すぅ→冷徹帝の寵愛事情
愛紗は満足げに後宮の庭を闊歩する。己の足では遅すぎるため、当たり前の如く十然の腕の中である。
十然は今朝戻ってきたばかりだというのに、誰にも不審がられていない。まるで溶け込んでいた。
「ね、みんな変に思わないのはなんで?」
「俺は狐だろ? 狐は人を騙すのが得意なのさ。安心しな。術はかけていないから、雷に打たれることもない。俺は生まれたころから姫さんに仕えている宦官という設定だ。よろしくな。姫さん」
「ふぅん。十然も暇なのね」
「そーさ暇さ。姫さんが大仙試験に出るって言ってから何日が経ったと思う? 仙界換算で七千日以上だ。そのあいだ、俺は一人ぼっち。青丘の端でぷるぷる震えるかわいくてかわいそうな狐さんを想像してみろ?」
「ぜんぜんかわいそうじゃない」
「そーかい、そーかい。それでも、無下にしない姫さんが好きだぜ?」
「そーですか」
十然は歯を見せ笑う。彼にとって、愛紗は唯一無二の友人だった。九尾の狐が統治する青丘において、十本の尾を持つ十然ははぐれ者だ。
仲間の狐には馬鹿にされ、多種族の者からは怖がられた。しかし、愛紗だけは違ったのである。
「九本の十本も変わらないとおもうけど。それに、多いほうが強そう」
「そう言ってくれるのは姫さんだけさ。多けりゃ良いってもんでもない」
もし、十本の尾を隠していなければ、全ての尾が喜びのために左右に揺れていたことだろう。代わりに頬が緩む。当たり前に許される喜びを愛紗は十然に与えたのだ。
「それで、陛下との夜伽までには時間があるだろ? どうする?」
十然の言葉に愛紗は青い空を見上げる。まだ日は高く、当分は暇だ。
「運命録は、夜伽のときに暗殺されるって言ったでしょ?」
「ああ、そうだな」
「夜伽だと、妃の可能性が高いでしょ?」
「そうだなぁ~。無防備な姿で側にいるわけだし」
「だから、今日呼ばれる予定だった妃のところにいくのよ」
「なるほどな~。でも、姫さん、後宮ってところは妃嬪がたくさんいるんだろ? どれを呼ぶつもりだったかなんて、陛下しか分からないんじゃないか?」
十然は首を傾げる。しかし、愛紗はその言葉に頭を横に振った。
「たしかに、ここに妃嬪はたっくさんいるんだけど、ほとんど先帝の妃嬪なの。お父さまの妃は一人なのよ」
世話役たちが話しているのを聞いたことがある。皇帝、黎明には妃が一人しかいない。数多くある宮に住まう妃嬪たちは全て先帝のものだった。先帝とともに殉葬されることもあるようだが、黎明はそれを是としなかったようだ。
先帝はまだ若くして死に、妃嬪たちも若い。家臣の娘であることが多い妃嬪たちを先帝とともに土の中に埋めてしまえば、後に必ず反乱のきっかけとなると踏んでいた。
多くを知ってしまった先帝の妃嬪たちは後宮の外に出すことはできないが、この大きな籠の中で生きることを許されたのだ。
ゆえに、黎明の妃は田舎から連れて来た女が一人。彼女は映貴妃と呼ばれている。
「姫さんはそいつが怪しいと思っているわけか」
「あい」
現皇帝のたった一人の妃でありながら、表舞台にはほとんど出たことがないという。黎明は家臣から新たに妃をという声を多く受けていたが、よほど映貴妃を寵愛しているのか、増やそうとはしない。
しかし、毎夜共に過ごして二年経つというのに、懐妊の兆しがないのである。先帝の妃ですら、皇后の座を狙っている始末。
映貴妃が皇帝を狙う鬼の正体かもしれないと、愛紗は踏んでいた。
「映貴妃は蓮華宮ってところにいるの」
「今から行くのか?」
「もちろん!」
「まだ朝も早いんだ。昼飯の後でもいいじゃないか?」
「うだうだしてると夜になっちゃう」
愛紗は蓮華宮がある方角を小さな指で示す。決して自分で歩こうとしないのは、小さな足で歩くと思った以上に時間を浪費することを知っているからだ。
「相変わらずせっかちだなぁ」
十然は文句を零すが嫌な顔はしない。愛紗のふにふにの頬を三度つついてから歩を進めることにしたようだ。
蓮華宮は後宮内に建つどの宮よりも広く豪奢である。五代前の皇后が愛した宮であり、先帝のころは皇太后が暮していた。その皇太后も政権争いの折りに帰らぬ人となっている。
宮の入り口には女官が一人、佇んでいる。愛紗の顔を見ると、深々と頭を下げた。
「映貴妃にご挨拶したいの」
「確認して参ります」
しかし、女官が歩き出すよりも早く、愛紗は十然の腕からひょいと飛び降りる。猫のように身軽に着地した愛紗は女官の横をすり抜け、宮の中へと走り出した。
「愛紗様っ!?」
愛紗は女官の叫び声など耳にも入っていない。小さな足で前へと進む。女官が止めようにも小さな身体は身軽で、ちょこまかと動くものだから腕の中に収まらないのだ。
人前に出ることを嫌う映貴妃のことだ。許可を求めれば、断わられることは間違いない。もともと強行突破するつもりであった。皇帝の寵妃と、皇帝の養女。どちらも後宮での地位は変わりない。しかし、愛紗はまだ何をしても許される五歳の幼な子なのだ。それを利用しない手はない。
五歳の幼な子には少し重い扉を押し、小さくできた隙間からするりと入る。十然はその背を笑いを押し殺しながら見送った。十然も同じように続けば、一人だけ叱責されることは間違いないからだ。
保身のためにオロオロとして見せるのが、十然の処世術である。
愛紗持ち前の勘のよさで、映貴妃の居そうな場所に向かう。寝所と思われる場所に辿り着いた。
寝台を閉ざす紗の向こうに影が見える。
「うるさい……」
少し低めの声が小さく呻いた。
【一口メモ】
貴妃:唐王朝の後宮制度より参考。皇帝の正妻は皇后ですが、他妃嬪にも階級がありまして、貴妃は妃嬪の中でも一番上の位になります。
紗:唐の時代あたりから大流行したスケスケ絹織物ですね。