さん→皇帝の正体
十然を仙界へと送り出した日から、二年の月日が経った。仙界ではまだ二日。愛紗は人間界で数えて三歳になっていた。歩くことにも慣れ、世界が少しだけ広がったのだ。
養父である黎明は同じ屋敷に暮しているが、愛紗には一度も会いに来ていない。子どもに興味がないのだろうか。「会いたい」と世話役に頼んだこともあるが、「今は無理だ」と毎度断わられてしまう。
ある晴れた日のこと。世話役たちが慌てて荷造りを始めた。部屋中にある物という物をかき集める様は夜逃げのようである。
それが夜逃げではないことを悟れたのは、この屋敷の者全員が同じように荷造りを始めたからだった。
愛紗がおろおろしているあいだに、大きな馬車へと乗せられ、何日も移動を強いられる。揺れに疲弊したころ、騒がしい街へとたどり着いた。
「ここはどこ?」
「都でございますよ。愛紗様」
「みや……しょれって、こーてーのいりゅところ?」
愛紗を膝の上に乗せている世話役の一人が、肩を揺らして笑う。馬車の揺れと重なり、大きな揺れに感じた。
いまだ呂律が回らない。あと何年したらこのじれったさから解放されるのか。愛紗は指折り数える。あと一年、それとも二年か。先日は早口言葉で修練しようとして舌を噛んだ。以来、早口言葉は禁止となった。
九十九回の転生の中では何年ほどだったのか思いを巡らせる。しかし、人生の中では些細なこと。記憶が多ければ多いほど、覚えていないものだ。
「愛紗様、何をおっしゃいます。その皇帝がお父様なのですよ」
「おとーたま? おとーたまはおやしきのあるじでしょ?」
「本日より、皇帝となられるのです」
「にゃんで?」
「先帝がご崩御されましたから」
「普通、こーてーの家族が次のこーてーでしょ?」
田舎の屋敷に住む黎明が次の皇帝になるなど、おかしな話だ。愛紗の九十九回の転生人生の中では後宮女官になったこともあったが、次の皇帝はその息子だった。
「愛紗様は物知りでございますね。愛紗様のお父君は先帝の弟君にあらせられます」
雷に打たれたような衝撃を受けた。「皇帝には気をつけろ」と十然は言った。会ったこともない男にどう気をつけろと言うのだと楽観視していたのが仇となったのだ。
「あたちを死においやるひとが、守らなきゃいけないしと?」
「愛紗様? どうなされました?」
「ううん、なんでもにゃい。おとーたまはこーてーになったのに、あたちのことはぽいしないの?」
「何をおっしゃいます。陛下にとって愛紗様は唯一のお子。捨てるなどありません。後宮に愛紗様のお部屋をご用意してもらいました」
「こーきゅーか」
後宮は皇帝の生活の場。影から命を守るには悪くない場所だ。愛紗はうんうんと一人頷くと。満足げに笑った。
「落ち着きましたら、陛下もきっと会いに来てくださいますよ」
「いらにゃい。おとーたまはお仕事をゆうしぇんしてねって伝えて」
「……まあ。あんなにお会いしたがっていたではありませんか」
「あたち、もうおとなだもの」
「お忙しい陛下をあんじていらっしゃるのですね」
世話役の優しい笑みに、苦笑を漏らす。あと二年であの男の身に死の危機が訪れる。それまでに会わずして助ける対策を練らなければならない。
全ては十然の手に入れてくる運命録にかかっていた。雲一つない空を見上げて愛紗は思うのだ。
ま、あと二年もあるしなんとかなるか。
十然が一片の木簡を持って現れたのは、その日からちょうど二年後のことである。
「すまんすまん。天宮の警備が思ったよりも厳しくてな? 四日もかかっちまった。いやー、屋敷はもぬけの殻だし、調べてみれば後宮なんかにいるから、驚いた」
カカカと笑う十然を睨む。五歳となった愛紗だが、貫禄がついたわけでもないため、十然はその意図を理解せず、大きな手でぐりぐりと頭を撫でるだけだった。
大きな声で怒鳴ろうと思った愛紗であったが、大きく口を開いた瞬間彼の手によって塞がれる。
「シーッ! まだ朝だぜ? そんな大きな声出したら人が来ちまうよ」
今はまだ日の出前。これから人が起き出し活動する手前だ。愛紗が大声を出せば、愛紗の宮である「雛典宮」に仕える者がわらわらと起き出すだろう。
「……仕方ないわ。で、運命録は?」
「そのことなんだが、まずは謝っとくよ。姫さん、ごめん」
十然は軽い調子で謝ると、懐から一欠片の木片を取り出す。木片には丁寧な字で「政務に追われ一日を終える」と書かれている。
「これって……」
「そ。ご名答。運命録の欠片だ。本当は全部持ってくるつもりだったんだが、警備が厳しくて一片しか隠して持ってこれなかった。これで見ることのできる未来は、日の出から次の日の出までの当日分だけだな」
「つまり……これは、昨日のお父さまの一日?」
政務に追われ一日を終える。実に単純ではあるが、皇帝という身分には相応の一日だ。
運命録は全て木片をつなぎ合わせた木簡でできている。紙を頑なに使わないのは、管理官の趣味だと噂されているが、実際のところは分からない。
「まあ、見てろって」
蝋燭の火にかざし、まじまじと見るも変わらない。しかし、今まで隠れていた日の光が愛紗の顔に影を作ったとき、書かれていた文字が波のように消え、新たな文字が浮き上がる。
「今から出てくるのが、『お父さま』の今日の未来だ」
「あい」
新たな文字は太陽の動きのようにゆっくりと鮮明になっていく。愛紗はその文字をなぞった。
「夜伽の際、寝所にて暗殺」
一つ、二つ、三つ。愛紗は目を瞬かせる。
「暗殺……。ね、十然。暗殺者って、あの暗殺?」
「そうだな。暗殺っていやー、こっそり殺されることだな」
「今夜?」
「この木片だけで見られるのは次の日の出までの一日間の未来だな」
「じゃあ、今夜の夜伽? で殺されちゃうかも?」
「そうなるなぁ~」
十然はまるで他人事だ。事実、他人事なのであろう。カラカラと笑うだけの十然に対し、愛紗は小さな手で頭を抱えた。
「どーしよ」
「助けるしかないんだろ?」
「でも、皇帝に近づいたら殺されちゃうんでしょ?」
「馬鹿だな。お父さまと皇帝は別だろ?」
「同じなのよ。十然がいなくなったあとに、皇帝になったの。だから、あたしもお引っ越ししたのよ」
「つまり、助けた相手が原因で殺されちまう運命ってことか~」
相変わらず、脳天気な笑顔。怒る気すら起きない顔だ。
「ね……夜伽ってことは夜でしょ? 影から助けられるかな?」
「夜伽の場だろ? もし相手が妃だったらどうする? お互いに裸体。姫さんが助けるより前に殺されちまうだろ? しかも、夜伽のときなんて、一番警備が厳重になる。助ける前に侍衛に殺されかねん」
「むむむ……たしかに。かくなる上は……」
愛紗は気づいた。たった一つだけ側で守る方法をだ。
「どうするんだ?」
「あたしが夜伽の相手になるの!」
そして、愛紗は直談判するために部屋を飛び出したのだ。
【一口メモ】
木簡:長方形に切った木片をつなぎ合わせた書簡のこと。竹で作ると竹簡と呼ばれます。紙が発明されたのは、後漢時代だそうですよ。西暦にして100年くらい。