い→なんと言っても
秀聖殿の朝儀の場を出てすぐ、石造りの階段が広がる。愛紗はそこに腰掛けるとぷらぷらと足を揺らした。
側に控える如余は何度も雛典宮へ戻ろうと提案してくるが、それを「や」の一言で断る。
――だって、気になるじゃない。
ふふふと一人で笑う。
如余は奇妙なものでも見たかのように眉を寄せたが、気にもならない。
今朝方見た運命録を思い出し、もう一度ふふふと笑った。
『弟を後宮に迎え入れ、慌ただしい一日を過ごす』
一度は夜中にこっそりと抜けだし、雛典宮に戻ったのだが、運命録を見て慌てて戻ってきたのだ。弟という存在がいたなど黎明から聞いていない。
先帝は兄だというし、黎明は自身のことを何も言わない。愛紗が知っているのは、黎明が愛紗にとって血のつながりのない養父であり、地界の鬼に狙われているということだけだ。
兄弟のことを知っても意味はないかもしれないが気にはなる。それくらい、この後宮という場所は娯楽が少なかった。
「愛紗様、客……とはどういうことでしょうか?」
如余はいまだ首を傾げている。そこから察するに、弟が来ることは伝わっていないようだ。如余が知らないということは、突然の訪問である可能性が高い。
それはそれで面白い。いつも澄ました顔をした黎明や如余が目を丸くしている姿が見られることはなかなかないのだ。
つい、鼻歌を歌ってしまうのは仕方のないこと。
――朝儀の後かな~。それとも昼?
何にせよ、黎明に張り付いていればいずれ会える。幸い、黎明は愛紗を邪険にはしなかった。執務のあいだ隣にいようと、文句の一つも言わないのだ。
それどころか、ときおり頭を撫でにこやかに微笑むほど。
最初こそ如余も顔をしかめていた。しかし、愛紗がいてもいなくても黎明の執務の質に差がないことに気づいたらしい。それどころか、愛紗がいないと休憩のたびに雛典宮にへと向かうことが増えた。
ゆえに、如余は諦めたようだ。
「ね、如余。お父さまの兄弟は何人いるの?」
「また突然でございますね」
「あたしには、必然の流れなのよ」
なにせ今日はずっと黎明の弟のことばかり考えている。黎明が皇帝になってからずっと側にいる彼ならば、兄弟のことくらい知っているだろう。
事前情報は必要だ。
如余は少し困った顔をしたあと、小さくため息を吐いた。
「陛下には七人の兄君と、四人の弟君がおりました。女兄弟は同じくらいでしょうか」
「お兄さまが七人……じゃあ、お父さまは第八皇子だったの! いい数字ね!」
「ええ、縁起のよろしい良い数字ですね。占いのせいであのような辺境の地へと送られてしまいましたが、陛下は素晴らしい才覚のあるお方」
「占い……?」
愛紗は首を傾げた。知らない話だ。黎明からは一度もそんな話は聞いていないのだから。黎明自身、自分のことはあまり語りたがらない節がある。
以前、先帝の妃嬪から聞きかじった程度の情報しかない。
「さる高名な占い師が、生まれたばかりの陛下を見て『この者は天地を統べる才覚のある者。しかし、二十六才の朝は迎えられまい』と」
「……!? 占い師が!? その占い師はなんて名なの!?」
愛紗はつい、大きな声を上げた。二十六才まで生きられないのは、運命録に記されたとおりだ。しかし、それを知ることができるのは仙界の者だけである。
――仙界の人が人間界にいるの!? 聞いてないよ!?
しかも、愛紗よりも前にだ。黎明が生まれたころということは、二十五年前。愛紗が生まれて五年経っているので、二十年の開きがある。仙界で換算すると、二十日ほど早くこの地に来ているということだ。
「名ははて……。私もまだ幼かったものですから。名などよろしいではありませんか。御年六十は超えているような方です。仙人でもなければ、もう天へと昇っているころかと」
如余は空を見上げた。愛紗もその視線を追って空を見上げる。修行の一環か、はたまた天帝の指示なのかはわからない。
――天帝ってば、絶対に楽しんでる!
仙界で一番偉いとはいえ、愛紗は幼いころから天帝に可愛がられていたこともあって、天帝は親戚程度の感覚だった。
昔から、天帝には遊ばれているような気がしていたが、今回で確定だ。修行とかこつけて愛紗で遊んでいるのだろう。
「話を戻しましょうか。その高名な占い師の話を受け、当時の皇帝は皇子を高州へと送ったのです。二十五才とは長いようで短い。競い合う宮廷ではなく、自由にのびのびと暮らせるようにと。尊い方の父心でございましょう」
「でも結局、皇帝になったんでしょ?」
「ええ、十年前に代替わりいたしまして、陛下の兄君が皇位についたのですが……。どうも、野心ある兄弟が多かったようでございます。四年前に毒を盛られてあっけなく。次に白羽の矢が立ったのは、先帝の唯一の皇子だったのですが当時まだ五才。母親の身分は低く、臣下を味方にすることはできなかったようです」
それは以前、先帝の妃から聞いた記憶がある。母親は奴婢の出で後ろ盾がないのだと。
「でも、他にも兄弟はいるんでしょ?」
「他六人の兄君は皇位争いで命を落とし、四人いた弟君も一人を残し、他界されました」
「一人は残っているんでしょ? 二十五才までしか生きられないお父さまよりも、その人のほうがいい気がするけど……」
「一人残った皇子……胡遊様は皇子にして皇子にあらず。生まれたときに、皇位継承権を剥奪されております」
「はくだつ? なんで?」
「それは……百聞は一見にしかず。そのうちお会いできますから」
如余は困ったように笑った。
――なんかある。……でも、今日会えるだろうし。ま、いっか。
「しかし、陛下が皇位をついでくれたおかげで傾きかけていた国も安定しました。ですから、陛下には長生きしていただかなければなりません」
「そうね。あたしもそう思う。お父さまにはお爺さまになるまで生きてもらわないと!」
愛紗の運命は黎明にかかっているといってもいいのだ。
「初めて愛紗様と同じ気持ちになったような気がして嬉しゅうございます。さて、愛紗様、そろそろ弟君や妹君がほしいとは思いませんか?」
「……へ? 弟? 妹?」
「陛下も皇位をついで三年。愛紗様もお寂しいでしょう?」
愛紗は目を数度瞬かせる。如余はにこりと笑った。ただ笑っているようには見えず、愛紗は頬を引きつらせた。
「愛紗様はただ陛下に一言、言っていただければよろしいのです」
「な、なにを?」
「弟か妹が欲しい。と」
――なんか怖いし……!
鬼気迫る顔をしている。如余は黎明のことになると何かと口うるさいのだが、今日はいつも以上だ。愛紗は目を逸らした。
「べ、別にいらないし……」
兄弟ができれば、守ることも大変になる。常に側に置いてもらえる今が一番鬼から黎明を守る環境としては適していた。
唯一の妃である映貴妃とは良好な関係を築けている。それでいいではないか。
「先帝の妃の中に気にいる方がいらっしゃればと思ったのですが……」
如余は大きなため息をこぼす。
「そういえば、なんで先帝の妃を後宮に残してるの?」
「それは陛下の計らいですよ。彼女らの中には貧しい家の出の者も多い。家に戻せば売られてしまうこともあるでしょう」
「じゃあ、守るためにここにいるの?」
「ええ、ここであれば最低限の衣食住は保証されますから。私どもとしては、その中から新しい妃が誕生することも考えたのですが……難しいようですし。ずっとこのままというわけにもいきません」
如余は再び大きなため息を吐き出すと、「どうしたものか」と呟いた。
「今のままじゃ駄目なの?」
鬼は襲ってくるものの、他は平和。これ以上面倒が増えるのはごめんである。
「歴代の皇帝は、二十五才にもなると十や二十の子がいてもおかしくありません」
「へ、へぇ……」
「いいですか? 尊いお方と言えど寿命は人間と変わりないのです。仙のように何千と生き、この地を治めてもらえるわけではないのですよ?」
「な、なるほど……」
人間の生は長くても百年。愛紗が黎明を守り続けても、単純計算で残り七十五年の統治が限界なのだ。
指折り数える。しかし、指は十本しかないし、愛紗にとって黎明の死後など知るところではない。
なにせ愛紗は仙界の者。人間界のことを気にかけられるほど高尚ではない。それよりも、自分の進退のほうが重要だ。黎明が健やかに老いること以外に興味はなかった。
運命とは不思議なものだ。治める者がいないと嘆いていれば、どこからともなく賢者が現われるというもの。国が滅びたとしても新しい統治者が立ち、土地は誰かに支配されるのだ。仙界で気ままに暮す猫族の愛紗が口を出す必要などないだろう。
「ただ、一言兄弟が欲しいと言えばよろしいのです。今の陛下は愛紗様の言葉であれば聞いてくださいましょう」
「えと……」
如余の鬼気迫る顔に愛紗はたじろいだ。鬼よりも鬼らしい顔をしていたのだ。よほどのことなのだろう。
「愛紗様はお姉様になるのですよ? 妹や弟がいたら楽しいとは思いませんか?」
――お姉さま……。
愛紗は末娘だ。兄姉は大勢いるが、下に妹や弟はいない。
――舎弟か。それはそれで悪くない。
三角耳の舎弟は数多くいるが、それとこれは別だ。如余がにこりと笑う。
――はっ……! 流されるところだった!
そのとき、慌ただしい足音が朝儀の場に近づいてくるのだった。
「胡遊殿下がお戻りでございます!」
大きな声が響く。如余の目が皿のように開かれた。