うぉ→名もなき侍女の災難(そのいち)
侍女は小さく「はあ」とため息を吐き出した。
皇帝の唯一の娘である愛紗に頼まれ、先帝の妃、美明の部屋を案内したのはつい先ほどのこと。
侍女の主も先帝の妃の一人で、この宮殿内では位が高かった。高いなどと言うが、所詮先帝の妃、この後宮内で実権は皆無と言っていい。
先帝が存命のころは、広い宮殿の主として大きな顔をしていた。残念ながら、子には恵まれず、二度の流産を経験しているが。気位が高く、自信もある。起死回生を狙い、現皇帝の妃の席を狙っていた。
後宮に住まう先帝の妃は十余名、再起を図る者は数知れずいる。しかし、今のところ成功者は一人も出ていないのが現状だ。
侍女は奴婢としてこの後宮に来た。酷いいじめにも耐え抜き、ようやく宮殿付の侍女にまで昇格したというのに、その半月後に先帝は帰らぬ人となったのだ。
現状がいいものとは言えない。宮殿付とはいえ、先帝の妃。それは、黎明の一息で吹き飛ぶようなか弱い存在である。
ただ、目立たぬように息を潜めて生きていようと決めていたというのに、今日はついていない。皇帝が溺愛する愛娘に言伝を頼まれた。しかも、相手は皇帝陛下である。
侍女はもう一度ため息を吐き出すと、庭園の大きな木を見上げた。
侍女は息を飲んだ。――本当にいる。普段、顔を見ることなどできない相手だ。皇帝陛下とはこのような顔だったか。身に着けている物が彼の存在を裏付けているというのに、半信半疑になるのも仕方ない。侍女が黎明の顔を見る機会などないのだから。
会って、目を合わせられる者など、この後宮にごくわずかしかいない。先帝の妃たちですら、それが危うい立場にある。
「どうした」
侍女は黎明に声をかけられ硬直した。
ひらり、と煌びやかな袖や長い髪が舞い上がる。黎明は体の重さなど感じさせない様子で木の上から降りた。
陶器のような肌、つややかな漆黒の髪。長い睫毛の奥にある、なんでも見透かしそうな瞳に侍女の姿が映る。世にはこのような麗しい男がいたものか。
先帝の妃たちが本気になるのも頷ける。亡き夫のことも忘れ、黎明に色目を使う。それほどの魅力が彼にはあった。妃が一人しかいないなど、不思議で仕方がない。
「何か用があるのだろう?」
痺れを切らしたように黎明が低い声で言った。侍女はたちまち、自身のおかれている状況を理解する。慌てて膝を地につき、頭を下げた。黎明の裾と沓だけが見える。
「あ、あ……愛紗様より、ご伝言をお預かりいたしました」
「愛紗はなんと?」
「探すのに飽きたので、鬼ごっこをしたいそうです。陛下に逃げるように伝えてほしいとお願いされ、参りました」
「愛紗は私がここにいると?」
「は、はい。庭園の大きな木の上にいらっしゃるとだけ……」
侍女はただただ沓を見つめて言葉を紡いだ。黎明の疑問も頷ける。思えば、なんとも不思議な伝言である。いる場所を知っているのに、愛紗は「探すのに飽きた」というのだ。しかし、愛紗の心を侍女が知る由もない。
叱責を覚悟していたが、黎明は「そうか」と短く返すと、小さく息を吐き出しただけだった。
「愛紗は今どこに?」
「あ、愛紗様は美明様の部屋におられます」
「わかった。頼まれついでにもう一つ頼みたいことがある」
「はい。なんでございましょうか」
「珍絽殿に行き、胡遊に伝言を頼みたい。この時間なら、中にいるだろう。私の名を使えば、応じてくれるはずだ」
「ち……珍絽殿」
思わず侍女は肩を震わす。この後宮でその場所の名を知らない者はいない。その場所はずっと、誰にも使われず、鍵を強固にかけられていたからだ。
中に入ったら帰ってはこれないと脅されたことは何度もある。
「珍絽殿にいらっしゃる胡遊様に何をお伝えすればよろしいでしょうか」
「『宝物殿の特別な宝を愛紗に見せたい。今すぐに持ってまいれ』と、言えばわかるだろう」
「はあ……」
「どこまでと聞かれたら、このあたりの場所までくればわかると言えばよい」
「か、かしこまりました」
侍女は額を地面にこすりつけながら、何度も頷いた。
「早く行け。できるだけ早く」
その言葉に慌てて立ち上る。黎明は満足そうに頷くと、侍女が来た方向――先帝の妃たちが住まう宮殿へと足を向けた。
「へ、陛下はどちらへ?」
「私か? 私は小さな鬼を迎えに行かねばならん」
黎明は両手の人差し指を頭につけ、角を作った。




