ある→十然は逃げ足が速い
久しぶりの投稿で、章タイトルを作成することを忘れていました。追加してます。
十然は細い目を見開いた。
「なら、その先帝の妃の中に鬼が潜んでいる可能性があるな」
「先帝の妃の中に、お父さまの前で舞を見せたいって人がいたのよね。名前はなんだったけ? ……蝉みたいな名前だったような?」
愛紗は大きな目をかたく閉じ、思い出そうとする。
――ミンミン……。だったかな?
昔から人の名前を覚えるのは苦手だ。顔はなんとなく覚えている。目が二つ、口と鼻が一つずつある女だ。
黎明に執着していることに気づいた時点で鬼との関わりを疑うべきだったのだろう。
「……仕方ないわ。行くのよ!」
閉じていた目を開け、十然に向かって顔を上げる。しかし、目に入った姿は、細長い目の男ではなかった。
「どこに行くつもりだ?」
形のいい唇がゆっくり動く。愛紗は二度、三度と瞬きをした。しかし、目の前に広がる光景は変わらない。
「あ……あれ?」
木の棒を持ち、手書きの地図の前にしゃがみ込む愛紗。その地図を踏まないように愛紗の側で膝をつくのは、十然ではなく黎明だった。
愛紗は首を傾げて黎明の頬に手を伸ばす。
「変化が上手なのね」
ひんやりとした頬を小さく叩く。十然は九尾の狐だ。正確には十尾あるのだが、今はそれはさほど重要ではない。昔から狐族は変化に長けていた。
十然が好んで変化をするところをみたことはない。だから、こんなにうまいとは知らなかったのだ。
「変化?」
「おお! 本当にお父さまにそっくり」
声どころか、仕草まで似ている。面白くなった愛紗は頬を引っ張った。それくらいで化けの皮がはがれることはなさそうだ。
「そっくりも何も、私は私だ」
「あはは、面白い冗談を言うのね」
黎明が後宮の端に来るはずがないだろう。愛紗が笑うと、空からコホンと咳払いが降ってきた。
黎明ばかりに気を取られていたが、少し奥には数名の宦官を引き連れた如余が立っているではないか。
愛紗はひくり、と頬を引きつらせる。
「陛下は愛紗様が門の前で騒いでいると報告を受けて参ったのですよ」
愛紗は如余から黎明に視線を移す。長い睫毛が風に揺れた。
「お父さま?」
黎明は愛紗の言葉に小さく頷く。
ぐるりと見回すが、十然の姿はない。恐らく、愛紗が考えごとをしているときに、黎明の気配を感じて逃げたのだろう。
――あいつ、逃げたな……!
「本物だと信じてもらえたか?」
「あい」
黎明は「よかった」と小さく笑うと、愛紗を抱き上げ立ち上がった。
「こんなところで一人で遊んでいたのか? 変化がどうと言っていたが……」
愛紗はどう説明していいか迷った。十然が実は狐族で変化が得意――など、話すわけにはいかない。愛紗は悩んだ末に、真剣な顔で黎明を見つめる。
「世の中、不思議なことでいっぱいなので」
「……そうか。では、私の偽物には注意を払っておこう。如余、よいな?」
黎明の真面目な顔に、如余が神妙な顔つきで頷く。愛紗も如余に合わせて頷いておいた。十然が黎明に変化しない限りは偽物など現われない。
如余も子どもの戯言だと思っていることだろうし、問題はないだろう。
一人で逃げた十然への文句はこの際後回しでいい。まずは黎明の腕の中から逃げることが先決だ。なにせ、夜の宴で鬼はまた彼を狙うのだから。
「おとう――」
「さて、どこかに行く予定だったのだろう?」
愛紗の言葉を遮るように、黎明が言葉を被せた。
「……あい。ちょっとお散歩に」
「折角だ。私も付き合おう」
「お、お父さまはお仕事でしょ?」
「たまには息抜きも必要だ。それに、可愛い娘を偽物に拐かされては困る。さて、どこに向かう?」
黎明の頑なな態度に、愛紗は眉根を寄せた。いつもならば「執務が残っております」と言葉を挟む如余は何も言わずに佇むばかり。こういうときには使えない男である。
――鬼が正体をばらしてくれたほうが、楽かも。
鬼を退治するには魂殺剣を使用するのが一番効率的だ。そのためには黎明の助力が重要だ。なにせ、幼い子どもではあの剣を振り回すこともできない。
「じゃあ――……あっち」
愛紗はびしっと先帝の妃たちが暮す宮殿が集まる方を指さした。黎明は静かに頷くと、歩を進める。黎明の数歩後ろをついて歩こうとする如余と宦官立ちを見て、愛紗が小さな手を伸ばした。
「あっ! 親子水入らずに、如余たちはいらないのよ!」
黎明を守るだけでも大変なのに、ぞろぞろとついてこられてはかなわない。如余はあからさまに片眉を上げた。しかし、こればかりは愛紗も譲ることはできない。短い腕で黎明の首に抱きつく。
如余が不満そうに声を上げた。
「よい。皆、今夜の宴の準備を進めよ」
「しかし……何かあっては大変です。一人くらいは人をつけておくべきかと」
「後宮内で危険な目に遭うことはなかろう。私も娘と二人で話しがしたい。昨夜は胡遊に二人の時間を奪われてしまったしな」
黎明の手が優しく愛紗の背を撫でる。如余は不服そうだったが、それ以上不満を言うことはなかった。
如余たちに見送られながら先帝の妃が暮す宮殿へと向かう。黎明は愛紗の目的は尋ねなかった。
「昨夜は胡遊と共にいたようなだ。胡遊を気に入ったか?」
「おじさまは要注意人物なので。目が離せないの」
今のところ黎明の命を狙っている様子はない。しかし、いつ牙をむくかはわからないのだ。胡遊の目的が明確にならない限り、気を抜くことはできない。
「胡遊は少し変わり者だが、悪い男ではない。後宮にいるあいだは遊んでもらうといい」
黎明の言葉に愛紗は小さく「あい」と答えた。
――変わり者どころか、鬼だけどね。絶対、化けの皮をはいでやるんだから!
愛紗の心など知らない黎明は、ただ彼女の頭を愛おしそう撫でるばかりであった。
あっという間に先帝の妃が住まう宮殿が近づいた。大人の足が速いせいか、はたまた話に夢中になっていたせいかはわからない。
黎明の話がいつも面白いから仕方ない。愛紗の知らないことを沢山教えてくれる。時間も忘れ、更には目的も忘れて聞き入ってしまうこと数知れず。
視界の端に大きな木が映ったことで、愛紗は目的を思い出す。後宮には大小いくつかの庭園がある。視界に入ったのはその小さな庭園の木だ。
鬼の正体を暴くために来たものの、作戦などない。いつも行き当たりばったりでどうにかなっているので、今回もどうにかなるだろうと考えていた。
――魂殺剣のためとはいえ、さすがにお父さまを鬼の前に連れて行くのはまずいか。
少し離れたところに待機させるのが良いかもしれない。鬼の存在に気づけば、慌てて剣を取りに行ってくれるだろう。しかし、鬼に見つかってしまえば、それすらも阻まれる可能性がある。
――箱の中に詰めておければいいのに。
愛紗が腕の中で唸り始めると、黎明はピタリと足を止めた。
「どうした? 具合でも悪くなったのか?」
愛紗は返事もせずに黎明を見つめた。どうにかして、黎明を足止めしておきたい。しかし、逃げ回ったところで、黎明の足の方が愛紗より何倍も速い。
黎明が首を傾げる。愛紗は小さく「あ」と声を上げた。
「お父さま、いいこと思いつきました! かくれんぼしましょ!」
 





 
