すぅ→虎穴に入らずんば虎児を得ず
愛紗が後宮の外の世界を見るのは三年ぶりだ。その三年前だって、高州の屋敷と馬車の中がほとんどだった。
広く華やかな宴の会場と、遠くまで続く来客。これが全て戦の功労者だというのだから驚きだ。
愛紗は胡遊の腕の中で感嘆の声を上げた。
「おじさま、ここには何人くらいいるの?」
無邪気な笑顔で聞けば、胡遊は「さあ?」と首を傾げた。興味はないようだ。
はたから見れば仲のよい叔父と姪に見えるだろうか。胡遊は愛紗を抱き上げ、幼い子の質問に嫌な顔一つせず答えているのだ。愛紗もまた胡遊の服をひしと掴み、離さない。
――今日は絶対離さないんだから。
愛紗は息巻いていた。黎明の膝という特等席を確保できなかったのは大きな痛手だ。宴でもどこでも黎明の席は一番目立つところにある。簡単に近寄ることは許されない。遠くからであるとどうしても守ることが難しくなる。
しかし、愛紗は鬼が胡遊であると知っていた。
鬼から離れなければ、黎明を狙うこともかなうまい。
胡遊は愛紗の耳元に唇を寄せて笑った。
「今日はなにを企んでいるんだい?」
胡遊は昼と夜で印象がまるで違う。昼間は顔を前髪で隠し、存在感すら消そうとしているというのに、夜はそれがない。
興味深げに愛紗は彼の顔を覗き込む。
「おじさまこそ。お祝いの席でなにをしようっていうんだか」
「なにもしないさ。ただうまい飯を食って、舞を楽しむ」
――嘘ばっかり。あたしは騙されないんだから。
「それに、人前で子猫になったら困るんだろう?」
胡遊は口角を上げた。
――今日こそ絶対お縄にしてやるんだからっ!
愛紗がいくら睨んでも、胡遊は余裕そうに笑みを浮かべたままだ。
「さあ、そろそろ席に着こうか。君がいないと陛下が心配する」
胡遊と愛紗は多くの人から挨拶を受けながら、席へと座った。
二人の席は、黎明の席に近かった。彼には皇后がおらず、皇太后も黎明の即位を機に離宮へと移ったようだ。唯一の妃である映貴妃も欠席のため、胡遊と愛紗に与えられた位置は皇帝に次ぐ上座であった。
愛紗は胡遊の膝の上にちょこんと座った。
――悪くない席だわ。
愛紗は与えられた席から会場を見回す。黎明を襲う予定の鬼と行動を共にすることができる上、黎明の席はすぐ近く。
豆粒のように小さく見えない席だったらどうしようかと思っていたのだが、これならどうにかなるだろう。
愛紗は出された山羊の乳をゆっくりと飲んだ。
「君のせいで僕まで山羊の乳なんだが?」
「おいしいのよ?」
愛紗が間違って酒を飲まないための配慮だろうか。酒の類は胡遊の目の前には一切なかった。出された料理は愛紗の好物ばかりだ。
宴が始まり、中央の空間で美女が踊る。みな、それを眺めながら楽しそうに食事をしていた。
「今日の宴は頑張った人を労うためなんでしょ? どれが頑張った人? あのおじさんたち? ……想像と違う」
髭の生やした大人たちが赤ら顔で酒を飲んでいた。腹が出ている者も多く、剣を振る姿も弓を射る姿も想像できない。
「あれは文官さ。武官はその奥。ほら、あれが武官の一人、賀家の長男、雲泰だ」
踊る美女たちが消え、雲泰が黎明に呼ばれた。
愛紗は目の前を通る彼を見上げる。うんと首を曲げないと頭の天辺まで見えない。
黎明よりも大きくがっしりとした躯体。愛紗など片手でプチッと潰されてしまいそうだ。彼が剣を振り回す姿は想像ができる。
「雲泰は若いながら、隊を率いて前線で働いた。功労者の一人」
胡遊が丁寧に説明をする。五歳の子どもには難しい内容だったが、愛紗はうんうんと相槌を打った。
雲泰が膝をつき、黎明に深く頭を下げる。黎明の「面をあげなさい」という声にしたがって、彼は床につけられた額を離した。
「賀雲泰、こたびの戦を勝利に導いたと聞いている。兄とともに感謝する」
黎明の穏やかな声が広がる。しかし、愛紗の知っている声色とは少し違っていた。朝儀で聞くときに似ている。どこか、冷たさを感じる声だ。
「国のため、できることをしたまででございます」
「何を言う。そなたがいなければ、あと五年は戦が長引いていただろう。何か褒美をやらねばなるまい」
「陛下に直接お言葉をいただけるだけで身に余る光栄でございます」
「そうはいかない。何もしなれば、そなたを選び南へと向かわせた先帝の面目を潰すことになろう。何か欲しいものはないか?」
「欲しいものでございますか?」
雲泰は真っ直ぐに黎明の目を見た。しかし、その口から“欲しいもの”はなかなかつむがれない。皆の視線が集まる中、黎明はただ彼が口を開くのをまった。
皆が酒を飲む手を止め、話声が消えていく。若い将が何を望むのか皆興味があるのだろう。
しかし、いくら待っても彼は何も言えずにいた。しびれを切らした文官の一人が立ち上がる。
「雲泰殿、何かないのですか? 陛下が返事をお待ちですよ」
雲泰が手を強く握りしめる。
「わたくしは――……」
彼が口を開いたそのときだ――……。
――殺気っ!?
愛紗が胡遊の膝から飛び上がる。そのとき、食器同士がぶつかり合い大きな音が響く。愛紗は視線が集まるのもかまわず、胡遊を見た。
「どうした?」
――違う、こいつじゃない!
この殺気は側から感じるものではない。もっと遠くから感じるものだった。
 





 
