い→暗殺者がやるしか命を狙わないとは限らない
目が覚めると、いつもと変わらない光景が視界に入り、安堵ゆえのあくびをする。
最近見慣れた寝台を覆う紗。淡い春の色で染められたそれは、愛紗の部屋のものではない。
「愛紗」
目覚めたばかりのときは、いつも掠れる低い声。視界で黒の艶やかな髪が揺れて、思わずつかんだ。
「あ」
つい、うっかりつかんでしまった髪をまじまじと見る。絹のように艶やかな髪を巡っていけば、わずかに眉を寄せる黎明の顔があった。少し乱れた髪と襟元が、寝起きを物語っている。
黎明はけっして朝に弱いわけではないのだが、かといって強くもなさそうだ。起きなければならないから起きる。そのような意志の強さを感じるのだ。逆をいえば、起きなくても良ければもう少しまどろんでいそうな雰囲気を漂わせている。
「愛紗、少し痛い。離してくれないか」
「お父さま、おはようございます」
だんだんと覚醒した頭で思い出す。昨日は、休日にもかかわらず、黎明とともに寝たのだと。
いつもなら夜明け前には殺気で起こされていた。運命録はしっかりと仕事をしているらしく、暗殺者は本当に現れなかったのだ。
――鬼は本当におやすみかぁ~。
万が一という可能性も考えていたのだが、鬼も運命録には忠実らしい。
「愛紗、なぜここにいる?」
「……いちゃ、だめでした?」
「いや、そうではない。いつも紗紗を身代わりにして帰るだろう?」
「あー……。紗紗は今日はお休みなので」
正確には、暗殺者が休みなので仙術を使う必要がなかっただけなのだが、そんなこと言えるわけもない。黎明は静かに考える素振りを見せた。
「もしかして、紗紗のほうがよかったですか?」
「まさか。愛紗が朝までいてくれて嬉しいよ」
黎明は優しく微笑み、愛紗の乱れた髪を優しく撫でる。この柔和な笑みは危険だと教えたほうが良いだろうか。愛紗は優しい手を堪能しながら考えるばかりだ。
あのように甘い笑みを知れば、国中の女が列を成して皇帝の寵を欲するのではなかろうか。そのくらい蠱惑的なのだ。
彼は冷徹帝のままがいいと、愛紗は思った。危険が増えるのは大問題だし、映貴妃のように男ではなく、本物の寵妃が現れれば愛紗がいくら願っても「夜伽」はしてもらえないだろう。護衛するのが難しくなる。
「迷ってはいけない。私はこれから朝儀だから連れて行ってやれないから誰かに案内を頼もう」
「いつも一人なので、大丈夫です」
「そうか?」
「あい。お父さまはお仕事頑張ってください」
にこっと笑えば、黎明はそれ以上何も言わなかった。何か合図があったのか、女官がぞろぞろと入ってくる。気づけばぱぱっと準備を終えられてしまった。
黎明とともに寝所を出ると、彼は如余とともに朝儀のため秀聖殿へ。愛紗は雛典宮へと向かう。
すでに灯火の消えた提灯が風に揺れる。
今日は久しぶりに厚い雲が太陽の光をさまたげ、夕刻のように薄暗かった。
――今日は日なたぼっこには向いてないな。
影を作る余裕すら与えない厚い雲。こんな日は部屋の中でゴロゴロするのが一番だ。
愛紗は朝餉のことを考えながら、小さな足でまっすぐ歩いた。
いつもなら身体中を撫で回され、羞恥に震えているのだが、今日はそんなことはない。人間の幼い子であるとき、黎明は頭しか撫でないからだ。
悶々とすることもなくまっすぐ来た道を戻るだけ。子猫のときよりも遅くはなったが、愛紗は迷うことなく雛典宮へと戻ってきた。
門の前にはいつものように十然が立っていて、ニヤニヤとした笑みを見せる。
「姫さん、今日はゆっくりできたみたいだな?」
「あい」
癖のように彼は愛紗を抱き上げる。寝所から雛典宮まで運動をしてきたようなものだ。愛紗はそれを受け入れた。
自室に戻ると、すぐに木箱を引っ張り出す。――運命録を確認するためだ。日が昇れば、今日の事柄が示される。
さすがに二日連続で暗殺者が休みということはないだろう。
愛紗はいつもの言葉を予想して、運命録の文字をなぞる。
「朝儀の席にて襲撃される」
いつもと違う言葉に愛紗は目を瞬かせた。隣から覗く十然も同じだ。そして、二人は顔を見合わせる。
「十然っ!」
愛紗が声を上げると同時に、十然は愛紗を抱き上げる。そして、走り出した。




