さん→愛紗、絶体絶命!
愛紗は瞬きをしながら考える。
――影、あたしにはある。
足元をまじまじと見れば、五才の身長に見合った影が地面に転がっている。木の影は塀にしっかりとへばりつき、建物の大きな影は地面に寝そべっていた。
この三月のあいだ、影のない人間を愛紗は何人も見てきた。彼らは夜や雨の日をよく好む。そして、いつだって黎明の命を狙うのだ。
愛紗は地面を踏みしめ、胡遊を睨んだ。
「へぇ……。君は……僕が何か分かるんだ」
胡遊の口角が僅かに上がった。
長い前髪から覗き見えた目は、月のように丸々とした黄金だ。
――鬼、すなわち……敵っ!
毎日のように仙術を使うようになって、霊力を練るのもお手のものだ。仙界にいたころより格段に上達している。
「疾風っ!」
愛紗は叫ぶ。同時に、強い風が吹いた。
愛紗の髪が乱れ、木々がざわめく。練り出された突風は勢いよく胡遊を襲う。側にあった大木に頭を打ち付けた彼は、気を失った。
それでも風は手を止めず、ぐるぐると彼の身体に巻き付いていく。
「へへん。人間を傷つけずに捕らえる新作よ!」
鬼は人間に取憑き、黎明を襲う。サクッと退治することができない愛紗の苦肉の策だった。あとは宝物殿から魂殺剣を盗み出し、「えいやー」とやるだけだ。
愛紗は得意げな顔を見せた途端ポンッと音を立てて小さな猫へと変化した。
――不便なからだ。
愛紗は前足で頭をかく。仙界の猫族である愛紗は、試練のために人間界へと転生した。その試練、『黎明を長生きさせる』という単純なものである。
しかも破格の待遇で、人間の身体ではあるが、仙界にいるのと同じように仙術が仕えるのだ。たった一つ、仙術を使うと三刻だけ子猫に変化してしまうという条件はあるのだが。
三刻は一日の四分の一に相当する。子猫の姿では大きな魂殺剣は持てない。
――十然に見張らせておけばいっか。
十然のいる雛典宮へと足を向けた。――そのときだ。小さな猫の身体が宙に浮く。
「みゃぁっ!?」
「へぇ……。君はただの子どもではないようだね」
「みゃぁっ!」
――なんで!? さっき確かに倒れたのに!
おまけに仙術の縄でぐるぐる巻きだったはずだ。しかし、目の前には何事もなかったかのように笑う胡遊がいた。
――こいつ、いつもの鬼より数倍強い!
首根っこをしっかりと掴まれ、逃げることはできない。人間の身体を傷つけないよう、威力は抑え気味ではあったが、この三月のあいだに現われた鬼ならば絶対に逃げられないような仙術だったはずだ。
「今どきの子は猫になれるのかな? 驚きだ」
「みゃあっ!」
鋭い爪を向けてみるものの、あと一歩というところで届かない。
――どうにかしてお父さまに知らせないと。
弟の胡遊に鬼が取憑いていると知れば、黎明もすぐに対処してくれるだろう。
「この悪戯な子猫をどうしたものか……」
黄金の瞳が子猫を撫でる。その不気味な雰囲気に毛が逆立った。
「子のお仕置きといえば――……」
「胡遊、ここにいたか」
後ろから声をかけられ、胡遊の動きがピタリと止まる。彼がゆっくりと振り向いた先には、黎明と数名の宦官たちが揃っていた。
「……陛下? 朝儀のはずでは?」
「朝儀は終わった。二人と共にこの後宮を見て回ろうと思ったのだが……」
黎明は辺りをぐるりと見回した。
「愛紗は?」
「こちらに」
胡遊は腕の中の子猫を黎明に手渡す。愛紗は黎明の腕の中で必死に叫んだ。
――お父さま! 影に気づいて!
「みゃあっ!」
「落ち着きなさい。紗紗」
黎明は子猫の頭を優しく撫でた。その手には魔力がある。優しい一撫でについ腹を見せてしまうのだ。愛紗はつい、鳴くのをやめてしまった。
――違う違う! 影がないことに気づかせないと!
愛紗は慌てて腕から飛び降りると、胡遊の周りをぐるぐると走り回る。察しのいい黎明ならば、子猫の影だけが存在することに気づけるはずだ。
しかし、黎明は「ほら、落ち着きなさい」と諭すだけで、気づくことはなかった。
「胡遊、愛紗は紗紗を残して消えたのか? あれは猫のように気ままだ。気を悪くしないでくれ」
「いえ、こちらが愛紗様でしょう?」
「みゃっ!?」
胡遊が首を傾げる。
愛紗は慌てた。こんな形で愛紗の正体が露見してしまうなど、一生の不覚。
胡遊は鬼に取憑かれた人間だ。鬼が身体から消えれば記憶も消える。だから猫の姿や仙術を見られても安心していた。
――子どもが猫に化けるなんて知ったら、捨てられちゃうかも!
捨てるまでいかなくとも、不気味がられて会ってもらえなくなる可能性だってある。そうなれば、近くで守ることもできなくなるのだ。
誤魔化そうにも、言葉を話すこともできない。
黎明は子猫の紗紗と胡遊を見比べたあと、カラカラと笑った。
「おかしなことをいう。……いや、そういうことにしておけと愛紗に言われたのだな。ならば、私もそれに従おう」




