ある→無慈悲な運命録
この狭い世界、成り上がるのは難しい。先帝の妃ともなれば、その難易度は他の比ではなかった。
食うものに困らず、持て余している時間が過ぎるのを待てば良いなどという者もいたが、全てがそうではない。
愛紗の目の前に座る女、美明も成り上がりを考えるうちの一人であるようだ。
「難しいことは申しません。ただ、私が陛下の前で舞う機会を与えてくれさえすればよろしいのです」
美明の目は真剣だった。
――そう言われても。
「あたし子どもだから、宴には出ないし」
「ご安心ください。私が出られるよういたしますから」
「でも、夜は眠いし」
「いつも陛下とご一緒だとお聞きしました」
美明と愛紗の攻防は続いた。なにを言って断っても、美明は諦めない。
「どうか、お願いできませんか?」
男ならば、その潤んだ目で見上げられればひとたまりもないかもしれない。しかし、愛紗は全くなびかなかった。
それどころか、食い下がる美明に嫌気がさしていたのだ。
「……や」
愛紗は理由を述べることをやめた。
――そうよ、あたしは公主。この人に行動を指図される必要ないのよ。
「そこをなんとか……!」
美明は引かない。幼い子の手を取り、離そうとはしなかった。
「なぜそこまで頑なにいやがるのですか?」
「それはこっちの台詞! なんで諦めないの!」
舞なんて、踊り子が大勢来るものだろう。こっそり潜り込めばいいではないか。
百回の転生生活で後宮の侍女になったことがあった。そのときに来ていた踊り子が皇帝の心を掴み、貴妃まで上り詰めたこともある。
後宮という世界は身分など関係ない。一人の男の寵さえ手に入れば勝ちなのだから。
「舞ならこっそり潜り込めるでしょ」
「いいえ、今回の宴は後宮の外で行われるので無理です」
「お外?」
「はい。今回の宴は勝利を祝い、兵を労う目的がありますから。呼ばれるのは皇族と妃、そして役人と決まっております。私ども先帝の妃が参加するには、例外が必要なのです!」
「例外って……あたし?」
「はい。陛下の寵を受けている愛紗様がお願いすれば、間違いなく否とは言わないでしょう」
「な、なるほど」
今の愛紗と黎明の関係ならば、「お願い」の一言で決まりそうなものだ。
「でも、あたしが参加してもあなたの参加は決まらないでしょ」
「ええ。ですが策がございます。皇帝陛下の言葉が全てとは言え、宮中は例外には厳しいと聞きます」
美明の言葉に愛紗は頷いた。長く続く国だ。しきたりにはうるさい。
「愛紗様が参加されるとなれば、それはいわば例外。宦官たちは陛下の言葉に反対できないとは言え、愛紗様や陛下に反発する者が出てくることを考えないわけがありません」
「あい」
「ですから、悩んだ彼らに私は言うのです。先帝の妃である私たちも参加させ、宴を減らしたことへの救済措置としたと」
美明はにっこりと笑った。
――さ、策士。
「そこまでして参加したいの?」
「ええ、もちろん。愛紗様は考えたことはございますか? ないでしょうね。生涯、この檻の中で老いて死ぬのを待つだけの人生を」
美明は宙を見る。愛紗は視線を追ったけれど、何もなかった。
「私たちは殉葬こそ免れましたが、籠の中に捨て置かれた鳥。忘れられた存在です。それでもいいと、毎日部屋で寝て過ごす者もおります」
北にあるいくつかの宮殿は先帝の妃が押し込められている。衣食住は保証されているものの、『妃』の称号すら奪われ、彼女たちはただ生きているだけにすぎない。
「これならば、宮女のほうがまだマシだとは思いませんか? 年季が明ければ外に出られるのですから。ですが、諦めればそこで終わりでしょう? 私はなんとしてでも幸運を掴みたいのです」
「そこで、宴? お父さまの妃になりたいの?」
「はい。お母さま、ほしくありませんか?」
美明はにこりと笑った。
「や。いらない」
「えっ!? なんで!? 私のことかわいそうだと思いませんか?」
「一度あなたを助けて失敗したら、次もってなるでしょ。あたし、暇じゃないのよ」
――それに、この人のためにお父さまに慣例を変えさせるのは違う気がする。
後宮にいれば、黎明と会う機会など何度だってある。その宴である必要はない。
「今回限りでよろしいのです! 明日しか私には機会がありません」
美明の愛紗の腕を掴む手が強くなる。細い腕は今にも折れてしまいそうだ。
それでも愛紗は頷かなった。納得のいかないお願いは聞かない主義なのだ。
「どうか! 今回限りですから!」
「ぜーったい、やー!」
愛紗の叫び声が雛典宮中に響いたのは間違いない。
次の日、宴があるとだけあって、宮中が朝から騒がしい。鬼を追い返すという一仕事終えた愛紗は、猫の姿で雛典宮へと戻ってきた。
――また、捕まえられなかった。正体はわかっているのに!
胡遊の顔を思い出すたびにはらわたが煮え繰り返るようだ。
――この際、宴の料理に眠り薬でも混ぜて、捕まえる? でも、あいつの食べる物わからないし。
皇族の食べる物は毒見がなされる。眠り薬が発覚したら大騒ぎになるだろう。
雛典宮の前ではいつものように十然が待っていた。
「姫さん、今日もお勤めご苦労さん」
「みゃあっ!」
「その様子じゃ、今日も現状維持か」
「みゃ〜」
猫の扱いもだいぶ慣れてきたようで、ひょいと抱き上げる。相変わらず撫でるのは下手だが。
――そんなことより、運命録を確認しなくちゃ!
「みゃっ!」
「はいはい。いつものやつね。山羊の乳も用意してもらってるから、そう焦るなって」
細い目を更に細くして十然は笑った。彼にとって、愛紗の修行も黎明の運命も他人事だ。のんびり歩く十然の顎に小さな猫の手で拳を一発振り上げると、腕の中からするりと抜け出した。
彼が痛みに悶えているあいだに、さっと部屋に入る。運命録をしまってある木箱をカリカリと引っ掻いた。
「ほら、その姿じゃ開けられないだろー」
結局は十然が来るまで待つことになるのだが、抱きあげられている時よりも心なしか早い気がするのだ。
十然が木箱の蓋を開けたと同時に、頭を突っ込む。
『宴の際、殺害される』
「みゃっ!?」




