すぅ→蓮花宮大騒動
蓮華宮の女官たちは手慣れたもので、黎明の姿を見るやいなや、何事もないように頭を下げる。
「愛紗は来ているか?」
「陛下、映貴妃は今――……え? 愛紗、様ですか?」
今回の黎明の質問は想定外だったのか、女官は素っ頓狂な声をあげた。その声に黎明はただ、頷く。
「みゃあ!」
聡明な皇帝なら、女官の様子からここに愛紗は来ていないことくらいわかるではないか。子猫の姿で訴える。しかし、彼は優しく背を撫で、子猫を落ち着かせようとするばかりだ。
「念のため、映貴妃に直接確かめよう。この前のようなことがあるかもしれない」
この前とはなんのことだろうか。愛紗は首を傾げる。側に控える如余も同じことを思ったのか、一緒に首を傾げた。
「陛下、この前とは?」
「ああ、映貴妃を呼んだ日、あの子は私の部屋の木箱に隠れていたんだ」
「木箱でございますか。なんと、猫のような」
「寝所は侍衛が守っている。その者たちも愛紗の姿は見ていなかった」
「職務怠慢で罰しましょうか」
如余の言葉に愛紗はびくりと小さな身体を跳ねさせた。まさか、自分の行為が他人の迷惑になってしまうとは考えなかったからだ。
「みゃ、みゃあ~」
「大丈夫、彼らを責めはしない」
紗紗の訴えがわかったのか、黎明は目を細めて答えた。
「よろしいので?」
「ああ、あの子は猫のように神出鬼没だ。子どもが入れるような小さな抜け道を探し出すように命じておいた」
「では、本日より人も増やしましょう」
「ああ、任せた」
自身のせいで三人の侍衛が罰せられることはないようで、愛紗はほっと胸をなで下ろした。しかし、彼らには埋めるべき抜け道が必要だ。後でこっそり小さな抜け穴を明けておこうと愛紗は決意したのだ。
「映貴妃はもう起きているだろう?」
「もちろんでございます」
「案内してくれ」
ほっとしたのもつかの間。黎明の言葉に青ざめる。今、映貴妃――もとい、彼の中にいる鬼は黎明が現れるのを今か今かと待ちわびているに違いない。
猫の姿でどう守るか、それが問題だった。得意の仙術は猫のあいだ使えない。持っているのは少し伸びた爪と、人よりは鋭利そうな歯だけ。
人間界の猫が太刀打ちできるのならば、「夜鬼伝」などという本が世に出ることはないだろう。
何も知らない黎明など呑気なもので、子猫を撫でながら女官の後ろをついて歩く。
――普通の人間は、今日死ぬかも。なんて思わないもんね。私がどうにか守らないと……!
愛紗にとって、黎明は運命共同体のようなものだ。彼が若くして亡くなれば、愛紗の栄えある未来は絶たれる。
蓮華宮の女官が案内した場所は、以前愛紗を通した場所と同じ部屋だった。心なしか薄暗いのは外が雲っているせいか。薄気味悪い雰囲気を漂わせている。
黎明の側には如余が離れずについているし、尚心や他の太監も数人控えていた。
最初の一撃さえ愛紗が守れば、黎明を守ることのできる者はたくさんいる。だから、最初が肝心だ。
「映貴妃はまだか?」
「申し訳ございません。少し準備に手間取っておりまして……」
女官は黎明の威圧感に縮こまる。冷酷で残忍だという噂を知っている者がこの様子を見れば、誰だって恐怖するだろう。
「陛下、もしかしたら愛紗様とかくれんぼでもなさっているのかもしれません」
尚心が凍てついた空気を壊すように茶目っ気たっぷりに笑って見せた。しかし、今の黎明には逆効果だったようだ。黎明は眉間に皺をつくると立ち上がる。椅子に紗紗を残すと、部屋を出て行ってしまった。
「陛下っ!?」
「陛下、お待ちくださいっ! ……尚心!」
「申し訳ございません、口が滑ってしまって」
「そんなことより陛下を追いかけますよ」
早歩きで先を急ぐ黎明と、小声で言い争いを繰り返す如余と尚心、それを慌てて追いかける女官。
愛紗はその一団を慌てて追いかけた。いくら子猫の身体が人間の幼子よりも軽やかとはいえ、限界がある。黎明は早歩きだし、廊下は狭い。女官や太監の足が邪魔ですり抜けることができなかった。
踏まれたら一大事だ。
そうしているあいだにも、先頭の黎明が映貴妃の寝所の前に到着してしまう。扉を開ければそこには映貴妃の皮を被った鬼がいるのだろう。
扉の向こう側では小さな会話が聞こえる。映貴妃と女官だろうか。しかし、内容まではわからなかった。
「映貴妃、いるんだろう?」
黎明の声に、中の声がピタリと止まる。
「黎明、ここまで来たの? ちょっと待って。今開けさせるわ」
映貴妃の呑気にも聞こえる声が扉の向こう側から聞こえた。そのときだ。
――殺気っ!?
列の一番後ろにいた愛紗は飛び上がった。黎明を止めるためにひざまずいた女官の肩を踏み台にし、そのまま如余の頭に飛び移る。黎明の前に出るために、彼のすぐ後ろに控えていた尚心の顔を蹴り上げて。
「ぎゃっ!」
「尚心っ!?」
背後で聞こえる如余と尚心の叫び声など気にせず、黎明の横をすり抜ける。扉が大きく開き、映貴妃が顔を出した。
「黎明ったら、何あわて――……ぐっ」
愛紗は小さな身体をこれでもかと言うほど広げて映貴妃の顔に飛びつく。視界さえ奪ってしまえば大丈夫だろう。
映貴妃は顔に子猫の体当たりを受け、小さく呻いたと同時に、後ろに倒れ込んだ。




