さん→子猫の名
「お父さま、こんばんは」
「ああ、桃饅頭はうまかったか?」
「あい」
皇帝の命令で作ったからか、いつもよりも気合いが感じられた。頬が落ちるほどうまかったのは事実。思い出しただけで、口の中に桃饅頭の甘さが広がるようだ。
「なら、明日も作らせよう」
「明日はだめです」
「なぜだ?」
「毎日食べたら桃饅頭のようにふくふくしてきて、誰も抱っこできなくなるって、十然が言っていました」
「そのときは私が抱き上げよう」
黎明は愛紗を軽々と抱き上げると、まっすぐ寝台へと向かった。太監は深く頭を下げ、そのまま寝所を去って行く。太監が去ってしまえば、明日の朝までこの部屋に入ってくるものはいない。
「子どもは少し肉をつけたほうがかわいい」
「でも、だめです!」
「そうか、では桃饅頭はときどきにしよう」
「あい」
今日、暗殺者はこない日だ。朝まで眠れることがどんなに嬉しいことか。一人で寝台を占領できないのは残念ではあるが、愛紗の寝台よりも黎明の物のほうが質が良いと感じる。なので、隣に人のぬくもりのある質の良い寝台と、ごろごろ自由に転がることのできる普通の寝台。愛紗にとってはどっちもどっちなのだ。
「今日もお手玉の練習をするか?」
黎明は二言目には「お手玉」の提案をする。彼にとって愛紗との夜伽がお手玉だと思っているのか、それとも幼子との交流方法をはかりかねているのかはわからない。
皇帝の命によって新しく作られたお手玉がついと差し出された。最初に愛紗が用意したお手玉は炒り豆の刑に処せられたので。あれは尊い犠牲だった。
「いいえ、今日は、これ」
愛紗は抱えていた本を黎明の目の前についと出して見せた。画数の多い字が並ぶ本を見て、黎明は眉をひそめる。
「どこからそのような難しい本を」
「資料館の人に聞いたら借りていいっていうから、一番かっこいいのを選びました」
「愛紗には少し恐いかもしれない」
「大丈夫です」
「……わかった。恐くなったら、言いなさい」
「あい」
黎明は小さなため息を漏らしたあと、愛紗を膝に抱え本を開いた。この本はというと、『夜鬼伝』というもので、地界の鬼が人間界で悪さをする話らしい。
愛紗の鬼に関する知識は少ない。これを読めば知識が深まり、そして、黎明も鬼を意識するのではないかと思った。愛紗が守るだけではなく、彼がほんのわずかでも自衛の意識が芽生えれば、少しは楽ができるというもの。
つまり、よこしまな考えからだ。
黎明はゆっくりとした調子で本を読み始める。穏やかな声とは裏腹に、内容は生々しいもので、突然現れた鬼が人々を恐怖に陥れるものだった。
鬼が人のはらわたを取り出したくだりなど耳を塞いでしまったほどだ。
「もうやめにしよう。これ以上は眠れなくなる」
「大丈夫なのに……」
黎明は三割も読まずに本を閉じた。まだいつも眠る時間よりも早い。愛紗は頬を膨らませ続きをねだったが、彼は頭を縦には振らなかった。
「夜明け前に一人で帰れなくなるだろう?」
「よあけまえ?」
愛紗は首を傾げる。暗がりの中、一人で歩いたことなどない。
「いつも子猫を残して帰っているだろう?」
「……あ!」
大きな声が寝所に響く。そうだった。愛紗からしてみれば、黎明を仕事へと送り出してから帰っているのだが、彼の前にいるのは毎回子猫。
夜伽に誘っておいて、一人で帰るとは! と説教をされるのではないか。いや、ここで殺される可能性だってあり得るのだと、身を縮めた。しかし、黎明は笑うばかりである。
「別に怒るつもりはない。好きにしなさい。だが……」
「だ。だが……?」
「子猫の名を教えてほしい」
「へ? な、まえ?」
「ああ。毎朝一緒にいるのに、名を呼べなくて困っていたんだ」
黎明がわかりやすく眉尻を下げた。あの冷徹帝が眉尻を下げたのだ。愛紗はあんぐりと口を開ける。黎明の表情は、木に彫られた人形のようにほとんど動かないことが多い。
口角が上がったなどと言っても、ほんの少しだ。視力が悪い者なら、五歩下がった瞬間に見えなくなる程度だ。今日は昼から表情が柔らかい気はしていたのだが、勘違いではなかった。
「それで、名はなんと申す?」
「え、っと……。あいしゃ」
「それは、愛紗の名だろう? 私が知りたいのは子猫の名だ」
「あー……うーん」
子猫は愛紗なのだから、間違いはない。しかし、それが黎明に通じるわけもなく愛紗は
小さな手で頭を抱えた。名前などすぐにつけられるわけがない。しかも、子猫のときに呼ばれる名だ。
「もしかして、名をつけていないのか?」
「あい」
「愛紗の猫だろう? つけてあげないとかわいそうだ」
「かわいそうですか?」
「ああ、愛紗だって親から名をもらった。もしも、名をもらえなかったら悲しいだろう?」
もしも、名をもらえなかったら。そんなこと考えたこともなかった。愛紗は想像する。名がないという状態がどういうことか。
「悲しいです」
「それは猫だって同じだ」
「なら、今回はお父さまがつけてください」
「愛紗の猫だろう?」
「あたしはしゅーきょー上の理由でちょっと」
自分で自分の名前をつけて呼ぶというのは少し恥ずかしい。これから黎明との会話で名を呼ばれるたびにいたたまれない気持ちになるだろう。
黎明は不思議そうに首を傾げたが、それ以上のことは問わなかった。
「……わかった。では、愛紗の名から一字とって、紗紗にしよう」
「紗紗。あい。そうします」
愛紗は黎明のつけた名を数度唱える。忘れてはならない名だ。数日で後宮内に伝わるだろう。白い靴を履いた黒猫は、皇帝陛下が直々に名をつけた猫だと。
明日の朝には紗紗に会いに先帝の妃嬪が押し寄せてくるのではないかと気が気ではない。
黎明は愛紗の気持ちなどわかるわけもなく寝台へと向かった。
「さあ、寝よう」
「やっぱ、まだ眠くないです。鬼のお話、まだ聞きたい」
猫の名前のせいで目はすっかりさえてしまっている。眠れる気がしないのだ。
「我慢しなさい」
黎明はとびきり優しい笑みを見せ、宥めるように愛紗の頭を撫でる。彼の手は神の手にも等しい。一撫でするだけで心は穏やかになり、つい頷いてしまうほどだ。
「どうしても続きが気になるなら、続きは明日読もう」
「……ほんと?」
「ああ、私は皇帝だ。民を導き手本とならねばならない者が嘘を言うと思うか?」
「じゃあ、明日でいいです」
黎明に促される前に、愛紗は布団の中に潜り込む。黎明の腕の中、小さく丸まって寝るのが愛紗の常だからだ。
黎明は目を細め笑うと、愛紗の隣に滑り込む。
「お父さまは鬼にあったことがありますか?」
「いや、ないな。あれはおとぎ話のようなものだ。鬼が出るから夜は出歩いてはいけない。そう親が子に教えるための話にすぎない。本当はいない」
毎晩襲われているというのに、呑気な回答だと愛紗は思った。「本当にいると思う」と唇をとがらせると黎明は宥めるように愛紗の頭を撫でる。
愛紗は思うのだ。黎明の手は八千年生きて一番穏やかな気持ちになれると。猫族ゆえ、撫で方には少々厳しい。強すぎても弱すぎてもだめなのだが、黎明はその力加減が絶妙だった。
「安心しなさい。もし本当にいたとして、鬼は人の世では生きていけない。暗闇から現れたのちにたちまち消えてしまうものだ」
「でも、鬼は人を食べちゃうんでしょ?」
「鬼は人に取り憑いて行動する。だが、鬼が取り憑いた人間は簡単に見分けることができるからね」
「どうやって見分けますか?」
「影だよ。影がなくなる」
「かげ」
影とはずばり、影か。いつも足下について回ってくるおませな奴のことだ。愛紗くらいになると、八千年も一緒にいるまぶだちみたいな感覚だった。
「安心しなさい。影のない者を見つけたら、私が捕えよう。さあ、そろそろ寝なさい」
「……あい」
毎夜襲われているとも知らず、黎明は愛紗を撫でながら眠りにつく。疲れているのか、健やかな寝息がすぐに聞こえてきた。
起きているときとは違い、寝顔は幼く見える。なぜ、彼は鬼に愛されるのか。愛紗は首を傾げた。
たしかに彼の撫では最高だ。しかし、鬼がそれを望んでいるわけがない。
愛紗は考えながら、くわっと大きなあくびをする。真夜中に考えることではない。折角日の出までゆっくりできるのだから、早く眠らなくては。
幕間そのに おしまい
 





 
