ある→冷徹帝は娘に甘い
愛紗と黎明はいつも通りの朝を迎えた。いつからだったか。鬼の暗殺がない朝は一緒に朝食をとるようになった。
愛紗と共に食事をとる黎明の姿は、如余の権限で秘匿とされている。緊急事態が起ころうとも、何人たりとも部屋には入れないのだ。
それも致し方ない。
まるで母の代わりの如く、愛紗の口からこぼれた汁物を拭う黎明の姿を。
偏食気味の愛紗のためにさまざまな料理を取り分け、彼女の茶碗にのせる黎明の姿を。
誰かに見せるわけにはいかない。
早めの朝食をとったあと、黎明は朝儀へと向かう。名残惜しそうに愛紗の頭を何度も撫でるのは日常茶飯事。黎明の手は嫌いではないので、如余が黎明に泣きつくまで愛紗は飼い猫の如く撫でられることに徹する。
黎明を見送ったあとは雛典宮で運命録の記載を確認をして愛紗の役目は終了である。
愛紗は大きなあくびをした。運命録は平和そのもの。つまり、愛紗にとっては休日である。
――まだ寝足りないのよね。
黎明の執務に合わせて、彼の寝所で帰りを待てばどうしても遅くなる。朝儀も早くから始まるため、こうして雛典宮で昼までゴロゴロするのが常であった。
猫の如く惰眠を貪ったあと、愛紗は暇をもてあましていた。野良猫の舎弟たちに餌をやるついでに噂話を聞き出しても時間があまる。女官たちは愛紗を子ども扱いするので、楽しい話しは望めない。
唯一愛紗の事情を知る狐――十然だけは愛紗を大人として扱ってくれるのだが、同僚に仕事を頼まれて渋々消えていった。
――暇。暇すぎる。こういう時こそ鬼とか現れてくれたらいいのに。
忙しいときに限って鬼は現れる。愛紗は運命録を見た。本日五度目。もちろん、書かれている文は平和そのもの。
――書いてはいなくても、鬼が襲ってくるかもしれないし。そうよ、お父さまを守らないとね。
黎明は忙しいかもしれない。しかし、秀聖殿の周りには護衛たちがたくさんいる。いつも暇そうに立っているので、少しくらい遊んでもらえるだろう。
愛紗は忙しく働く女官に「お父さまのところに行ってくる」とだけ伝えると、秀聖殿へと向かった。
秀聖殿の入り口の前には護衛たちの他に如余が立っていた。いつも、黎明の隣にかじりついて離れない男が珍しい。
「愛紗様、いかがなされましたか?」
「ひ――……」
暇なので。なんて言いそうになった口を押さえ、道中で考えた言い訳を口にする。
「お父さまにご挨拶にきたのよ」
「今は偉い方と話をされておりますから、お待ちください」
「お父さまは忙しいのね」
「ええ、ですが、待っていれば会ってくださいますよ」
――珍しいこともあるものね。如余が優しい。
いつもなら、「陛下はお忙しいので」と愛紗をどうにか返そうとする。もちろん、その程度でへこたれる愛紗ではない。如余が折れるまで居座り続けるのだ。
愛紗は地面の上に座る。日陰であるせいか、石造りであるせいか、ひんやりとしていた。
「お父さまは今日も忙しいの?」
「陛下はいつでもお忙しいですよ。この大きな国を背負っておられるのです。忙しくないわけがありません」
「そっか。皇帝だもんね」
一国の主が忙しいのは致し方ない。愛紗はプラプラと足を揺らした。
「愛紗様、退屈がなくなる方法がございますよ」
「えっ! なになに?」
「陛下に兄弟がほしいとねだるのがよろしいかと」
如余の笑みに愛紗は落胆の色を見せた。もうその話は耳にタコができるほど聞いている。
そして、愛紗の中で結論が出ているのだ。
兄弟ができるということは、愛紗が黎明を独占できる時間が減るということ。それは、愛紗の修行にとってあまりよくないということだ。
「それは如余がお父さまにおねだりすればいいでしょ? あたしは興味ないので」
ふいっと顔を背ける愛紗に如余はすがる。「頼れる人は愛紗様しかいないのです」というが、ただの五歳の幼子には少しばかり荷が重いというものだ。
如余と愛紗が押し問答をしていると、秀聖殿の扉が開いた。扉の奥から顔を出したのは黎明だ。
「騒がしいと思ったら。……如余に遊んでもらっていたのか?」
「違うのよ。如余と遊んであげていたの」
「そうか、愛紗は優しいな」
「あい」
「優しい愛紗にとっておきの物を用意した」
「とっておき?」
「ああ、中にある」
首を傾げたままの愛紗を黎明は抱き上げた。黎明はまた秀聖殿の扉をくぐる。そして、執務室の机の隣にある小さな机の前に愛紗を置いた。
この机はいつだったか、黎明が愛紗のために用意したものだ。毎日のように鬼が現れるせいで、一緒に居たいと駄々をこねていた時期に「勉強をするならば」と用意したのだ。
愛紗はその机の上――目の前に広がる光景に、目を丸くした。
驚きと興奮で全身が震えているような気さえする。
「こ、これは……」
「見てわからないか? 愛紗の一番好きなものだ」
「なんと……! 大きな桃饅頭……!」
目の前に鎮座するのは、いつもの三倍はある大きな桃饅頭だ。愛紗の顔よりも大きい。
「はっ……! もしかして、我慢大会ですか……?」
今日は端午節である。粽子を食べるという使命のために、桃饅頭を絶たねばならないのだ。
――桃饅頭を目の前に忍耐力を養う修行は辛いのよ。
早くもキュルキュルとお腹が鳴る。愛紗の腹の音を聞いて、黎明がわずかに肩を震わせた。
「食べ物を粗末にするようなことはしない」
「じゃあ……食べても……?」
愛紗は目を輝かせ黎明を見上げると、彼は優しく微笑み頷いた。
「今日は健康と長寿を願い、龍神の好物を食す日だ。しかし、私の長寿は愛紗がいてこそ。ならば、私は愛紗の好物を用意せねばならない。それが道理というものだ。そうだろう?」
黎明の問いに愛紗は何度も頷く。事実、何度も苦労して鬼を退治しているので、これくらいの褒美では足りないくらいだ。
「こんなに大きな桃饅頭は初めてなのよ……」
ほぅっと愛紗は甘いため息をもらす。そして、夢ではないかと、自身の頬をつねった。
――痛い。これは現実。
小さな指で大きな桃饅頭をつつく。匂いも形も、触り心地もまさに桃饅頭である。
「そのままでは食べにくい。半分に割ってみよ」
「あい」
大きな桃饅頭を丸齧りにしたいという欲求はあったが、さすがにそれは公主のすることではない。
品を欠いては黎明の側に居られなくなるかもしれないのだから。
愛紗は小さな手で桃饅頭を左右に割る。途端に、声を上げた。黎明のみならず、他の者まであたたかな眼差しをむけてくるのだが、今は気にするところではない。いつ、「やはり、今日は粽子のために桃饅頭は我慢しよう」と黎明の気が変わってもおかしくない。
愛紗の手は小さく、大きな桃饅頭を半分にするのはとても大変だ。しかし、桃の割れ目の部分を少し切り開いて、中の餡が見えそうなところで愛紗は大きな声をあげた。
「おおっ!」
桃の割れ目から、小さな桃がコロリと一つ転がる。
「こ、これは……!」
「小さき桃だ。私は長寿を祈り愛紗の好物を捧げねばならぬが、愛紗は自身の健康と長寿のために粽子を食べねばならない。だから、桃饅頭で腹が膨れぬよう、小さいものを作ってもらった」
「可愛い!」
愛紗の手のひらにのる小さな桃饅頭。
「夜は粽子を食べられるな?」
「あい」
「私が長く生きるためには愛紗がもっと長生きしてもらわなければならん」
「あい」
黎明が頷くと、愛紗は小さな桃饅頭を口に入れた。子どもの口で二口ほどで食べてしまうような小さな物だ。
やはり、人間界の桃饅頭は格別だ。見目にも美しく、口に広がる餡の甘み。
今日は食べられないと思っていたからこそ、いつも以上に美味しく感じるのだろうか。
愛紗は両手に持った桃饅頭を見つめる。見上げると、優しく微笑む黎明の顔があった。
「どうした? その程度なら食べても夜には腹が減るだろう?」
「この桃饅頭、とてもおいしいのでお父さまにもあげます」
愛紗は右手に持っていた桃饅頭を一つ、黎明の手に置いた。
ニッと笑うと、彼は虚をつかれた顔をしている。
「こっちは如余にあげる」
左手の桃饅頭は如余に手に。また二つ桃饅頭を手に入れると、他の者に配って行った。
――幸せはお裾分けしないと。
一つ一つは小さいが、たくさん入っている。秀聖殿にいる者に配っても余るだろう。残りは雛典宮にいるみんなに配ればいいだろうか。と愛紗は思案した。
黎明は愛紗が配り歩く様子を見ながら、小さな桃を口に入れる。
「お父さま、おいしいですか?」
「ああ、まさに仙果。長生きできそうだ」
黎明の優しい笑顔を見て、愛紗は頬を緩めた。




