ちぃ→映し出された影
映貴妃の紗紗を撫でる手が止まらない。愛紗は恐怖で身体を縮めながら、黎明に助けを求めた。
しかし、黎明は無情にも「わかった。紗紗を頼む」の一言で背を向けたのだ。黎明は子猫にも冷酷だ。
――映貴妃は恐いけど、二人を引き離したら暗殺の心配はないから大丈夫かな。隙を見て、運命録を確認しにいかなくちゃ……!
「大勢で探し回れば、愛紗も怖がるだろう。これからは二、三人で行動し探してほしい。一人は、桃饅頭を用意してくれ。もしかしたら、腹を空かせた愛紗が匂いにつられて現れるかもしれない」
「みゃあ~」
――そんなに食いしん坊じゃないもん!
抗議の声を出したのだが、黎明は同意ととったようだ。
「紗紗もそう思うか」
「みゃあ!」
「ああ、そうだな」
いつだって、黎明と紗紗の会話は成り立たないのだ。
結局、皇帝一行はほとんど先帝の妃嬪たちの住む宮に滞在することなく背を向ける。
尚心は結局、先帝の妃嬪の監視役として残され、映貴妃は紗紗を連れて蓮華宮に向かった。黎明たちはまだこの広い後宮内を探すようだ。
「陛下は愛紗様に夢中でございますね」
映貴妃の隣を歩く女官が黎明の背を見ながら呟く。その言葉に映貴妃は頷いた。
「そうね。あんなに人間らしく焦っているあいつは見たことがないわ」
「焦って……おいででしたか? 確かに愛紗様のことを心配はなさっておりましたが……」
「昔からわかりにくいのよ。何も感じていないような顔しているでしょう? けれど、終始心が乱れていた。あんな幼い子に振り回されるなんて、滑稽よね」
映貴妃は面白そうに肩を揺らして笑う。彼が笑うたびに作りものの胸に押し上げられて苦しい。愛紗は思わず「みゃあ」と鳴いた。
「ごめんなさいね。あなたの主人を悪く言うつもりはないのよ」
映貴妃は宥めるように紗紗の頭を撫でる。黎明と違って、まるでわかっていない撫で方だ。もっと優しくもっと丁寧に撫でてほしい。
隙ができた瞬間に、ひらりと映貴妃の腕から逃げ出した。
「あっ! ちょっと!」
映貴妃と女官の声が聞こえる。しかし、ここで捕まったら面倒だ。一度逃げようとした猫はもっと厳重な扱いをされるに違いない。
愛紗は足早に茂みの中へと逃げ込んだ。草と草のあいだから顔を出し、映貴妃の様子を窺う。女官と二人で紗紗を探しているようだ。
「どうしましょう。見つかりません」
「逃げたものは仕方ないわ。あれは猫なのだから、そのうち、愛紗様のところに戻るでしょう。私たちは蓮華宮に戻るわよ」
「かしこまりました」
映貴妃は早々と見切りをつけて、蓮華宮へと歩き出した。そういうところは男らしい。
鬼の正体だと思われる映貴妃が蓮華宮へと戻れば、黎明の命はひとまず安心だろう。次に重要になってくるのは、その後いつ狙われるかだ。それを知るためには、運命録を確認する必要があった。
愛紗は雛典宮へと向かおうとしたそのとき、今まで雲の向こう側に隠れていた太陽が顔を出す。
強い光に愛紗は目を細めた。あまりのまぶしさに、愛紗は大きな木の影へと身を潜める。
――熱かったぁ。突然晴れちゃうなんて、予想外だった。でも近くに木陰があってよかった。あれ? 影……!
愛紗はせっかくの影から抜け出し、映貴妃を追う。小さく成り行く背に近づいた。
鬼に取り憑かれた人間には影がない。
――影が……ある!? なんで!? 映貴妃が鬼じゃないの……?
愛紗は雛典宮の方角と、黎明が向かった方角を交互に見る。騒がしくないということは、まだ黎明は襲われていないということだ。しかし、映貴妃が鬼じゃないということは、まだ鬼が側にいる可能性がある。
――一回、戻ろう。まずは運命録を確認しなくちゃ!
運命録は次の危機を知らせてくれる。闇雲に守るよりも確実だ。愛紗は小さな身体で一所懸命に走る。
雛典宮の門の前では一人寂しく膝をつく十然が待っていた。いまだ愛紗が見つかっていないため、反省中なのだ。誰も見ていないからと言って、動き回れば皇帝の命に背いたことになる。
「姫さ~ん。あと何刻でもとに戻るわけ~?」
「みゃあ!」
「……ああ、猫に聞いた俺が馬鹿だった。いくら鍛えぬかれた仙でもね、膝をついているのは疲れるわけ。これ、姫さんのせいだから。わかってる?」
「みゃっ!」
謝罪と、昼には戻ると伝えたかったが、言葉は出てこない。ブツブツとお小言を始めた十然を横切り、愛紗は自分の部屋へと戻った。
布団の下へと潜り込む。黎明に見つからないようにと、十然に隠してもらった場所だ。子猫にとっては少し重さを感じる布団。口でくわえてどうにか引っ張り出した。
「みゃ……!」
『政務を滞りなく終わらせ一日を終える』
――どういうこと? 暗殺は今日はおしまいってこと?
今日は二度、黎明に殺気を向けられていた。あの二回で鬼は諦めてしまったのか。それとも。
――もしかして、太陽が出ているとうまく動けないとか?
厚い雲は風に流され、青が広がっていた。今朝のどんよりとした空気が嘘のようだ。
人間の皮を被った鬼が黎明の側にいたとしても、晴れているうちは問題ないのかもしれない。証拠に、運命録は安全を示している。この様子だと、今夜も襲われる心配はないのだろう。
――と、なると今日のお仕事はおしまいかぁ~。
愛紗は大きく伸びをする。あとは何食わぬ顔で黎明の前に現れるだけだ。
――そういえば、桃饅頭を用意するって言っていたっけ。安心したらお腹が空いてきた。
子猫の腹が小さく鳴く。善は急げと愛紗はまっすぐ執務室がある秀聖殿へと向かった。




