い→先帝妃のお願いごと
鬼は基本、夜に活動する。昼間に活動するときはごく稀で、運命録はほとんどの場合夜を指定した。
猫の身体に変化した姿で、愛紗は月夜を仰ぎ見る。
――すばしっこい!
これで五日。胡遊が宮中にとどまった次の日から、黎明の運命録は不穏な空気を醸し出す。
毎日、『夜伽のさい、暗殺』の文字が浮かんだ。
――絶対あいつだ! 許すまじ!
愛紗は「みゃっ!」と小さく鳴いたあと、寝所へと戻る。雛典宮に戻ってもいいのだが、それをすると黎明が十中八九悲しい顔をするのだ。
別に黎明の撫でる手にやみつきなわけではない。
すやすやと眠る黎明の腕の中で丸くなる。ここが愛紗の定位置であり、猫の紗紗になっても変わらない。
皇帝の腕の中で眠れるのは、この後宮で愛紗ただ一人である。
――明日こそ絶対に捕まえてやるんだからっ!
愛紗は鼻息を荒くしながらも、黎明の腕の中で眠った。
愛紗は桃饅頭を頬張る。黎明が愛紗がいつ食べたくなってもいいようにと、たくさん用意するから仕方ない。
一人では食べきれない量をもらうので、いつも世話をしてくれる女官や宦官たちに配っていた。始めこそ遠慮していた彼女たちだったが、「みんなで食べたい」と瞳を潤ませれば、「いや」と言う者はいない。
黎明含め、みんな愛紗には甘い。桃饅頭とトントンの甘さである。
「あたし、思うのよ」
桃饅頭を飲み込んだ愛紗は口を開く。愛紗に付き合っていた十然が首を傾げた。
「なんでお父さまばかり、こんなに鬼に狙われるの?」
手に残った欠片を口に放り込む。甘さが口の中に広がり、釣り上げていた目尻を落とした。
「鬼も退屈してるんじゃないか?」
「暇つぶしに人間界に来てるにしては、お父さまだけ狙われすぎなのよ」
宮中には大勢の人がいる。朝になると人が殺されていた……。などということは今までなかった。
鬼は的確に黎明を狙う。
「魂殺剣を狙ってるって可能性は?」
「……そっか。あれを持ってるのはお父さまだもんね」
人間を傷つけず、鬼だけを的確に退治する剣など、鬼からしたら奪いたいに決まっている。
でも、なぜだろう? 魂殺剣を渡しても鬼が満足してくれるとは思えないのは。
「案外、天帝がおまえのために用意しただけだったりしてな」
「地界の鬼を使って? そんなことあるわけないでしょ。地界は天帝の管轄外なのよ」
「わざわざ地界の鬼に依頼しなくても、仙界ならいくらでも難しい試練を用意できるか。なにせ、あいつらは修業好きだからなぁ」
十然がカラカラと笑う。たしかに、仙界に住む多くの仙は修業ばかりしていた。仙界の中でも愛紗や十然の住む青丘はのんびりとしているほうだ。
だから、百回も上仙になるための試験を受けている愛紗を笑う者もいる。ここまでくると意地みたいなものなので、そんな嘲笑は耳にも入ってこないのだが。
「何にせよ、次こそ鬼を捕まえて、なぜお父さまを狙うのかとっちめてやるのよ!」
「本人たちに聞くのが一番だもんなぁ」
愛紗は力強く拳を握ると、桃饅頭を手に取る。
「姫さん、その身体で二個は行き過ぎだ」
「むぅ……」
十然に桃饅頭を奪われ、愛紗は頬を膨らませた。彼は気にすることなく饅頭を頬張る。
――最後の一個ぉ!
十然を睨んでいると、世話係である女官の一人が顔を出した。
「愛紗様にお客様がお見えですよ」
「……おきゃくさま?」
雛典宮にもときどき客がくる。しかし、いつもとは様子が違った。
相手が黎明であれば、愛紗に連絡が来る前に通されているだろうし、映貴妃であれば、「映貴妃が来た」と言うだろう。
宮中における愛紗の交友関係などその二人。
いや、最近もう一人増えたではないか。――皇弟、胡遊
身構えていると、現れたのは胡遊でもなく、ほっそりとした女だった。
侍女が着ているものとは違う華やかな出立ち。まだ二十才を越したくらいの年齢だろう。女は、幼子に深々と頭を下げた。
――侍女には見えないけど、お父さまには妃は映貴妃しかいないし……。まさか、新しい妃?
如余が世継ぎがいないことにヤキモキしているのはよく知っている。妃の一人や二人、むりやり入れてもおかしくはない。
「愛紗です。あなたは誰?」
「美明と申します。先帝の妃としてこの後宮に入りました」
「先帝の妃があたしになんのご用?」
先帝の妃が不遇を極めていることは知っている。先帝の皇位はわずか数年。子を生んだのは四人。そのうちの三人は子どもと共に生家へと返されたという。
一人は奴婢の出なので家がない。相応の名家を後見とし、生活は保障されているようだ。
しかし、先帝には数多くの妃がおり、子を持たぬ女たちは後宮の一画で、あてもなく暮らしていた。
女を磨いても、寵を与えてくれる人はいない。夫のいないこの狭い世界で成り上がることは難しかった。
「愛紗様は明日から三日間、宴があるのをご存知ですか?」
「宴?」
――宴って大勢を招いて演舞を見たりするあれよね。
愛紗も天帝主催の宴に参加したことがある。ふだん着ないような煌びやかな衣装を着せられ、辟易していたのを覚えている。
「お父さまはそういうの嫌いでしょ?」
以前、「宴が減って楽になった」とこぼしていた女官がいた。猫の姿で通り過ぎたときに聞いたものだ。
黎明の意図まではわからないが、宴は極力していないようである。
「陛下はたしかに華やかな催しをあまり好まないようですが、今回は凱旋した兵を労うことが目的の宴ですから。『好まない』の一言で片付けられるものではございません」
「ふーん」
――そういえば、そんなこと言っていた気がする。
しかし、宴に子どもの愛紗は参加しない。きっと、代わりに食事を豪華にしてくれるだろう。
面倒な重い服を着ることなく美味しい食事にありつけるのは悪くないと、愛紗は思った。
「そこで、愛紗様にお願いが……」
 





 
