ある→皇弟、胡遊
愛紗は立ち上がり、走った。小さな手で大きな扉を開けると、僅かにできた隙間からするりと中へと入る。
官吏たちの視線など気にもとめず、黎明の膝に飛び乗った。何を見るにも、ここが一番見やすく、安全だ。黎明にとって安全という意味ではあるが。
黎明は苦言を呈することなく、愛紗を腕に抱く。官吏の一人が片眉を僅かに上げたが気にはしない。
部屋の左右に並ぶ官吏たち。その中央を通って男がこちら側へと向かってくる。
――あれが弟……胡遊か。んー……地味。
改めて黎明の顔を見上げる。下から見ても整った顔をしていた。その姿形を褒め称える形容は数多くあれど、それでは足りぬほどだろう。仙界でもなかなか見ない美男子である。
顔など目と鼻と口があればいいくらいに思っている愛紗でも、なるほどこれが美男子か。と言わざるを得ない。
それに比べて目の前の男はというと……。
――前髪長くて顔の半分が隠れちゃってるよ。
癖のある薄茶の前髪が鼻の頭まで伸びている。まるで紗のようだ。着ているものも薄汚れており、皇族の者とは思えない。いや、皇帝の身内だからこそ、その格好が許されるというものだろうか。
「胡遊、よく戻った」
黎明が朝儀の場では聞かせないような柔らかな声で言った。
「兄上……いえ、陛下が即位したと聞き、西の地より参りました」
「兄でよい。そなたと私は唯一の兄弟となった」
「なりません。陛下はこの国の父となられたのです。私が大きな顔をすれば、陛下が批難されましょう」
黎明の声色とは反対に、胡遊の声は硬い。黎明が小さく息を吐いた。誰にも気づかれないような小さなものだったが、腕の中の愛紗にだけはわかる。
兄弟と言えど、皇帝と臣下。
――皇帝って孤独なものなのよね。
転生すること百回。後宮に仕えたこともある。遠くから見た皇帝はいつも違う妃と戯れてはいた。広く多くに寵を与えるいい皇帝だったようだ。しかし、裏を返せば心を許すような女性がいなかったということだ。
顔を上げると、黎明と目が合った。彼は愛紗の頭を一つ撫でると、柔やかに笑う。官吏たちが少しざわめいた気もするが、気にするところではない。
「寂しくはあるが仕方ない。そなたの立場が悪くなるのは私もよしとはしない。胡遊、好きなだけとどまるがよい。生母が使っていた珍絽殿が空いている。そこを準備させよう」
「ありがたき幸せ」
胡遊は膝をつき頭を下げた。
黎明の言葉を聞いて、如余が下がる。胡遊の生母が使っていた珍絽殿の準備を急ぎ行うのだろう。
「準備が整うまでは――……」
「はいっ! あたしが遊んであげる!」
愛紗は胡遊を真っ直ぐ見て、大きく手を上げた。黎明はまだ朝儀の真っ只中だ。弟が来たからといって放り出すわけにはいなかい。つまり、愛紗の出番である。けっして、如余の言っていた「皇位継承権を剥奪された理由」を知りたいという好奇心からではないのである。
胡遊の頬がピクリと動く。子どもは苦手ななのかもしれない。胡遊から断られそうな雰囲気を感じ、標的を黎明に変える。
きらきらとした目を黎明に向ければ、黎明の手が愛紗の頭を撫でた。
「そうだな。愛紗、胡遊は久しぶりに後宮に来た。色々案内してやってくれ」
「あいっ!」
黎明はこの一国を担う皇帝ではあるが、一人娘の愛紗の「お願い」にはかなわない。
かくして、愛紗は胡遊との時間を手に入れた。
小さな手足を前に出して必死に歩く。生憎、厚い雲が空を覆っており、散歩日和ではないのだが致し方ない。
「あっちは蓮華宮。映貴妃が住んでるの」
びしっと指を差す。ああ、映貴妃が男だと露見すると色々と面倒だろうから、近づかないように言及しておいたほうがいいだろう。
「映貴妃は寝るのが大好きで、邪魔されると鬼みたいに怒るから気をつけたほうがいいのよ。怒ると怖いんだから」
猫を扱う手も乱暴だ。胡遊は蓮華宮を一瞥すると、すぐに真っ直ぐ前を向いた。興味はないらしい。
――と、いうか。さっきから一言も喋らない。
幼子相手に無言を貫く。抱き上げようともしない。
――やっぱり子どもが苦手とか?
黎明の言葉どおり子どもに案内させるとはこれいかに。適当にぶらぶらしながら昔話の一つでも聞こうと思っていたのだ。計画倒れではないか。
愛紗は頬を膨らませる。
「ねえ、胡遊叔父さま。なんか喋って」
「……叔父……?」
「あ、声出した。だって、お父さまの弟でしょ? お父さまの弟は叔父なのよ。知らない?」
「それくらいは知っている。だが、僕を叔父なんて呼べば、周りはいい気がしないだろう。あまり、僕には近づかないほうがいい」
胡遊は愛紗の頭をくしゃりと撫でた。
「なんで? 弟なのにだめなの?」
皇位継承権を剥奪されているとはいえ、彼の身分はこの国では尊いほうにはいるはずだ。愛紗は小首を傾げる。
「それは――……」
胡遊が空を仰ぎ見る。厚い雲が風に流され、暖かな太陽が顔を覗かせた。強い光に愛紗は太陽から顔を背け、目を硬く閉じる。
ようやく散歩にはちょうどいい天気になった。詳しく話を聞くのならば、どこかに腰を下ろしたほうがいいだろう。
愛紗はゆっくりと目を開けた。
――え……? 影が……ない?
目の前は胡遊の足元。しかし、そこにあるはずの影はうっすらともなかったのだ。




