ある→もれ出る愛が重すぎて
愛紗は困惑した。黎明の顔が絶望に染まったためだ。
ほんの少し前、愛紗は強い視線を感じ、目を覚ました。命が狙われていると思ったのだ。しかし、目を開けてみると、そこには養父――黎明の姿があった。
伸ばされた手はピタリと止まり、瞳は驚きに満ちている。
愛紗は慌てた。身を守る体制に入ろうとしたのだ。五歳の幼子のすることではない。離れて様子を見る如余には目を覚ましただけのように見えたかもしれないが、黎明には不振に思われたに違いない。
慌てて、目を擦り誤魔化した。
なぜいるのかと問えば、「夜伽の確認」だという。今日、運命録は平和を示している。愛紗の出番はない。そんな日こそ映貴妃に時間を譲りたいところだ。
だから、「今日はいいです」と、答えた。まさしく、優しさからだ。
黎明としては朗報であるはずだ。幼子の相手をせず、仕事に集中できる。なぜ、そのように悲しい顔をするのかわからなかった。
「えっと……」
なぜだろうか。部屋の隅にいる如余からもとがめるような視線を受ける。何か間違いを犯しただろうか。無言のままの二人を交互に見ながら、愛紗おろおろとするばかり。
「愛紗様、今夜はお寒くなるかと」
如余の言葉に愛紗は首を傾げる。最近は春の陽気が増し、温石も必要ないほどだ。昼ほどではないにせよ、扉をきちんと閉めていれば問題ない。……の、だが、遠くから如余の圧力を感じる。
いまだ黎明は言葉を発さず、ただ愛紗を見下ろしていた。何を考えているのかわからない。
「暖かくなってきた今時期は気が緩み、危のうございますよ。風邪をめされては大変です。陛下とご一緒であれば安心でしょう」
「あ、あい」
如余の言葉に愛紗は頷くしかなかった。断るなど絶対に許さない。そんな強さを言葉のはしばしに感じたからだ。愛紗は仙人だ。空を飛ぶこともできれば、空気を読むことだってたやすい。
今は頷くときだと、第六感が訴えていた。
小さな手で黎明の袖をつかむ。皺一つない衣がくしゃりと歪んだ。
「今日も、お父さまと一緒に寝てもいいですか?」
「ああ、もちろん」
黎明が目を細めて愛紗を見下ろした。わずかに微笑んで見える。嬉しさがにじみ出るような、そんな笑みだ。
大きな手が愛紗の頭を二度、三度と撫でる。慈しむような手つき。子猫のときを思い出すには充分だった。今、猫であればゴロゴロと喉を鳴らしていたに違いない。
「愛紗、腹が減っただろう? 桃饅頭を持ってきた」
「桃饅頭!」
愛紗は桃饅頭が大好きだ。人間界の桃饅頭は仙界の物にも勝る。朝、昼、晩と毎食桃饅頭でも良いくらいなのだが、毎日は出してもらえない。
理由は食べ過ぎてしまうからだと十然に言われた。皇帝陛下のただ一人の公主たるもの、ふくふくと太ってはいけないらしいのだ。
はじめは文句こそ言っていたが、十然に「重くなったら運べない」と言われたせいで、我慢している。
如余の手によって、愛紗と黎明の前に桃饅頭が置かれる。山のように積まれたそれは、子どもが一人で食べる量ではない。
黎明から期待の眼差しを受け、愛紗の手は桃饅頭の前でぴたりと止まる。昼を食べたばかりではないか。
「あ、あとで食べます」
「腹は減っていないのか?」
「さっき食べたので……」
黎明の目が明らかに哀愁を帯びる。例えば、彼に犬のような耳があったのならば、しっかりと垂れ下がっていただろう。愛紗はこれはまずいと、慌てて桃饅頭を両手に持った。
「今はお腹いっぱいだけど、桃饅頭は好きだから、あとでいただきます!」
精一杯の笑顔を見せれば、黎明は「そうか」と一言口にし、愛紗の頭を撫でた。
黎明は満足したのか、そのあとすぐに部屋を出て行ってしまう。如余と、大勢の太監たちを引き連れて帰っていく姿を見送ると、愛紗は大きなため息を吐き出した。
「さすがの貫禄……。愛紗様、陛下は素敵でしたわね」
「まさか雛典宮までいらっしゃるとは思いませんでしたわ。これからはいつ来ても良いようにしておきましょう」
女官たちは頷きあっている。こんなことが何度も起ってもらっては困るのだが、愛紗は「ない」とは言い切れなかった。
「お父さまに桃饅頭をたくさんもらったの。みんなで食べて」
「まあ。愛紗様のためのものではありませんか」
「あんなにいっぱい食べたら、十然に怒られちゃうもん。あたしは一つでいいの」
愛紗はもう一度大きなため息を吐き出して、桃饅頭の山を見た。今日、暗殺者は休み。だから、愛紗も休みのはずだった。
――あたし、何かしたっけ?
何もしていない。ただ、ともに寝たいと駄々をこね、黎明の仕事の邪魔をしているだけ。愛紗の本当の使命を黎明が知るよしもない。なのに、気に入られているような気がする。
愛紗は小さな手で頭を抱えた。
五日目ともなると、慣れてくるものだ。夜伽の際、寝所を管理する尚心が妃嬪を迎えに来るのだが、太監の姿を見て愛紗は首を傾げた。
「あれ? 尚心は?」
あまり見ない太監が、腰を曲げ、愛紗に目線を近づけた。
「本日は風邪でお休みですので、私が迎えに参りました」
「風邪……心配ね」
如余が、暖かくなった春こそ油断すると風邪を引くと言っていた。人間の身体はもろいので、少しの油断で風邪を引くのだ。この身体で初めて風邪を引いたとき、感じたことのない息苦しさに、天の罰を受けているのかと思った。以来、今後絶対に風邪は引かないと心に決めている。
尚心は油断をしたのだろう。
愛紗は大きな本を抱える。それを見つけた太監が首を傾げた。
「その本はどうしたので?」
「お父さまに読んでもらうのよ」
黎明に「帰れ」と言われないように、愛紗はこの数日手を替え品を替え彼の気を引いてきた。しかし、ネタ切れだ。お手玉は幼子にしてはうまくなった。囲碁を打ったこともあったが、あまり面白くなかった。
本を読んでもらうなら時間も潰せるし、いいだろうと思ったのだ。
仙界と人間界の言葉は良く似ている。だから、読めないこともないのだが、暇潰しのためにもまだ字はわからないことにする。五歳でさらさらと字が読めたら、神童だと担ぎ上げられるかもしれない。それはとても面倒だからだ。
太監と慣れた道のりを歩く。景色は相変わらず壮観だ。赤に塗られ、金の模様が入る提灯。どこか別の世界にでも連れて行かれそうなまやかしがかけられていると思うのだ。
妃はこれをぼんやりと見ながら、気がついたら皇帝の褥にいるのだろう。
「なんで毎回提灯でキラキラさせるの?」
尚心は「規則」だと言っていた。では、他の人も同じ答えをするだろうか。興味が湧いた。
「そうでございますね。滝玖国ができたころまで遡らなければなりません」
太監は愛紗の歩に合わせゆっくり歩いた。そして、ゆっくりと昔話を始める。
「と、いうわけでして、後宮内で御輿に乗ることができるのは皇帝陛下とその正妻である皇后陛下、陛下の母君であらせられる皇太后陛下のみとなっております。ですが、初代皇帝は皇后ではなく一介の妃でしかない女性を愛されました。宮から寝所はそれはそれは遠く、後宮内といえど夜道は暗い。陛下が迎えに行くことなどできません。ですから、代わりにと毎日提灯で愛する方の行く先を照らしたのでございます」
「へー」
この提灯は愛のなせる業だったということか。愛紗は感嘆の声を上げるとともに、提灯を見上げた。
「以来、紆余曲折を経て、習わしとなったのです。提灯の数は陛下の思いやりの大きさ。ここは陛下の寵愛を競う場所でございますから、宮が遠ければ遠いほどいいなどという時代もあったほどです」
「尚心は何も教えてくれなかったよ。ありがとう」
「いえ、尚心はまだ新参者。知らなくてもおかしくはございませんから」
太監はにこやかに笑う。黎明はこの話を知っているだろうか。今度聞いてみようと、愛紗は心に決めたのだ。何でも知っている黎明だが、後宮に入ったのは同じだけの年月だ。知らない可能性もある。「物知りだな」と言って頭を撫でる彼を想像し、愛紗は目を細めた。
寝所まで連れて行かれると、黎明はすでに寝所で待っていた。愛紗の顔を見て、ふわりと笑ったのは気のせいか。愛紗は漏れ出る愛に戸惑いを隠せない。
太監など、黎明の笑顔を見て身を固めているではないか。
――そんな顔、しちゃ駄目だったんじゃないかな。……多分。
皇帝ともなれば、威厳だなんだと色々あるだろう。愛紗には砂糖菓子のように甘いが、『冷徹帝』と呼ばれているのだ。甘いだけの男がそのような呼称で呼ばれるはずがない。




