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八咫烏と蛍草  作者: 綺月 遥
2/7

邂逅

どういうことなの…?」 


 動揺に脳裏を揺さぶられながら絞り出した第一声。それは予想よりもずっと冷静な響きを伴って、あっという間に消えていった。無数のクエスチョンマークが凝縮された囁きが空気を震わせ、僅かに湿った夜の闇に溶けていく。上昇する心拍数が鈍い痛みを伴って全身に動揺を植え付け、一瞬の間に手足にまで震えが伝染していった。あまりの情報量に耐え切れなかった脳味噌は勝手に現実逃避に走り出す。私は思わず天を仰いだ。


 拝啓、お父さんとお母さん。

 如何お過ごしでしょうか。 

 私は何とか無事に生きています。大変なことも辛いこともまだまだあるけど、二人がくれた沢山の愛情のおかげで平凡だけど幸せな日々を過ごしています。

 ですが、その平穏もここで終わりなのかもしれません。

 大好きなお父さん、尊敬してやまないお母さん、ごめんなさい。

 あなた方の娘は今、全身血塗れでぶっ倒れている見知らぬ屍に遭遇してしまいました。

 

 主張の激しい原色の機体を無数のライトで照らし合いながらお行儀よく駆ける自動車の群れ。血管のように張り巡らされた首都高は今夜も中心部のビル群を目指して長い行列が形成されており、無数の人影や眼下で乱立する信号機の林も相まって傍から見たらまるで玩具箱のようだ。賑わう繁華街へ多くの人が集う中、私は反対方向に舵を切ってアーバンカーキの愛車を走らせる。日曜日ということもあってかなり交通量も多いが、夜も更けてきているこの時間に郊外に向かう人間は比較的少ないのはありがたい。仕事終わりのテンションが赴くまま、上機嫌に鼻歌を歌いながら、私は普段はあまり開けない運転席の窓を全開にした。

 都会のネオンが少しずつ、ほんの少しずつ減っていくのが見える。行先は特に決めていない。別に決める必要もなかった。ただ、仕事終わりに心地よい夜風を堪能しながら、心の赴くままに何処かを目指すこの瞬間が好きだった。惜しくらむは、今日が新月の日であることくらいだろうか。初夏の風に揺られる雲間がぽっかりと空いていて、なんだか少し物寂しかった。

 雑踏を見守るように並び立つビルに背を向け、人混みを避けるように都心から遠ざかっていくと、次第に辺りの闇も濃くなるのが見て取れた。インターチェンジを降りてから大体三〇分。都心の粗方は通り過ぎてしまった。だいぶ来ちゃったな、なんて独り言をこぼしつつも私はまだ満足出来ていない。それどころかもう行けるところまでいってしまおうか、なんて出来心が顔を出す。というのも、さっきから窓から入る風が潮の香りを帯び始めてきたのだ。つまり、もう少し進めば東京湾の方に出る。夜の海ほど心が躍るドライブも中々ない。胸の奥がうずうずと浮足立ってせっついてくる感覚には抗えない。

 あと二時間もすれば日付が変わる。土日祝日が定休という訳でもなく、今日も明日も仕事がある身としては体力温存の為にもあまり長時間走り続ける訳にはいかない。でも、ここで引き返すのも何だか嫌だ。一度その気になったことは出来る限りやり遂げたい性分だった。どうせ今帰っても不完全燃焼だろうし、折角だから海を見て帰ろう。その場の勢いと期待に任せて、私はほんの少しだけ強くアクセルを踏み込んだ。

 思えば、ここが運命の分かれ道だったのかもしれない。

 港の灯りを受けてディープブルーの光を放つ海岸線と点在する巨大な倉庫がフロントガラスを占領するようになった頃、私はある一つの違和感を感じ取った。

「なんか変な匂いする……。」

 爽やかな潮風の中に何か異質なものが混じっている。何かが焦げる匂いに錆びた鉄のような匂い、大量の肉を腐らせたかのような刺激臭。少しだけ気になったが、とりあえずそのまま海岸線に沿って車を走らせる。そして他とは少し離れた位置にポツリと孤立するように建てられた、一際大きくて年季の入った倉庫の横を通り過ぎようとしたその時。

 視界の隅に大きな赤い塊が入り込んできた。その周囲にも真っ赤な何かが飛び散り、錆鉄色のそれがどす黒いアスファルトにこびりついている。 

 大型犬かなにかだろうか?車にでも轢かれたのか、相当な大怪我を負っているように見える。だとしたら放置しておく訳にもいかない。

 手近な場所に車を止め、倉庫に駆け寄る。まずは生死を確認しないと。

 しかし、それに近付くにつれて違和感を覚えた。まず随分大きい。大型犬にしてもこんなサイズのものは存在しないだろう。加えて、建物全体から酷い匂いが漂ってくる。恐らく奇妙な匂いの出所はここなのだろう。じゃあここは一体何の倉庫なのか?

 幾つも浮かんでくる疑問。しかし次の瞬間、全て吹き飛んでいった。

 目の前の光景をうまく?み込めない。あまりの衝撃に声も出せず、凍り付いたかのように全身が硬直した。ショックで激しい動機を繰り返す心臓がうるさい。今にも破裂してしまいそうだ。

 だって、大型犬なんかじゃなかった。

 倉庫の入り口、ぽっかりと口を開けた闇の中に待ち受けていたのは、怪我した動物だなんて生易しいものじゃなかった。

 

 そこに倒れていたのは、全身を血で真っ赤に染め上げた?大柄な人間の男だった。

 そして、冒頭に巻き戻る。

 

 辛うじて声は出せたものの、思考と身体はフリーズしたままだった。犬猫ならまだ動揺しなかった。それなのに蓋を開けてみれば立派な人間。しかもその周りには夥しい血痕が深紅の水溜まりを創り出していた。とてもじゃないが、生きているようには見えない。

 どうしよう、どうしよう。あまりの混乱と焦燥に口の中が日照りのように乾いていく。死体を見つけてしまった時の対処法なんて知る筈がない。とりあえず警察?でも私が疑われたら?いや、そんなことを言っている場合じゃない。すぐにでも連絡を取るのが正解に決まっている。

 回らない頭で捻り出した答えを実行するべく、震える手で端末を操作しようとしたその時。

 地に伏せた男の身体がピクリと動き、閉じられた口からか細い呻き声が漏れた。


 このひと、まだ生きてる。


 把握した瞬間、私の身体は弾かれたように動き出していた。

 震えていた手足も苦しくなってきた呼吸も何もかもを思考の彼方に置き去りにして一心不乱にひた走る。バクバクと早鐘を打つ心臓を無視して、酸素不足で変色しそうな唇にも構わず、ただひたすらにコンクリートの大地を駆け抜けた。カラッポの頭のまま駆け寄っては男の傍に跪き、吹き黙った血液がジーンズにこびりつくことも厭わずに血に伏せた男を間近で観察する。遠目から見れば凄惨な殺人現場だ。でも、至近距離から見る男の胸は緩やかに上下している。ほんの小さなまあるい穴からドクドクと溢れ出る液体は恐ろしいくらいに赤かったけれど、それでも力の抜けた手足はまだ温かかった。

 つまり、本当にまだ息がある。                             

 まだ生きているのなら、まだ掬い上げる命が残っているのなら、このまま見殺しにするなんて選択肢は捨ててしまいたい。

 助かるはずの命を投げ捨てるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだと思った。震える手で胸に手を当てると懐に忍ばせたお守りがカチャリと微かな音を立てる。母から贈られた大切なお守りは、不安定な私の心を支えてくれる要だ。落ち着きなさいと窘める、母の懐かしい声が耳の奥に甦った。バラバラに散らばった思考の欠片がパズルのピースのように在るべき場所へと嵌められていく。

 湧き上がる衝動に身を任せ、夜中だからと風よけに羽織っていた薄手のカーディガンを思い切り引き裂いた。そのまま特に出血の激しい右肩付近に止血帯の代わりに巻き付ける。私は決して医師ではないし、医療の心得がある訳でもない。しかし応急処置なら勇気さえ振り絞れば、案外誰にでも出来るものだ。感触だけで分かるくらい深く裂かれた肉と皮膚から溢れ出す血がどれだけ服を汚しても、私は決して手を止めなかった。

 出血量があまりにも多い。傷口自体はそこまで大きいとも思えないのに、ジクジクと溢れる血液は一向に止まってはくれない。

 このままでは救えない。

 ここで救えないのなら、それでは見殺しにするようなものじゃないか。

 募る焦燥を振り払うように、私は意を決して傷口を抑える手に力を込めた。ミシミシと嫌な音を立てながら、傷付いた皮膚を割り裂くように血塗れの布がゆっくりと埋没していく。

 直接圧迫止血法。

 患部に直接接触するようにガーゼ等を押し込み、体組織に異物の存在を認知させることで止血を促進させる救護方法だ。ここまで負傷が大きいと、直接傷口に捻じ込まないと止血が出来ないと何かで読んだことがある。確か、戦場の心得のようなものだっただろうか。まさか本当に使うことになるなんて。現実逃避めいた思考を絶え間なく巡らせながら、身体は必死だった。

 溢れ出る朱色に鳥肌が無数に立ち上がり、大量に分泌された冷や汗が薄手のシャツをぐっしょりと湿らせていく。人の肉を弄り回す生々しい感触に本能が堪らず悲鳴を上げそうになっても、止める訳にはいかなかった。

 驚いたことに、これだけ血塗れになりながらも大きな怪我は一か所だけだった。ならこの惨状は何なのか。この血液は誰のものなのか。聞きたいことは山程あるけれど、まずは人命が最優先だ。

 時間がない。沸騰する脳内を奮い立たせ、必死に成すべきことを絞り込む。

 本来なら、迷わずに救急車を呼ぶのが最適解に決まっている。しかし目の前の男はどう考えても普通じゃない。少なくとも事故ではないはず。でなければ、こんな市街地でもない場所で、しかも上半身に円形の傷を拵えるなんて有り得ないだろう。

 どうするべきか。どう助けるのが正解なのか。どうすれば、どうすれば。

 どうすれば、救えるのだろう。

 混乱する思考、失われていく判断能力。ジリジリと削り取られる正気を何とか奮い立たせ、私はもう一度お守りを握り締める。

 真っ当じゃない人間を救うには、真っ当な選択肢なんて役には立たないだろう。

 自分が最も後悔しない選択をするしかない。覚悟はたった今決めた。

 染み付いた常識が絶え間なく警鐘を鳴らしても、昂る右脳と定まった覚悟が全て黙殺した。本能の命じるままに倒れた男の身体をゆっくりと持ち上げ、上半身を起こして壁に凭れ掛からせる。そしてすぐさま引き返し、精一杯走った。無我夢中で駆けたのが災いして人よりもずっと弱い心臓が悲鳴を上げても、興奮状態の脳は不要な情報を遮断している。脊髄の指示に従って切り替えたギアを肯定するように震える足でアクセルを踏み込み、車を倉庫に近付ける。ギリギリまで寄せてから再び停車させ、私はそのまま勢い任せに飛び出した。

「運びますよ、いいですか?」

 当然ながら返事はない。正常な思考の人間なら、どう考えても公的機関を頼るだろう。しかし、人間の生死に触れた時点で冷静さなんて全部手放している。非常識だろうが、生憎今の私を止めてくれる人間はこの世の何処にも存在しないのだ。

 自分よりも遥かに大きな体躯を抱き起し、四苦八苦しながら車内まで運ぶ。お気に入りのシャツに付着した鮮血が、直に伝わってくる体温が、今私が背負う命の在り処を嫌というほど教え込んできた。

 後部座席に凭れさせた男が荒く呼吸を繰り返していることを確認すると、私は振り返らずに泥沼のような夜闇とライトが絡み合う海岸を後にした。


 きっと、最初から何処かが壊れていたのだろう。

 人間という生き物は生まれ落ちた時から環境に支配されるものだ。歪んだ親の元に生まれた子供は歪み、まともな親に育てられれば当たり障りのない人間になる。平和しか知らない子供は、平和を知らない子供とは決して相容れない。どちらにせよ、人であるからには逃れられない呪縛の一種なのだろう。稀に自力で縛りを打ち破ることが出来る者も出てくるが、たいていの人間はそうではない。骨の髄まで染み込んだ価値観に雁字搦めにされながら生きていく。

 呪縛と加護は表裏一体だ。綺麗な倫理観に囚われ息苦しさを覚えた人間は背徳に魅せられ、時に道を踏み外す。しかし踏み外した瞬間に大概は終わりへのカウントダウンが始まる。自覚は出来なくとも、捨てきれない倫理観と腐った道徳はジワジワと心身を蝕み、遅効性の毒のように神経を削り取って少しずつ少しずつ破壊していく。逆もまた然り。沼の魚が清流では生きられぬように、歪な心は清廉な理想論に耐えかねて砕けていく。

 加護を失って身を滅ぼした人間を何度も見てきた。ごく普通の家庭に生まれ育ちながらも人を殺めた自分だって、いつかは破滅の道を辿ることになると信じて疑わなかった。

 でもいつまで経っても頭の螺子が弾け飛ぶことはなく、代わりに自らの手で築いた屍の数だけが増えていく。どれだけ人を殺しても、どれだけ道を違えても、身も心も価値観も変わりはしなかった。

 変わらない人間など存在しない。染まらない人間なんてごく稀だ。そういう連中も別に強い信念や高潔な志を持って居た訳でもない。それは大抵、先天的に心に鬼を棲まわせていた天性の悪党だ。だから自分も同じように、最初から正常ではなかったに違いない。生まれた時から何処かが壊れていて、ガラクタの頭に染み込ませた倫理観を信じて歩いていただけ。だから自分はどちらの世界でも生きていけた。真相はたったそれだけのことなのだ。

 なんて、結局はどうでも良い話に過ぎないが。元がどちら側に寄っていたかなんて関係ない。自分は平穏な世界を手放した。それだけの話だ。

 阿修羅とまで呼ばれた男がどれだけ望もうが、死臭のしない世界にはもう二度と戻れない。結局自分は修羅の道を選んだのだ。

 怪物は孤独に夜を往く。

 いつか闇に取り込まれ、呼吸が止まるその日まで、荒い呼吸を繋ぎ続けるだけだ。

 夢うつつの中でさえ反芻される仄暗い覚悟に、男は思わず笑いそうになった。そしてふと気が付いた。どうやら、自分の意識は未だ現世にあるらしい。

 擦り切れた命が次第に舞い戻るような感覚に、男は重い瞼を動かした。まだぼんやりと滲んだままの意識の中、最後に見た光景が脳内を駆け巡る。痛む身体を反射的に抱えると、何やらふわふわとした何かが掌に触れた。

 武器取引の為に訪れた廃倉庫で謀られたことは覚えている。その後全ての敵を殲滅し、自分もそれなりに深手を負って倒れたことも、何となく脳裏に浮かび上がってきた。

 そうだ、そうだった。熱を孕んで疼く頭を抑えながら、ジグソーパズルのように散らばる映像を必死に拾い集める。確か、男は襲撃を受けて港の倉庫で意識を手放した。最後の意地を振り絞って外に出たものの、押し潰すような痛みと脱力感に耐え切れずに硬いアスファルトの上で力尽きたはずだ。

 なら、この感触は一体?

 次いで鼻を衝いた木の匂いに、男は堪らず飛び起きた。周りを見渡すと小汚い廃倉庫とは似ても似つかない飴色の壁が目に入る。寝かされていたベッドの脇に鎮座するローテーブルには室内を照らす瀟洒なデザインのランプシェードが置かれ、その横には数冊の本が積み上げられていた。その向こうに設置された本棚にも所狭しと大量の書籍が収納されており、この見知らぬ空間が誰かの居室であることを示唆している。調度品は地味なものが多く全体的にシンプルな印象を受けるが、レースのカーテンや古びたドレッサー、枕元に置かれたクマのぬいぐるみなどの小物が控えめながらも華やかさを添えていた。恐らく部屋の主は若い女であると見て間違いないだろう。

 壁に掛けられた時計が示す時刻は午前二時。取引が破綻したのが夜の九時半を回った頃だったので、男は最低でも三時間以上は眠っていた計算になる。

 血塗れの衣服は脱がされたようで、代わりに妙に親父臭い趣味のスウェットとパンツに身を包んでいる。撃たれたはずの右肩には包帯が巻かれているのが分かった。

 ここは、何処だ。

 潜んでいた残党に拉致されたのか?否、それにしては扱いが丁重過ぎる。ならば第三者に連れ去られたと考えるのが妥当だろうが、目的が全く読めない。誰が何の為にこんなことを?

 数々の死線を潜り抜けてきた男の明晰な頭脳が急回転を始めた時、静かなノックの音が夜明け前の薄闇を揺らした。男は反射的に身構える。懐に手を突っ込むも、生憎今は武器の類は身に着けていない。そもそも手持ちのものは銃や通信機も含めて全て紛失しているはずだ。絶望的な状況の中、せめて反撃の機は逃さぬようにと両の拳に力を込めた。

「……失礼します。開けますよ……?」

 足音は一人分。武装している気配もない上、聞こえてきたのは人畜無害そうな穏やかな声。緊迫を?き消す穏やかな雰囲気に、意表を突かれた男は思わず目を剥いた。

 ゆっくりと開かれた扉の向こう側から、一人の女が静かに現れた。年の頃は恐らく二十代前半。後頭部で束ねられた長い髪と、銀フレームの眼鏡で縁取られた目元が理知的で何処か硬質な雰囲気を醸し出している。しかし、柔和に弧を描いた口元には温厚さが滲み出ており、折れそうなほど華奢な体躯は欠片の武力も有しているようには見えなかった。

 明らかに一般人。しかも小柄で無力な女が、一体何の用だと云うのか。

 訝しむ内心を隠さずに目の前の女を観察していると、女は驚いたように目を見開き……何故か、心底嬉しそうに微笑んだ。

「良かった……!起きたんですね!このまま起きなかったらどうしようかと……体調は大丈夫ですか?」

 男は思わず耳を疑った。告げられた内容を上手く呑み込めず、返事も碌に出来ずにその場に固まる。今、この女は何と言った?

 戸惑いと衝撃で膠着した男を見て何を思ったのか、女は困ったようにまた笑った。

「ごめんなさい、目覚めたばっかじゃ何も分かりませんよね。何か食べるものを用意して来るので、少し待ってて下さい。」

 そう言い残し、踵を返すと女は再び姿を消した。


 ?きだしの警戒心を隠そうともしない彼が此方を見つめたあの瞬間、私の心臓は純粋な喜びと膨大な達成感、そして涙が出そうなほどの安堵で高らかに鳴り響いていた。

 良かった。本当に良かった。

 ちゃんと生きていてくれた。

 こんな私でも、誰かを生かすことが出来た。

 眩暈がするような感情の渦をどうにかする為に適当な理由を付けて部屋を出て、廊下の真ん中で静かに膝を抱えて蹲る。

 血塗れのあの人を見た時、臓腑の奥底が凍てつくように痛んだ。息をしていると気付いた時には全身が沸騰してどうにかなってしまいそうだった。

 怖くて怖くて仕方なかった。

 目の前で零れ落ちていく命の欠片が、何かの拍子で消えてしまう灯のような体温が、この世の何よりも恐ろしい。

 助かって欲しい、死なないで欲しいなんて切実な願いが、所詮はただのエゴでしかないことは分かっている。

 それでも、彼をここに連れ込んだのが私である以上、最善は尽くしたかった。

 キッチンに立つ前に何を作るか考えよう。今は弱っているだろうし、あまりにもボリュームのあるものは避けた方が無難だろう。とは言え病気という訳ではなさそうなので、お粥では物足りないかもしれない。なるべく身体に負担がかからず、ある程度ボリュームがあるものを。何よりも、どうせなら美味しいものを食べて欲しい。

 冷蔵庫の中身を確認すると、まず目に付いたのは多めに買っておいた牛乳にチーズ、バター、それからベーコン。野菜室にはイエローパプリカとズッキーニ、玉ねぎもまだ残っている。きゅうりやレタスなどの青野菜や肉類も勿論あるが、今回は使わないことにした。その代わりに調達したばかりのトマト缶が沢山あるので、これは存分に活用しよう。

 まずは玉ねぎの皮を?き、みじん切りにする。パプリカとズッキーニも水洗いした後に小さめの角切りに。手元で量産されていく切れ端を潰さないように丁重に包丁から落としていくと、白、黄色、黄緑のサイコロが良い塩梅に混じり合う。三色のコントラストが無機質なまな板を彩ってくれるおかげで、殺風景なキッチンが少し明るくなった気がした。

 野菜の下準備が出来たら、次は鍋での作業に取り掛かる。ステンレスの深鍋を火に掛け、バターを二欠片落とすと、薄黄色のキューブがじゅわりと音を立てて蕩けていった。溶けたバターで玉ねぎとベーコンを熱し、中火で炒める。すると白い粒が次第に透き通り、薄紅色の塊に纏わり付きながらしんなりと柔らかくなっていった。そこに水と顆粒スープを入れ、更にパプリカとズッキーニ、そしてトマト缶を加える。真っ赤な果肉を潰しながら煮立てていると、爽やかなトマトの香りが部屋中に広がって食欲を増進させる。私は思わず腹に手を当てた。深夜にこんな匂いを嗅いでしまったのは失敗だったかもしれない。今作っているのは間違いなくカロリーの爆弾なのに、もうお腹が減ってどうしようもなくなってしまった。まあ一緒に食べた方が警戒されないし、どうせ明日も仕事だし、却って都合がいいのかもしれない、なんて自分に言い訳をしながら二人分の冷や飯を取り出す。鍋を満たすトマトの中にポトリと落とせば、白いお米がみるみるうちに鮮やかなスカーレットに染まった。グツグツと気泡が浮かんできた頃合いを見計らって塩と胡椒、そしてトマトに次ぐ主役のチーズを加えれば、どこに出しても恥ずかしくないトマトチーズリゾットの完成だ。

 満足のいく出来栄えに口角が上がる。折角なら、もう少し何かを作ってもいいかもしれない。生憎この時間だし、客人を待たせる訳にはいかないので、なるべく手早く作れる一品。リゾットなら単体でも問題はないだろうから、時間を掛けておかずを追加するよりは飲み物の方がいいかもしれない。常備菜は和風の味付けばかりでそぐわないし、結局使わなかった牛乳を余らせておくのも何だか気になってしまう。牛乳を使う何かで、それから温かくて心が安らぐようなもの。気持ちのいい音を立てる鍋の火を弱めて、パックの残りを確認すると丁度いい量が余ってくれていた。

 使っていなかった小鍋にカップ二杯分の水を注ぎ、火に掛ける。二つの鍋に注意を払いつつ、戸棚の前に移動して今回使う茶葉を選んだ。職業柄、我が家の台所には有り余るほどの茶葉が常備されている。種類としては煎茶やほうじ茶などの方が多いが、今使うのは紅茶。その中でも定番のアッサムを選択すると、丁度いいタイミングでお湯が沸き立つ音がした。慌てて火を弱めてから焦げ茶色の葉を丁寧に加え、無色透明な水が温かみのある赤茶に染められていく様子を二分ほど見守っていく。ここでお湯を沸騰させたら香りが台無しになってしまうので、火加減には気を配る必要があるのだ。

 頃合いになったらいよいよ牛乳の出番。冷蔵庫から取り出したばかりの冷たい牛乳を注ぎ入れ、同程度の弱火で少しずつ熱していく。沸騰直前で火からおろせば、フツフツと音を立てる綺麗なベージュ色の液体が、小さな白い湯気を立ち昇らせながら静かに揺れていた。煮出して作る本格派のロイヤルミルクティーの出来上がり。

 リゾットは雑貨店で一目惚れした北欧風デザインの小皿に盛り付け、仕上げにオリーブオイルを一たらし。ミルクティーの方も小皿と揃いのデザインのマグカップを使う。ぬるま湯で温めておいたカップに目の細かい茶こしでこしながら慎重に注げば、アッサム特有の甘くて芳醇な香りが部屋中に広がった。

 夜食ならこれくらいで十分だろう。二人分の小皿とカップをお盆に並べ、私はあの人が待つ寝室へ顔を出した。

「すみません、夜食の用意が出来たんですけど、今入っても大丈夫ですか?」

「……おう。」

 少し掠れた心地のいい低音に、そういえばこの人の声を聞くのは初めてだったことをふと思い出した。助けるのに夢中だったから気付かなかったけれど、もしかしてこの状況は拉致のようなものかもしれない。得体の知れない男、それも明らかに普通ではない彼の敵意に晒される可能性は当然ある。今更ながら感じた本能的な恐怖に、私は身を震わせた。

意を決して扉を開ければ、すっかり目が覚めたらしい男が此方をじっと見ていた。

「時間がかかってしまってごめんなさい。不味くはないと思うんですけど……あ、そういえばアレルギーとかってあったりしますか?」

 内心の動揺を押し隠して何とか話しかけると、無表情だった彼は一瞬戸惑ったように瞳を瞬かせ、何とも言えない様子で口を開いた。

「特にないが……。というか、俺はあんたの名前も知らない。気遣いには感謝するが、その前に少し状況を説明してくれないか。」

 頭を抱えたくなった。どうしてこんなに要領が悪いのだろう。これじゃあいきなり拉致した挙句突然料理持ってきた不審者である。通報されても文句は言えない。

「ご、ごめんなさい!名乗るのも忘れていました……初めまして、荒木(あらき)()()と申します。怪しい者ではないので安心して頂けると嬉しいです。」

「ああ。俺は…そうだな、結城(ゆうき)でいい。」

 あまりの羞恥に両頬が熱を帯びていくので、私は慌てて顔を背けた。ああ、もう、恥ずかしすぎる。名乗り返してくれた結城さんの顔を見ないように努めながら、机の脇に置いていたちゃぶ台を引っ張り出して木目で覆われた小さな盤上にそっとお盆を乗せた。

「詳しい説明は食べてからでもいいですか?冷めてしまうので。」

 とりあえず声を掛けると、彼は案外素直に頷いてくれた。

 広くはない部屋の中、小さな卓を囲めば自然と距離も近付いた。初めて間近に見る男の顔はかなり整っていて、夜を溶かしたような青みがかった黒瞳が鮮烈に目を衝いた。漆黒の髪と相まって、凪いだ夜の海のような印象を受ける。穏やかに見えるけれど、どこか底知れない何かを感じさせる独特の雰囲気を持った不思議な人だった。

 向き合って座ったのは良いものの、結城さんはなかなかリゾットに口を付けなかった。代わりに、どこか探るような視線を何となく感じ取る。埒が明かないので先にリゾットを匙によそって口に運んだ。トマトの酸味を蕩けたチーズがまろやかに包み込み、口の中で程よい塩梅に混じり合う。三種類の野菜もいいアクセントになっていて、我ながらよくできた方だと思う。

 私が躊躇なくリゾットを口にしたのを見届けて、結城さんもようやく小皿に手を付けた。赤い中身をまじまじと観察してから意を決したように口に運び、ゆっくりと咀嚼していく。そのまま無言で食べ進め始め、あっという間に小皿が空になってしまった。

「美味かった。ありがとう。」

「もう?早いですね。」

「ああ、よく言われる。……人が作ったものを食べたのは久しぶりだな。」

 何でもないように呟かれた言葉は、どこか不思議な重みを含んでいた。結城さんは冷めたミルクティーを飲み干し、それまでピクリとも動かなかった顔を僅かに綻ばせる。だが、それは一瞬のことに過ぎない。改めて私を正面から見据えてきた視線は氷のように冷たく、刃のように鋭かった。場を支配する冷徹なプレッシャーをまともに受けて、手足が僅かに震えているのに気が付いた。目の前の生き物を、本能が拒絶している。心做しか息もし辛い。

「荒木さん、だったか。……単刀直入に聞かせてくれ。あんた、一体何者なんだ。どうして俺をここまで連れて来た?」

 結城さんが言葉を発する度に、尋常ならざる覇気を纏った空気が重く圧し掛かってくる。鬼のような形相で睨まれている訳でもない。ただ真っ直ぐに見つめられているだけだ。それなのに、まるで夜空を舞う大烏に狙われた小虫のように全身が竦み上がって、胃の腑を食い破るような恐怖が退路を塞いでくる。どのような生き方をすればこんな威風を身に着けられるのだろう。想像も出来ないが、少なくとも太陽の下をのうのうと歩いてきた自分のような人間とは根本から何かが違う気がした。

 でも、これくらいなら、まだ大丈夫。

 戦慄く心を何とか奮い立たせ、ぐっと顔を上げて正面から視線を交える。すると、結城さんの瞳が僅かに揺れた。少し驚いたのかもしれない。これだけの気迫、普通なら恐怖でまともに身動きもとれなってもおかしくない。結城さんもそれを分かった上で、私の出方を計るための牽制としてこの威圧を使っている。だから敢えて、耐えてみることにした。

 私は別に特別な人間じゃない。ただ、他の人よりも少しだけ死が身近な人生を送ってきた。

 お陰様で火事場の胆力だけは、少しだけ優れているかもしれない。

 相手から目を逸らさない。きっと受け答え次第で私の命なんて塵より儚く消し飛ぶのだろう。なら、恐れる素振りを見せたら負け。

 落ち着いて、胸を張って。射殺すような目線にも決して怯まずに、寧ろ微笑みさえ浮かべて夜色の瞳を真直ぐに見返した。

「怪しまれるのも無理はないと思います。でも、私は紛れもないただの一般人です。ドライブ中に人が倒れているのを見かけたから放っておけなかっただけなんです。それ以上でもそれ以下でもありません。」

 恐らく結城さんはとても聡い人だ。きっと私なんかとは比べ物にもならないような修羅場を無数に潜り抜けて生きてきたのだろう。だから多分嘘も誤魔化しも全く通じない。しかし逆に言えば、真実をありのままに告げれば何も問題ないということだ。

 だから、死んでも視線は逸らさなかった。

「……なるほどな。嘘を吐いているようには見えないが……。それなら何故警察を頼らなかった?放っておけなかったとあんたは言うが、自信を持って対処できるほど救命措置に慣れているようにも思えない。」

「何となく、訳ありな気がして。本来警察に通報するか救急車を呼ぶべきだったんでしょうが、その後のことを考えたらよした方がいいと思ったんです。冷静さを欠いた判断だったのは自覚してます。」

 迷いなく言い切ったが、彼の猜疑心はまだ拭い切れないようだった。刺すような視線や重圧は幾分かマシになったものの、表情は未だに一切の隙を見せずに張り詰めている。

 核心を探るように爛々と瞬く獣のような瞳に、喉元に刃を突き付けられるような本能的な恐怖に脳が侵食されていく感覚を覚えた。ジワリと冷たい汗が背中を伝う。

「……つまりあんたは、俺を社会的にも身体的にも助けようとしてくれた恩人ってことか。なるほど、それは理解した。だが、もう一つだけ聞きたい。一般人のあんたが、わざわざ危険な橋を渡ってまで俺を助けた目的はなんだ?」

「…目的……?」

 一瞬言葉を失った。想定の斜め上を飛んできた言葉の矢に、取り繕っていた仮面はすぐに打ち砕かれる。どう答えるべきなんだろうか。衝動に突き動かされた結果といえ、その根底に私欲がなかったと言えば嘘になる。だが、それは私の生き方を常に支配する行動原理のような稚拙で曖昧なものであって、目的と呼べるほどはっきりとした存在ではないのだ。

 言葉を失って黙り込むと、掠れた吐息交じりの笑い声が耳に入ってきた。途端にふわりと空気が緩み、息苦しさから解放されていくのを肌で感じる。目の前では結城さんが仏頂面を崩して、口の端に鷹揚な笑みを浮かべた。

「すまない、言い方が悪かったな。あんたは今何が欲しい?俺は見ての通り訳ありだ。命の恩人でさえ疑わないとやっていけないような面倒な立場だが、大抵の望みを叶えてやれるだけの力はある。金でもコネでも、俺に出来ることなら何でも言って欲しい。」

「………へっ?」

 何が欲しい、とは一体。思いがけない申し出に目が点になった。何やら不穏な単語が山程聞こえたような気がするけれど、つまり要約するとお礼の相談をされているということでいいんだろうか。そんなつもりで助けた訳ではないのに。

「何も要りませんよ?そういうつもりじゃなかったですし……」

 ぶんぶん首を振りながら全身で遠慮の意を表明する。結城さんは何か言いたげに涼しげな眉目を歪めていたが、私としても譲れない。正直何を貰っても持て余す自信しかないのだ。金は幾らあっても困らないなんて誰かが言っていたが、実際そんなにあっても使い道がない私としてはとても困る。コネなんてもってのほか。というか既に定職に就いて地道な生活に満足している人間が、今更誰のコネを求めればいいんだろうか。

 だが、結城さんもこれ幸いと簡単に引き下がるような性格はしていないようだった。

「それじゃあ俺の気が済まない。あんたが居なかったら死んで可能性もあった。それなのに感謝も疎かにして無礼を働いたんだ。その負い目も償わせて欲しい。」

 真剣に食い下がる彼の姿に、私は思わず息を呑んだ。もしかすると、彼は難儀なくらい律気で義理堅い人なのかもしれない。結城さんと出会ってからまだ半日も経っていないが、この人が色々な意味で大変な立場に在ることは何となく悟っている。日々神経を削りながら生きているような人間が、気絶から目覚めたら見知らぬ女の部屋に寝かされていたなんて状況で警戒しない訳がない。寧ろきちんと対話に持ち込んでくれた冷静さに敬意を表したいくらいだ。事情も知らずに連れ込んだのに、応急手当と夜食を提供しただけで、大したことも出来なかった。お礼なんて、欲しいとすら思えない。

「特に欲しいものもありませんし、本当に大したことはしていないので……。」

「些細なことでもいい。最低限の筋は通させてくれ。」

 いくら辞退しても頑として譲らない結城さんは、思っていたよりもずっと強情な人だった。本当にどうしよう。このままでは平行線で夜が明けかねない。寧ろこれ以上言い募れば問答無用で札束を突っ込まれそう気配すら感じる。それほど目が真剣だった。

 いっそのこと、お言葉に甘えてしまえばいいんじゃないだろうか。ふと、とある妥協案が頭を過る。金銭やコネクションといった扱いに困るものではなく、もっとささやかな何か。それも服やら時計やらといった物質的なものなら金と大差はないだろうから、出来れば形がない方がいい。それでいて私の願望を満たせるものと言えば、一つしか思い浮かばなかった。

「なら、これから定期的に私の家で一緒に食事を摂ってください。」

「………はっ…?」

 流石の彼も予想外だったのか、豆鉄砲でも食らったような何とも間の抜けた声を上げた。それはそうだろう。でも、私としてもここが最大限の譲歩だった。それに、仕事場兼自宅で一人で暮らす身としては、一緒に食卓を囲んでくれる人の存在は本当に励みになる。それこそお金なんかよりもよっぽど嬉しいものだ。未だに納得いかない様子の結城さんに力説すると、押し問答の末に渋々首を縦に振ってくれた。

「まあ、何でも聞くと言った手前無碍にはしないが……。本当にいいのか?俺がどういう人間かはある程度分察しているだろう?下手したらあんたも厄介なことに巻き込まれかねんぞ。」

 恐らく心から心配してくれたのだろう結城さんの忠告も、生憎私には全く以て響かなかった。だって、私には失うものなんてもうほとんど残っていない。

「私には身寄りもありませんし、心臓に持病を抱えているので長生きも出来ません。だから何も問題なんてないんですよ。それに…私としては今夜の出来事を他言する気は一切ありませんけど、しばらくは見張っていた方が結城さんも都合がいいでしょう?」

 にっこりと微笑んでみせると、結城さんはもうそれ以上何も食い下がろうとはしなかった。拒絶する理由はないだろうし、見てはいけない現場を目撃してしまった傍迷惑な女の監視を合法的かつ片手間に遂行出来るのなら、彼だって少しは労力を減らせるはずだ。

「……あんた、随分と変わった人だとは思ったが……。筋金入りの善人なんだな。」

 深く頷きながら零された独り言のような言葉に、私は笑顔を崩さないように気を付けながら酷く曖昧な首肯を返した。


「本当に世話になった。俺としては正直腑に落ちないが……ここに通うことが感謝の証になるのなら、出来る限り顔を出させて貰う。」

「私が満足するからいいんです。お大事にしてくださいね。」

 微笑む女にぎこちなく手を振り、睡眠と栄養補給のおかげである程度回復した結城は、女が住む古い木造の一軒家を後にした。

 夜明けはまだ遠く、未だに人の恐怖を煽るような濃過ぎる闇が辺りを満たしている。しかし、結城は寧ろ心地良さを覚えていた。星さえ見えない都会の夜闇こそが結城の生きる世界だ。つい先刻まで浴び続けていた昼に生きる人間の残り香が、自らが纏う血と夜の匂いに黒く塗り潰されて跡形もなく消え去っていく。頼りなく浮かび上がった街灯の下で虚空を見つめながら、結城は自分を助けた荒木という女のことを思い出していた。

 何もかもが不可解な人間だ。何処からどう見ても普通の女にしか見えないのに、どう見ても堅気ではない結城を救い、あまつさえ自宅に連れ込んだ。明らかに常識を弁えた理性的な人間の行動ではない。しかし処置は極めて適切に施されており、状況判断も冷静かつ的確だった。向こう見ずなだけの一般人で片付けるには余りにも違和感がある。おまけに結城の威圧にも動じないあの並外れた度胸。

 幾度となく命の散り際に立ってきた結城にはその正体が見えていた。

 あの女は恐らく死というものを微塵も恐れていない。或いは、余りにも自身の生存に関して無頓着なのだろう。それは、結城にとっては酷く馴染みのある感覚だった。

 荒木志帆とは一体何者なのだろうか。自分とは真逆の真っ当な人生を送ってきた人間であることは今更疑いようがないが、かと言って有象無象と一括りにするには些か異質過ぎるように思えた。少なくとも、ぬるま湯のような世界で脅かされることなく幸せに生きている人種とは一線を画している。結城とは交わらない人間であることに変わりはないが、何処か自分と同じ種類の孤独を抱えているように思えたのもまた事実だった。

 とは言え、相手が何も知らない無防備な堅気であることには変わりはない。自身が掘った墓穴を逆手に取られた結果あの家に継続的に通うことになってしまった現実に、結城は一人溜め息を落とした。まさか百戦錬磨の自分が、明らかに歳下のただの娘にここまでペースを乱されるとは。仕方のないことだったとは言え、余りにも情けない醜態に頭痛がしそうだった。

 兎にも角にも、何時までもここで突っ立っている訳にはいかない。痛みと痺れの残る右肩を抑え、手近な拠点を目指して歩を進めたその時。

 静かに爆ぜた殺気が結城の背後を駆け抜け、晒された首筋に蛇のような腕が絡み付いた。

 蒸し暑さを残した空気の中にぼんやりと滲む陽炎が静かに揺れ、いっそ無駄に思えるほど研ぎ澄まされた白刃が鋭く煌めく。しかし当の結城は心得たようにするりと躱し、涼しい顔で突き付けられたナイフを叩き落とした。仰々しい音を立て、細長い銀色の塊がアスファルトの上に転がり落ちる。何もかもを寄せ付けない凪いだ瞳は欠片の動揺すら宿していない。

「今は勘弁して下さいよ、ロンさん。傷が開きます。」

 奪われた得物を拾わんと、黒々とした長髪を靡かせながら一人の男が暗がりから姿を現した。寝ている間に着せられた部屋着同然の古着をそのまま着用している結城とは対照的に、男は繊細な死臭が施された群青の中華服に身を固めている。糸のように細長く吊り上がった眼に鉄面皮のような笑みを貼り付けた得体の知れない男は酷く?せており、どう見ても戦闘に長けているようには思えない。しかし結城からすればこの男ほど危険で厄介な人種はそう居ない。無表情の中に僅かな呆れを滲ませ、結城は悪趣味が過ぎる襲撃者に苦言を呈した。大抵の人間が震えながら黙りこくる結城の眼力を正面から難なく受け止め、ロンと呼ばれた男はニヤリと口元を愉しげに歪めた。  

「連絡が途絶えたからわざわざ出向いてみれば……呑気に散歩か?いい身分だな。」

「誤解です。」

 破損した上に紛失した通信機で報告が出来る訳がない。ロンのことだ、恐らく全ての出来事を把握した上で絡みに来たのだろう。面倒なことこの上ないが、得体の知れないこの男は結城の直属の上司であるので必要以上に邪険にも出来ない。

「で、負傷の程度は?」

「右肩を撃たれました。後は大したことありません。」

「お前が?」

 肩を竦める結城に、ロンは感情の読み取り辛い糸目を僅かに見開いた。この男が軽傷以上の怪我を手土産に帰還することは滅多にない。連日の激務で蓄積された疲労も一因ではあるだろうが、その程度のハンデが致命的になるほど無能ではないはずだ。

「相手は何人だった。負傷時の状況は?」

「敵方は一五程度だったかと。乱戦中でしたので詳細な状況は定かではありませんが、部下を離脱させた直後に背後から撃たれたと記憶しています。」

「確か取引自体は双方五人程度で行う手筈だったな。何故伏兵に気付かなかった?」

「俺が入室した時点で戦闘が始まりましたので、隠れ場所については何とも言えませんが……何処に潜伏していようが敵に背を向けるほど衰えているつもりはありません。」

「だろうな。」

 一対多の戦闘において結城の右に出る者はいない。生まれつき化け物染みたタフネスや天賦のセンスの持ち主であるという点も大きいが、何よりの武器は冷静さである。窮地に陥ろうが死の淵に立とうが、瞬時の判断を誤ることは決してない。そんな男が戦闘中に油断して背後から狙撃される愚を冒すとは考えにくい。

 となると、考えられる選択肢はおのずと絞られてくる。

「身内の裏切りの可能性が高いな。」

「同意見です。」

 首肯した結城にロンは肩を竦める。打てば響くと言えば聞こえは良いが、こうも容易く分析が一致するようでは面白みがない。結城がロンの腹心となってから早七年、どれだけ経験値を積んでもこういう朴念仁な点はちっとも変わらないらしい。

「お前のような化け物が肩を撃たれた程度で意識を飛ばすとも思えん。あらかじめ何らかの薬でも仕込まれていたと考えるのが妥当だろう。」

「ならば通信機も意図的に破壊されたと見るべきでしょうね。」

 敵と通じるだけでも死を以て償うべき大罪だ。反逆者に慈悲を与える余地はない。

 不届き者の行く末は山奥か、将又マグロの腹の中か。いずれにせよ、碌な死に方ではないことだけは確かだった。裏に生きる人間の宿命のようなものだ。

「面倒事が増えたな。まあ不穏分子を一掃するいい機会だ。結城、お前は鼠を炙り出せ。首謀者は私が片付ける。」

「了解しました。」

 一礼すると糸目の男は煙のように掻き消えた。残像も足音も残さず、蜃気楼の如く瞬時に闇夜に溶け込む鮮やかな技は相変わらず実に見事である。厄介な上司が完全に立ち去ったことを確認すると、結城は今度こそ足早にその場を離れた。

 今日は何とか生き残れた。しかし明日も息をしているか、誰も断言出来ないのがこの世界だ。

 結城もロンも、いつ惨たらしく死んでもおかしくない。その日その日の命を繋ぐ為に他人の命を削り取る。救いようもない生き方を改める術も知らず、救われる気もない自分達のような人間の行く末は地獄と相場が決まっているのだ。あの日、荒木のような善良な人間とは根本的に相容れない道を選び取ったのは自分自身だ。ならば、死ぬまで殺して生きるだけ。

 恩人であるあの女の望みを違える気はない。彼女のような聡い女が口を滑らせるとは考え難いが、監視する手段があることは確かに都合が良かった。だから当分は女の思い通りに動いてやるのが得策なのだろう。義理を果たす為に彼女が満足する程度に通ってやり、頃合いを見計らって後腐れなく縁を切れる。本来は関わらない方がお互い幸せだ。

 一人殺す度に弾ける希死念慮も、知り合って間もない非力な女との口約束を邪険にしない義理堅さも、結城が未だに獣に成り切れない証左だった。人のまま人を殺すことに長けてしまった男は、独り静かに冷たい闇の中を進んだ。


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