うぉ→今夜は雪辱戦なので
「と、言うわけなのよ」
愛紗はふぅと息をついて、山羊の乳を飲んだ。十然は細い目を更に細めて笑う。
昼が過ぎ人間の姿に戻ったころ、愛紗は雛典宮へと戻ってきた。十然に迎えられ、すぐに部屋へと籠もる。もちろん、運命録を見るためだ。
『弟を後宮に迎え入れ、慌ただしい一日を過ごす』
そう間違いなく書いてある。これは今日、黎明が殺されないことを示す。しかし、鬼がこの後宮内にいることも事実なのだ。
「皇弟殿下に鬼が取憑いているとはな~。しかも、堂々と太陽の下を歩くんだろ?」
「そうなの。早くどうにかしないと!」
愛紗は鼻息を荒くした。今日は暗殺されない。しかし、明日の朝には殺されてしまうかもしれないのだ。後宮内で皇弟を疑う者などいないだろう。対処できるのは、愛紗ただ一人。
「でも、すぐに殺そうとしないなら、いい鬼の可能性もあるんじゃないか?」
「いい鬼がわざわざ人間に取憑くと思う?」
「それもそうか」
十然は人ごとのように笑った。仙界の者にとって、人間界に生きる者の命は短い。しかし、その魂は何度も新しい命を得ていることを知っている。身体の死が本当の死ではないことを理解していた。だから、人間の死に無頓着なのだ。
「しかもあいつ、超強い」
「へぇ。それは俺も相手してもらいたいなぁ~」
「十然は仙術使えないでしょ」
「俺も天の雷は浴びたくないからな。残念」
この世は仙界、地界、人間界に別れている。
他の世界に行き来することはできるものの、世界の均衡を保つために多くの制約がある。
その一つが、「相手に仙術を使わない」というものだ。
それは、相手が人間でも鬼でもはたまた仙界の者でも関係はない。他の世界で使える仙術は自分に向けたもののみ。それが、世界を守る決まり事だった。
もちろん、決まりを破った者に制裁が与えられる。それが、天の雷である。噂では、身体の霊力の半分を奪われるほどのもので、雷を浴びた者は仙界に戻って長い療養につかなければならないほどだという。
想像を絶する痛みであろう。
それを想像したのか、十然は肩を震わせた。
「陛下に鬼だって知らせれば早いんじゃないのか? あのなんとか剣でバシィッと切ってもらえばいいじゃねぇか」
「さっき教えようとしたけど、全然気づかなかったのよ」
十然の言葉に、愛紗は頬を膨らませる。あの状況で気づかないのはおかしい。人間に取憑いた鬼は影をもたないことを愛紗に教えたのは、他ならぬ黎明なのだから。
――もしかして、みんなには影があるように見えている……とか?
もしも、影を見せる術があったとしたら。そして、仙術の仕える愛紗だけがそれを見破れるとしたら……?
「やっぱり危険なのよ、あいつ。絶対今夜、決着をつける!」
愛紗は小さな拳を握った。
愛紗はほぼ毎日、黎明と共に眠る。二人きりか、あるいは映貴妃と三人か。映貴妃が男だと知った日から、黎明が愛紗を邪険にすることはない。それどころか、愛紗が「一人で寝たい」と言うと寂しそうな顔をするほどだ。
仕方ないので毎日一緒に眠る。たとえ、運命録が平和を示していても。
黎明の隣が愛紗の定位置となっていた。
今日も例外ではない。
愛紗はすやすやと寝息を立てる黎明を見下ろした。
――よし、ぐっすり。
黎明の寝付きはいい。眠ると朝まで起きることはなかった。愛紗はこっそりと寝台から抜け出ると、そっと寝所を後にした。
「愛紗様、このような時間にお戻りですか?」
侍衛の一人が愛紗に声をかける。背の低い愛紗に合わせて、わざわざ膝をついて目線を合わせる男は大の猫好きだ。猫の姿のときも同じように膝をついて声をかけてくる。
愛紗は小さな人差し指を口元に置くと、「シーッ!」とだけ言った。
何か言いたげながらも、愛紗によって言葉を封じられた侍衛は両手で口を覆う。彼の律儀な態度に大きく頷いた愛紗は、颯爽と走ったのだ。
「そちらは雛典宮の方向ではございませんよっ」
侍衛の小さな声が背を追う。しかし、彼の役目は寝所の見張り、そこを動くことは許されておらず、愛紗を追うことはかなわない。たとえ、朝、黎明に叱責されようとも、彼は任務を全うせねばならなかった。
愛紗は帰るために寝所を抜けだしたわけではない。
――今夜は雪辱戦なのよっ!
胡遊が寝起きする珍絽殿へと向かった。
珍絽殿は愛紗の暮す雛典宮よりは秀聖殿に近く、映貴妃の暮す蓮華宮よりは遠い。今朝、黎明と胡遊と共に行ったばかりなので、道は完璧だ。
愛紗は暗闇の中を一所懸命に走った。
こういうときは猫の姿の方が便利だなと思うことがある。今猫になるとこの後控えている大決戦に支障をきたすのだが。
固く閉じられた珍絽殿の門の前には侍衛が二人。簡単に潜らせてはもらえなさそうだ。しかし、それも対策済みだ。
珍絽殿は古い建物だった。建物を囲む塀は立派だが壊れている部分があるのだ。大人は通れないが、子どもならば潜れるほどの小さな穴が空いている。
愛紗は服を土だらけにしながら、その穴を潜った。
蝋燭の火がともる部屋に忍び込む。質素な寝台と飾り気のない机。その上には本が数冊乗っている。
しかし、胡遊の姿は見当たらなかった。
「子猫ちゃんから会いに来てくれるなんて嬉しいなぁ」
突然、声が振ってきて、愛紗は思わず飛び上がった。知らぬ間に、背後に立っていたのだ。
男の口角が上がる。
「だ、誰……?」
愛紗は思わず呟いた。目の前にいる男は、確かに胡遊と同じ黄金の瞳をしているが、表情も雰囲気を昼間とは全然違うからだ。
 





 
