『厚顔無恥』
『歪み』がとにかく嫌だった。
ペットボトルや鉄パイプの凹みや、障子に空いた穴。完璧でまっさらな中に一つの綻びがあるのが、心底気持ち悪かった。
『治さなくては』『直さなくては』と、誰に言われるまでも無く率先して修復しようとした私を、有象無象は『異常』だと言った。
他人には『僅かに感じられる』程度の部分が、私には『ハッキリ』と目に映るのだ。飛蚊症と呼ばれる白んだ視界に黒いモヤの浮かぶ病気があるらしいが、宛らそれに類似したカタチが浮かんでくるのだ。
だからこそまずは眼科に行った。『過労による飛蚊症』だと告げられた。
沈黙が続くと、私はその判断と認識が許せないのだと気付いた。私の苦しみは決して過労による物なんかではない。眼科は所詮『眼』の事しか分からないのだから。
帰り道の途中、『心因性の物か』とも考えた。だがしかし、私の抱く『歪みへの苦悶』は医者の治療によって治癒する物ではない。治す事が仕事である医者とはその実、何者も治す事はおろか、癒す事すら儘ならない存在。学歴コンプレックスに揉まれた可哀想な必要悪なのだ。
進行形で、私の周りには『歪み』が溢れている。訝しげで、憐憫を伴った医者の眼差しが、より増幅させたに違いない。
私の苦しみを治す事が出来るのは、良き理解者だけだ。知識でも薬でもどうする事も出来ない、強く抱く使命感を理解してくれる行為が、この歪みを無くすのだ。
……考えが脳漿を掻き回すようで気分が悪いと、気分転換に立ち寄った喫茶店。何処にでもある様な平凡な店内に、歪みは一つも無かった。窓際の席へと向かった私は、メニューに書かれたキリマンジャロを頼むべく店員を呼ぶ。
……来ない。返ってくるのは狭い店内に流れる静かなジャズの音色のみ。ウェイトレスやバリスタに聞こえていない筈がない。憤りに苛まれていると、ウェイトレスが謝罪しながらやってくる。
『申し訳ありません』『仕込み中のトラブル』『人手が足りない』
……何を言っている?私は落ち着く為にコーヒーを飲みに来た。仕込みが滞っていようが客である私には関係無い。蔑ろにしておいて言い訳ばかりを並べられているこの状況は、苛立ちを加速させた。
歪みが露になる。あぁ、直さなくてはならない。正さなくてはならない。強くウェイトレスを睨み付け、私は声を荒げた。
「私をコケにしやがって」
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「━━━、出房だ」
……あぁ、今日が『その日』だったか。と、単純な落胆が心に落とされる。しかしその落胆は心底に辿り着く事はなく、延々と重力に従って下へ、下へと落ちていくようだった。
独房の外から私の『行き止まり』を告げられ、身体を支えられながら。この行き止まりの何処かにある終点へと案内される。
死神に囲まれる中、私には明日を考える猶予を与えられなかった。後数時間か数十分後、私の命の灯火は消え失せている事だろう。
……あの喫茶店は、既に無い。喫茶店全体が『歪み』となって、気持ちの悪い物となってしまった。それは治さなければ、正さなければならない癌となって、私を突き動かした。
『現住建造物等放火罪』『殺人罪』。その他諸々が私にはそれが適応された。精神疾患や心神喪失は認められず、情状酌量の余地無し。結果的に店員と客、合わせて6名の命を奪った私の終点への片道切符は、そのまま何にも邪魔される事なく受理されたのだ。
……私の抱えていた苦しみは、理解されていた。された上で、周囲の者達は『異常』だと判断した。治すも治さないもない、元から私はそういう『どうしようもない』人間として、今此処に辿り着いてしまった。
「………吸うか?」
死神が差し出してくる、一本の紙巻き煙草。『せめて最後は……』という気遣いによる物だろうが、生憎私は煙草を吸わない。その代わりに『缶コーヒーが欲しい』というと、気前良く私の好みの銘柄を聞き入れ、ロング缶のコーヒーを買ってきた。
プルタブを開け、それを久方ぶりに一気に飲み干すと、不思議と落ち着きを取り戻せたように感じた。
━━白布を目元に宛がわれ、手錠を掛けられる。『抵抗』という選択肢は無くなり、私は遂に辿り着いた。耳に痛い静寂と、死神達の震えた吐息。もう歪みは見えないが、それでも私は一つ、言いたいことがあった。
足を縛られながらも、首に縄を巻かれながらも。
心の底からの思いの丈。絞首の後に色々とぶちまける前に。
飾らずに溜飲したモノを全て、吐き出す。
大きく━━息を吸って━━━━━━━
「ふざけるなッ!!良くも死にやがって!!!
俺を犯罪者にしやがってェェ!!絶対に許さねぇか」