまり悪げに肩を竦めた。自分の生死をここまで案じられたのは、正真正銘生まれて初めてだった。
「俺は無傷だ。……心配掛けて悪かった。」
液晶越しに吐き出された吐息からは明らか過ぎる安堵が滲み出ていて、結城は内心酷く戸惑っていた。自分が生き残ること、命を繋いでいくこと。己という獣の死ではなく、生を本気で願われた時、どんな行動を取るのが正解なのだろうか。死と隣り合わせの二人でも、命を削ることが日常茶飯事である結城と、銃すら握ったこともない荒木では、その死生観に大きな隔たりがある。生き残ったという事実は、結城にとっては別に大して喜ばしいことでもない。しかし、この女にとって命とは尊いものなのだろう。
『生きてて良かった……!』
嗚咽まで漏らし始めた荒木に、結城の狼狽はますます悪化する。自分の無事を喜んでいる故の行動であると頭では理解出来ても、あまりにも不思議で不可解だった。結城が生きていても泣く人間なんて何処にもいなかった。死んだとしても誰も泣かないだろう。表で出来た繋がりは頃合いを見て全て切っているし、裏の人間に深入りしても碌なことにはならない。この人とも一時的な関係でしかないのに、彼女の方も承知している筈なのに、どうしてそんなに心を揺らすのか全く分からなかった。
しかし、その不可解さは決して不快ではない。それどころか、泣きじゃくる彼女の声が脳に響く度、身体の奥深くが切ない熱を帯びていく。
「そんなに泣くな。俺はそう簡単には死なない。」
『結城さんがどれだけ強くても、人間は本当に呆気なく死にます。だから本当に……あなたの声が聞けて、本当に嬉しいんです……!』
「……あんたは何処までも命を尊ぶんだな。俺は自分が生きようが死のうがどうでもいい。だが、あんたが泣くほど喜んでくれるなら……ああ、そんなに悪くはないのかもしれない。」
心の底から飛び出してきた本音を素直に口にすると、無垢で献身的な女は顔が見えなくても分かるくらい幸せそうに笑った。
身近な命がその手から零れ落ちた時、きっと彼女は張り裂けるくらい泣いてきたのだろう。十年前を最後に、涙とは無縁の人生を歩んできた結城とは真逆の感性だ。荒木志帆という女は結城にとってある意味星よりも遠い存在だったが、だからこそどんなに高価な宝石よりも眩しく美しい宝物のように思えた。
生きて欲しいと願われたことはない。それでいいと思っていた。
だから、知らなかった。
生きていて良かったと泣かれた時、人間はこの上ない幸福を覚えることも。結城のような化け物でも、決して例外ではないのだと。
知らなかったからこそ、衝撃の分だけ彼女が愛しくて堪らなかった。
柄にもなく浮かれていたのだろう。お疲れでしょうからと早々に通話を切ろうとする彼女を押しとどめ、半ば無理矢理会話を続けさせる。
「荒木さん、少し相談があるんだが……。明後日の夜、時間はあるか?」
密かに思い描きながらも決して口にする気はなかった誘いを持ち掛けると、彼女は心の底から嬉しそうに小さく歓声を上げて快諾してくれた。
小さな口を綻ばせて朗らかに微笑む姿が目に浮かぶ。聡明さが凝縮された綺麗な瞳は、今頃涙に濡れているのだろうか。砂糖菓子のような目元が腫れているところは見たくないが、彼女ならば例え顔中が腫れていても可愛らしいかもしれない。そこまで考えて、結城はようやく恐ろしい事実に思い至った。
ああ、そうか。俺はあの女に惚れたのか。
遅過ぎた自覚に呆れ果て、最早頭を抱える気にもなれなかった。鉛のような身体を引き摺ってのろのろと浴室に入り、己を戒めるようにシャワーヘッドから溢れ出る冷水を容赦なく浴びせてやる。それでも身体の中核に巣食う膨大な熱は一向に収まる様子はなかった。
惚れたから何だと言うのか。自分があの女にどんな感情を向けようが縁を切ることに変わりはない。せいぜい最後に渡す予定の札束の厚みが増す程度の違いしか生まれないというのに、何故今更になって気付いてしまったのだろう。どうせ永遠に報われることがない想いならば、いっそ遠くない未来で自分が死ぬまで眠っていれば良かったのに。
この感情の名前が恋だろうが愛だろうが、結城の人生は何も変わらない。
ただ人を殺して屍の山を築いて、いつか終わりが来るまでずっと死ぬまで殺して生きるだけ。
あの日、選んだ未来がもっと生温いものだったなら。全てを失って尚、全部割り切って前を向ける人間だったとしたら。もしかしたら、こんな自分でも彼女を幸せに出来たのかもしれない。しかし、結城が選んだのは修羅の道だ。天賦に恵まれた結城にとって人を殺すことは簡単で易しくて、例え本心では殺しを厭っていたとしても必要とあれば即座に割り切れてしまう非情さは実に裏社会向きと言えた。入りたくて入った世界ではない。しかし、一八歳から死体処理だの武器や臓器の運搬だのの雑用をこなして日銭を稼ぎ、雇われの用心棒兼殺し屋から身を立てて今の地位まで登り詰めてしまった身では最早この世界と完全に縁を切るのは現実的ではないだろう。今更引き返すには、結城はあまりにも死臭を浴び過ぎてしまった。
修羅に堕ちて尚、人を心の底から慈しむことが出来た。凛とした見目よりもずっとか弱い彼女を気遣うことも苦痛ではなかったし、一見地味な彼女が堪らなく愛らしく映った。しかしどんなに想っても、結城が彼女に差し出せるのはアケガラス幹部補佐の女という危険な立場とそれに付随する無数のリスク、そして確実に縮まる寿命だけだった。
結城自身がアケガラスから足を洗うという選択肢もある。非常に困難かつ無謀な選択ではあるが、それでも決して不可能ではないことを結城は知っていた。日本有数の巨大な犯罪組織といえども、その勢力圏はあくまでも日本国内と中国の一部に留まる。極東地域から離れてしまえば、あとは警戒さえ緩めなければ、例えば何処か見知らぬ国の片田舎でぼんやりと余生を過ごすことだって出来てしまう。しかしそう簡単に事が運ぶ訳もなく、足抜けを目論んだ人間はほぼ例外なく国を出る前に捕えられて殺されるのが常である。国外に出るまでの期間、追われる恐怖と擦り減る資金に毎夜魘される生活になりそうだ。結城一人ならばどうにでもなるが、彼女にまで死んだ方がマシな思いをさせたくはない。
ロン曰く、どうやら荒木も自分のことを憎からず思っていてくれているらしい。
あのいけ好かない上司も私的な場面では滅多に嘘を吐かない。寧ろ都合の悪い真実を並べ立てて相手を追い込むのが大好きな性悪が、これほど滑稽なネタを面白がらない訳がないのである。十中八九真実だろう。
だが、どちらにせよ結城の決意が揺らぐことはない。
恩人という関係性から必要以上の発展を遂げたところで、結城と荒木ではあまりにも立場が違い過ぎる。二人揃って転落するくらいならば、何も知らない彼女はこの先死ぬまで日の当たる世界で生きていくのが在るべき姿だろう。
出来るだけ早く離れるべきだ。痛いほど理解している。
それでも、どう足掻いても身体を蝕む熱は一向に消えてはくれない。
もしも。仮にこの想いが実った世界があるとしたら。
暗闇を這いずり回る人生が一生続いたとしても、淡くて甘い夢のような彼女がずっと傍に居てくれたなら、いつかは生きることも重荷ではなくなるのかもしれない。
どうしようもないくらい馬鹿馬鹿しい、夢物語よりも陳腐でくだらない妄想と願望が脳内を蝕んでも、一向に不快感は微塵も訪れない。その事実が何よりも結城の焦燥を煽った。
やり場のない怒りに似た感情をぶつけるように乱暴に髪の毛を掻き混ぜ、肌が悲鳴を上げるほどの力で赤黒く変色した血の塊を落としていく。腕や鎖骨にまで付着した血も完全に消えるまで力任せに拭い続けた。あまりにも過度な負荷に耐えかねたのか、腕の最も柔らかい皮膚が切れて赤い雫が涙のように滴り落ちていった。
銃弾が乱れ飛ぶ抗争の現場でも最後まで無傷だった肌が初めて鮮血に彩られる。途端にチリチリとした痛みが走り、ヘドロのように混沌としていた思考回路がクリアになっていく。ロンが脳内をリセットする為のルーティンとして始めた自傷に依存するようになった理由が、少しだけ理解出来た気がした。