じぅ→雨降って鬼強くなる
愛紗は何が起こったのかわからなかった。気づいたときには慣れ親しんだ腕の中だったからだ。数歩先に美明がいる。愛紗は何度も黎明と美明を見比べた。
「あれれ?」
「大丈夫か?」
美明の首筋に一本の赤い線。彼女はただ、わなわなと震えている。それが恐怖から来るものなのか、怒りから来るものなのか愛紗にはわからなかった。
記憶が曖昧だ。
ひ弱な子どもの身体は、美明の強すぎる力に一度気を失っていたのだろう。恐らく、ほんの一瞬。
黎明が心配そうに愛紗を見下ろす。
愛紗はわずかに震える長い睫毛に腕を伸ばした。その小さな揺れにそそられたのだから、仕方ない。その姿に黎明が小さく笑う。
「大丈夫そうだな」
「あい」
「よかった」
「お父さま、どんな術を使ったの?」
身体は人間とはいえ、相手は鬼だ。こうもあっさり人質を奪還できるものだろうか。
「少し、な」
黎明はそれだけ言うと、小さく口角を上げる。愛紗を抱える腕とは反対の手――左手には短剣が握られていた。こんな小さな剣一つでことを成し遂げたことに愛紗は驚く。
――お父さま……絶対、敵に回しちゃダメなやつだ。
愛紗はまじまじと黎明の顔を見つめた。
「鬼よ、後宮では周知の事実だが、私は愛紗に弱い。愛紗に『だめ』と言われてしまっては、そなたを宴に出すことは難しい。許せ」
「この国の主は、その小さなお姫様のいいなりですの?」
「そう考えてもらって構わない。それに、愛紗はこの国を傾けるような我儘は言わない」
「……残念。この身体が手に入れば、制約なく動き回れましたのに」
美明は小さくため息を吐いた。彼女は自身の両の腕を舐めるように見たのち、手で顔を撫で回す。一言「結構、気に入っていたのに」と呟く様は、玩具が手に入らず拗ねている子どものようだ。
ポツリ、ポツリと愛紗や黎明の頬を濡らす。
雨が降ってきた。
美明の頬にも雨粒が落ちる。涙のように頬を濡らした。彼女は瞼を落とし、何粒かの雨を受けたのち、ゆっくりとほほ笑んだ。
「天候も味方したことですし、計画を変更することにいたしましたわ」
太陽を隠す厚い雲は、当分去りそうにない。全て雨になって溶けてしまえばいいが、そうもいかないだろう。
――嫌な予感がする。
こういう予感は、よく当たるのだ。
「借り物の身体は少し不便だけれど、仕方ないわ」
彼女はそれだけ言うと、黎明に向かって腕を伸ばした。彼女の手に大きな扇子が現れる。彼女の顔がまるっと隠れる大きさの扇子。紫地に黄金と紅で塗られた模様。その扇子その物が禍々しい気を出していた。
人間界にあるべき物ではない。
黎明が身構えたのがわかった。やはり、彼はふつうの人間とは少し違うと思う。仙界の者に比べて人間は鈍感だ。あの扇子の危うさを感じ取れる人間がこの世に何人いるだろうか。
そして、そのうちの何人がこの禍々しさに立ち向かうことができるだろうか。愛紗には想像もできない。少なくとも過去百回の転生で、そのような特異の人間には出会ったことがなかった。
鬼に愛される魂は、よほど特別なのだろう。
愛紗がまじまじと黎明を見つめた。すると、黎明はふっと優しく笑う。
「大丈夫だ。しっかりつかまっていなさい」
「あい」
愛紗はそれしか言えなかった。魂殺剣なくして鬼をどうするつもりなのか。その小さな短剣で逃げ切るつもりなのか。色々聞きたいことはあったのだが、あまりにもいつものように優しく笑うものだから、必死になるのが馬鹿らしくなったのだ。
――まぁ、どうにかなるかぁ。
愛紗は元々楽天家ではあるが、黎明の笑顔が加わると拍車をかけている自覚はあった。今だって、鬼を退治する方法など思いついていないというのに、とりあえず、しっかりつかまっていればどうにかなるような気持になっている。なので、愛紗は黎明の衿を皺が付くくらい力強く握りしめた。
「ただの人間に負けはしないわ」
美明は楽しそうに扇子を一振り。その瞬間、突風が吹く。何もかも吹き飛ばしそうな風だ。黎明が一瞬目をそらした隙に、美明が飛び上がった。
「お父さまっ! あぶ――」
空高く舞った美明は扇子を閉じ、そのまま黎明に向かって振りかざす。黎明は愛紗を守るように、左腕を振り上げた。
キンッ
金属がぶつかる音が響く。短剣と扇子がぶつかった音だ。衝撃で愛紗は黎明と共に吹き飛ばされる。黎明の左手にある短剣は、折れて半分の長さになってしまった。
「名品だと聞いていたけれど、そうでもなかったのかしら?」
美明は首を傾げる。短剣が半分に折れただけで、黎明と愛紗は無傷なのだから仕方ない。雨がどんどん強くなる。黎明の濡れた髪から零れる雫が愛紗の頬を打った。
「うまく力が出せていなかっただけかもしれないわね」
彼女は独りごち、納得したのか扇子を広げて見せた。
「人間にはわからないでしょうけど、この扇子は名品中の名品と言われているの。一振りすれば風を呼び、二振りすれば千年樹すらなぎ倒す。人間ならば一振りで充分かと思ったけれど……」
彼女は「もう一振り」と呟いた。大きな扇子が振り上げられる。すると、突風が起った。
肌を刺すような突風は、衿を掴んでいた愛紗の手を強引に引き剥がし、黎明と引き離す。宙に浮いた愛紗に向かって黎明は腕を伸ばすが届かなかった。
突風が渦を巻き、愛紗を空高く押し上げる。黎明の叫び声が僅かに耳に入ったが、それどころではなかった。
――こうなったら、一か八か!
愛紗は風に飛ばされながら、気を練った。




