月に愚痴ったら
その日のあたしは上機嫌だった。
仕事もいい感じに進んだし、割合難しいバグも解消できた。
本当はもっともっと新しいことをしてみたいけれど、派遣の身分では任せてもらえない。
それでも、自分では満足度200%の日だった。
行きつけの店で一杯ひっかけたいところだけど、週の半ばだし、そもそも引っ越してきたばかりで馴染みの店はまだない。
というか、8時になったらほとんどの店が閉まっちゃうので、飲むなら職場の近くになるんだけれど、そうすると飲んだあと帰らなくちゃならない。
それは面倒なのよね。
ということで、引っ越してきてからのあたしのご褒美は宅飲み。
唯一ある駅前のコンビニでお気に入りの缶ビールとつまみを買って、家への道をぶらぶら歩く。
住宅地だからだろうけど、まだ早い時間なのに意外と人、いないんだよね。
物騒と言えばそうだけど、逆にうろついてる奴がいれば基本的には要注意人物な訳で。
今まで一度もそんなことはなかった。
だから、この日のあたしも油断してたんだと思う。
ふと顔を上げると、空には満月がかかっていた。
昔はムーンパワーをもらって云々、なんてアニメに憧れて、夜中になるとこっそり窓を開けてお月様にお祈りしたもんだった。
え?
痛いよ。今考えたらなんて痛いガキだったんだろうなーって思うけど、その頃は真面目に本気でそう思ってたもんね。
ある時いきなり力に目覚めて、どこかから迎えがくるなんて話、散々読んでたしね。
でも、そんなことはありえないんだって、今のあたしにはわかってる。
だから月に願い事なんてしない。
満月を見たところで、今日は十五夜か、十六夜かなんて考える程度。まあ、ロマンも何もありゃしないんだけど、仕方ないよね?
あたしたちは現実に生きてて、二次元の中にはいないんだもの。どう頑張ってもアニメのヒロインにはなれないのよね。
いつか王子様が、なんて、嘘。
誰かがどこかでちゃんと見てる、なんて嘘。
誰もあたしなんか見てやしない。
おじさんたちもほうっといてくれたらいいのに。
盆暮れ正月だけは実家には寄り付かないことにしてる。
おじさんたちは言いたくてしょうがないのだ。
このままだと村上の家はお前の代で途絶えるなあ、なんて。
兄貴がいるじゃん。
姉貴もいるじゃん。
なんであたしに言うんだよ。
そもそも家を継ぐのは兄貴だし、あたしは嫁に行く方だよね?
……そう怒鳴り散らしてやりたい。
おじさんたちが悪気があって言ってるわけじゃないから、グッとこらえてる。
おじさんたちは、良くも悪くも田舎の人だ。
女は結婚したら仕事なんてやめて、家に入って子供を産むのが当たり前。
女がスポーツカー乗るなんて生意気だ。
そんなの常識じゃないか。
いつの時代の常識だよって言いたい。
そんなこんなだから、実家には寄り付かなくなった。
故郷から遠く離れたくて都会に来た。
とはいえ、住む場所は都会とは言い難いけれど。
ぼうっと月を眺めながら、思いついてバス停のベンチに腰掛けた。
夏というほど暑くはないけど、夜外にいて寒いほどでもない。
これなら月見酒といけそうじゃない?
ぶしっと缶ビールを開ける。
本当は公園がよかったんだけど、まあいいや。
ここでも月がよく見えるから。
「満月にかんぱーい」
なんて一人で月に乾杯して一口飲んだ。
つまみのあたりめを引っ張り出しながら、どこかにいい男、転がってないかなー、なんてつぶやく。
でも、いい男ってどういうのをいうんだろうね。
長らく彼氏のいない身としては、どういう評価をするもんなのかわからない。
……嘘、見栄張りました。
付き合ったこと、ないんだよねえ。
んー、出会いがなかったわけじゃないよ?
一応ほら、学生時代は共学だったし、一応理系クラスにいたから、周りは男子ばかりでさ。
でも、大抵文系の可愛い子が男って好きだよねーって話。
おしゃれもろくにしない芋女はお呼びじゃなかったらしい。
あ、理系の他の子は結構モテたらしいよ。
あは、モテなかったのあたしだけか。
まあ、いいよ。並以下の容姿だって知ってるしさ。
姉貴も兄貴もイイ線なんだけど、ねえ。……ま、しょうがない。兄貴や姉貴にはなれないって結構小さいときに悟ってるからさ。それはもう気にしてない。
……嘘。気にしてないわけないじゃん。
上の二人は頭も顔も良くておまけに気立ても良いときたらさあ。オマケのあたしとしてはもう、沈黙するしかないわけ。
ああ、だからなのかなあ。どうもイケメンとか興味なくてさ。
見慣れちゃってるんだよね。近くにいると食傷気味っていうか。
むしろ、いい人に興味があるっていうか。
職場で探せって?
いるわけないじゃん。あたしを見てくれる人なんかさあ。
職場はたしかに男性比率高いよ。でも可愛い女の子が多いんだよね。
あたしなんか見向きもされないって。
そりゃ、優しい人はいるよ?
でもね、勘違いとかして痛い目見るのは嫌なんだよ。
もしかしたら彼女さんいるかもしれないじゃない。
そんな話するような仲じゃないし、狙ってる子多いのも知ってるから、聞くこともできないし。
……そりゃあ、怖いよ。
いい歳してバカみたいだろうけど、断られたりしたら、次の日からどうすりゃいいんだよ。
仕事辞めるしかないじゃん。
まだ入って浅いから、やめてもすぐ次が決まるかわかんないし……。
馬鹿話できなくなるくらいなら、諦めるよ。
え?
斎藤さん彼女いない?
……あんた、なんでそんなこと知ってんのよ。
というか、さっきから返事してるの、誰?
横を向くとぼんやり見える顔はまさに話題の人の顔で、なんでこんなところにいるんだろうと首をかしげる。
この近くの人だったんだ、知らなかったなーと思ってたら、目を塞がれた。
なにすんのよ、と抗議しようとしたら口も塞がれた。
なんか柔らかい……これっていわゆる、ファーストキス……!
なんで?
どうして?
離れていった温もりに目を開けると、月の光を受けてぼんやり光る人の影。
ちょっと待って。
いつから?
最初から!?
というか、ずっとあたしの話に相槌打ってたのって……?
柔らかい笑顔に胸がドキドキする。
嘘。
そんなはずない。
彼があたしにキスするなんて、そんな都合のいい話、あるはずない。
なのに、その顔。ずるいよ。
ああ、なんだ。
そっか、これ、夢かぁ。いい夢だ。
なら、いっか。
近づいてくる彼の顔にもう一度、目を閉じた。
この時のあたしは、満月の見せてくれた夢だとすっかり思い込んでいた。
これが夢じゃないと知るのは、翌日の朝。
自分の部屋で目を覚ましたあたしは、隣に眠る斎藤さんの寝顔に悲鳴をあげることになるんだけど。
この時のあたしは知る由もなかった。
満月の夜は、近くの公園で月見酒としゃれこむ。
缶ビール四本とおつまみ持ってベンチに座る。
少し肌寒くなってきたから膝掛けも持ってきた。
ベンチの座面に缶ビールを並べると、向かいから白い手が伸びた。
月光に照らされた笑顔に、あたしも笑みを返す。
これがあたしたちの新習慣。
あのあと色々あったけど、ね。
お月様相手に愚痴ったら、いいことあるかもよ?