りょ→名もなき侍女の災難(そのに)
侍女は走った。この後宮の主の命令だ。何よりも優先させなければならない。
先帝の妃の住まいから珍絽殿は遠い。誰も見ていないのだから、ゆっくり歩いてもばれはしない。そう思うのに、黎明の全てを見透かすような瞳が足を前へ前へと出させる。
「なんでっ! 私ばっかりこんな目にっ!」
周りには誰もいないのだから、これくらいの悪態はついてもいいだろう。そもそも皇帝などという尊い立場の人間が、一人で木の上にいるほうがおかしいというもの。
侍女の知る皇帝はいつも大勢の宦官を連れ、存在を主張して歩いているものではないか。誰もが道の端により、身を低くして災難が起こらないことを祈るのだ。
まさか、あんな小さな存在に平穏を揺るがされるとは思ってもみなかった。侍女は気ままな猫のように歩く愛紗の後ろ姿を思い出す。
黎明が即位してからというもの、後宮内で女の諍いはほとんど見ることがなかった。黎明のたった一人の妃である映貴妃は非常に奥ゆかしい方らしく、自身の宮殿にこもりきりだ。他に争う相手がいなく、黎明を独占できる状態である。
黎明は堅物なのか、先帝の妃たちの色目にはなびかない。争いがおこるわけがない状態だ。妃たちは気が気ではないだろうけれど。
逆に後宮に使える者たちは少ない席を奪い合うことになる。今ならば、映貴妃が住まう蓮華宮付きの侍女が最上級だろうか。映貴妃に気に入られれば、よい縁談をもらうことも可能だ。
妃の住む宮殿と言っても、先帝の妃の宮殿につく侍女には未来などない。まだ下級に落とされないだけマシだと言い聞かせ、鳴りを潜めて生きていく。出世を望まなければ、陥れられることもないのだ。
「おとなしくしてたのにっ!」
侍女はつい、心の声をもらした。あの小さな悪魔のせいである。
皇帝や、その娘に顔や名を覚えてもらうことはさほど幸運なことではない。彼らが贔屓し取り立ててくれなければ、周りの嫉妬の対象となってしまう。
最悪、宮殿を追われるかもしれないのだ。
皇帝が溺愛する娘と皇帝に接触したばかりか、今から会いに行くのは皇弟。運が悪いではすまされない。
逃げる方法を考えているうちに珍絽殿についてしまった。
固く閉ざされた扉。鍵こそ掛かっていないが、昼間は開けられているはずの門扉が、訪問者を拒むが如くしっかりと閉じられているのだ。
門の前に見張りの一人もいない。
珍絽殿はあまりいい噂がない。先々帝のころは冷宮だったなどという噂も聞いている。
侍女は恐る恐るその扉を叩いた。弱弱しい音でコンコンと二回。
これでは、誰も聞こえない。
誰も出なかった場合どうすべきか。侍女は頭を悩ませた。どのくらい考え込んでいたかはわからない。しかし、もう一度扉を叩いてから中に入ってみようと意を決した。
ちょうど、扉に拳をぶつけようとしたその時、ゆっくりと扉が開く。侍女の拳は扉に届くことはなかった。代わりに、扉よりも柔らかい何かに当たる。
華やかとは言わないが、しっかりとした作りの帯。侍女は状況を察して、恐る恐る顔を上げた。
視界に入った服は宦官たちが着るものではない。不満そうに曲がった唇、長い前髪の奥にある不気味な瞳が侍女を見つめる。
「なに」
言いようのない不安が襲う。全ての者を凍り付かせるような冷たい瞳。用意していた言葉など、喉の奥に引っ込んでしまった。
これが、皇弟――胡遊。皇帝の兄弟唯一の生き残りだ。
数秒も待たないうちに、胡遊は大きなため息を吐いて、侍女に背を向けた。
「あっ! 待ってください! 陛下から、ご伝言が!」
ようやく絞り出した言葉を受けて、胡遊の足が止まる。
「なに」
「えっと……。ほ……『宝物殿の特別な宝を愛紗に見せたい。今すぐに持ってまいれ』と……仰せでした」
「へぇ。陛下は今どこ?」
「先帝妃の宮殿に愛紗様をお迎えにあがられました」
「そう」
熱くもないのに、汗がとめどなく流れる。短い言葉一つ一つが心臓を抉っているようだった。しかし、胡遊は侍女を咎めることなく、珍絽殿の門をくぐった。宝物殿へと向かうつもりなのだろう。
侍女はホッと胸をなでおろし、宮殿へと足を向けた。ちょうど宝物殿とは逆方向だ。別方向でよかったと、侍女は心底から思った。気が緩んだ瞬間、胡遊から「君」と背中から声をかけられる。
「は、はい」
「君は戻らないほうがいいよ」
「そうい言われましても……」
意味もなく戻らなければ、咎められる。
「……面倒だな。命令する。私が戻るまでここの掃き掃除しておいて」
彼はそれだけ言うと、真っすぐ宝物殿へと向かった。侍女は茫然と彼の背中を見送る。
「は、はい……」
最悪だ。侍女の不運な一日はまだ終わらない。




