その4
「あのさ、ちょっといいかな。」
アイヴィーは強めの調子で話し始めた。その響きの変化に、3人はいっせいに押し黙った。
「アタシ、いろいろと思うことがあってこっちに帰ってきたんだ。だから、今度いつまた来るか分かんない。ひょっとしたら二度と来ないかもしれない。」
「そうなの?どうして…。」
「ちょっと。」
優夏がまた喋り始めようとするのを絵里子が止めた。
アイヴィーは続けた。
「だから、大人しく楽しく飲んで帰ろうと思った、最初はね。でも、もしまたみんなと会える機会があるなら…と思うから。思うからこそ、雰囲気ぶち壊すかもしれないけど、ちょっと言わせてもらうね。」
周囲の喧騒は4人のボックス席から遮断されたよう。
絵里子も優夏も沙耶も緊張した顔をして黙っていた。
そこに座っているのは、佑ではなくて、アイヴィー。
「アタシ、みんなと一緒に卒業しなかったでしょ。だから、みんながその後どんな人生を送ってきたかは知らない。いま少し聞いただけじゃ、何も分かんない。」
言葉を切って、アイヴィーはお代わりのビールをひと口飲んだ。
「それはアタシのことも一緒。みんな、今のアタシがどうやってここまで来たか知らない。でも、ホントのことを言えば…一緒にいた頃から、みんなアタシのこと、何も分かってなかったよね。」
一瞬間をおいて、絵里子がゆっくりとうなずいた。
「アタシ、みんなと一緒にいても、ずーっと何となく友達みたいにしてるだけだった。たぶんみんなも分かってたよね。アタシが本音で話したことなかったの。」
優夏が泣きそうな顔をしている。顔に書いてある、“それをどうして言うのかな”と。
「みんなのこと、嫌いじゃないよ。でも正直に言って好きでもない。ただ“高校の時に一緒にいた”ってだけだと思ってる。ひどい言い方だけど、ごまかしても仕方ないから。」
沙耶の手は強く握りしめられていた。さっきまでの明るさがウソのように、色の白さが際立つ。
「たぶん、それってアタシだけじゃないよね。みんな、お互いがお互いそう感じてた。あれからみんなの絆を深めるような何かがあれば別だけど…“元クラスメートで遊んでた仲”って以外は、何もないと思う。」
再び絵里子がうなずいた。彼女だけがやけにクールだった。
アイヴィーはまたビールをひと口飲んだ。
「怒ってる?怒ったらごめん。」
「…いや、怒ってないよ。だって佑、本音で話してる。それは佑の正直な気持ちでしょ。その通りだもん。」
「まあね。アタシさ、家を飛び出して東京でバンドやって…いろいろな縁と最高の仲間がアタシを押し上げてくれて、たまたまデビューすることになった。」
その言葉に絵里子は異議を唱えた。
「違う。それは佑の実力でしょ。」
「うーん、今でもよく分からない。まあ理由はいいとしてね。そんなアタシが帰ってきたら、みんなはチヤホヤしてくれた。ありがたいよね。」
そう言いながら、アイヴィーは3人の顔を見渡す。
「でもさ、その“たまたま”がなかったら?ただの、しがないバンドマンだったら?そんなアタシが赤い髪の毛で大石田駅に立ってたら、みんなは同じように接してくれたのかな?悪いけど、今までの会話を聞く限り、アタシにはそれ以上の感情は湧かないね。」
絵里子は急所を突かれたような顔をした。その空気は優夏、沙耶にまでしっかりと伝わった。
「そんなことないよ」と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
アイヴィーが話しているのは限りない本音だったから。
そんなこと、あった。
たぶん「あれ、佑だよね…。」とヒソヒソ話しながら、遠目で見てやり過ごして終わっただろうと。
佑・絵里子・優夏・沙耶は、確かにその程度の関係だったと。
アイヴィーはそんな3人の顔をじっと見ながら話を続けた。
「アタシたち、確かにそんなもんだったよ。でもさ。」
絵里子が伏せていた目を上げた。
「アタシは東京の高円寺ってところでライヴハウスに入り浸るような生活をして、そこでたくさんの仲間ができた。本音で何でも話し合えるような仲間がね。」
アイヴィーはまたビールを注文した。例の店員が異例のスピードでアイヴィーの中生を持ってくる。
「ありがとね…。アタシは、そんな仲間ってのは『バンド』って共通点があるからこそ本音で話せるのかな、って思ってた。最初はね。」
「そうじゃないの?」
恐る恐る、という感じで優夏が聞いた。
「うん。ある日ね、こんな風に飲みながら…アタシ、酔っ払ってさ。バンドのメンバーに聞いたんだよね。『アンタたち、今までどこにいたのよ?』って。」
「どういうこと?」
「アタシには長い間、本当の仲間…本当の友達って呼べるような存在がいなかった。それが、高円寺に来てから急にぞろぞろと出てきてさ。みんなどうして急に現れたの?って。」
絵里子も優夏も沙耶も、みんな“何となく分かった”という風にうなずいた。いつの間にか3人のグラスもカラになっている。アイヴィーはちょっと笑みを浮かべた。
“いい飲み方になってきたね”
「そしたら、うちのギターが言ったんだよ。『最初からずっといたよ。お前が見てなかっただけだ』って。アタシ、それを聞いてハッとしたんだ。」
その言葉に、3人もハッとした表情を見せた。
「友達がいない、仲間がいないってのはアタシ自身の問題だったんだなって。そりゃ、バンドっていう共通点はあるよ。でも、それは取っ掛かりに過ぎない。アイツらは人を立場や見た目で判断しない。いったん心を許したら何でも本音で話せるし、時にはぶつかることもある。その信頼はお互いがお互いに持つもので、そんな仲間が増えたのはアタシに本音を受け入れるだけの気持ちの用意ができたからなんだって。」
アイヴィーは一瞬、間を置いた。そしてゆっくりと3人の顔を見た。
「だから、アタシは思うんだ。昔、みんなと本当に仲良くなれなかったのはアタシ自身の問題でもあるって。アタシに本音で話す勇気がなかった、その用意がなかったからだって。」
優夏が嗚咽を漏らした。沙耶はハンカチで鼻を押さえている。絵里子は黙ったままだ。
「たとえ本音で話してうまくいかなくても、それはそれで仕方ない。単に“合わない”ってだけだからね。アタシたち、まだ始まってもいなかったんだよ。」
「あの頃の佑、恐かった…。」
ぼそりと沙耶が言った。
「恐かった?」
「うん。だって佑、いつも遠くを見て何を考えてるのか分からなくて。それで…。」
「そうだよね。アタシ、遠くばかり見てた。周りを見る余裕がなくて、いつも背伸びばっかりしてたから。みんながアタシのこと分かってくれないって、そんな思い込みばっかり強くて。」
そう言ってアイヴィーはお代わりを促した。3人とも(もちろんアイヴィーも)飲み物を注文した。
「みんな、アタシが華やかで、すごく成功してるように見えるんでしょ?」
アイヴィーの言葉に3人はうなずいた。
「アタシはね、本当は『ズギューン!』でメジャーと勝負したかった。でもレーベルの奴ら…インディーズ時代の事務所の奴らが駆け引きして、アタシとバンドを切り離そうとしたんだ。」
「…そうだったの。」
そう言いながら沙耶が「ズギューン!」のアルバム・ジャケットに目を落とす。いま彼女が見ているのは、松下のおばちゃんが撮影した思い出の一枚。
「アタシは“冗談じゃない”って思った。だからレーベルとは手を切るつもりだった。でも『ズギューン!』のメンバーがアタシを“お前ひとりで勝負して来い”って送り出してくれたんだ。アタシはみんなに借りを作って闘いに出たんだよ。」
「いい仲間なんだね、ホントに…。」
優夏がつぶやく。おずおずとした感じはもう消えていた。
「だけど、メジャーの世界は恐ろしいよ。誰もアタシの邪魔をしない。でも、何ひとつアタシの自由にならないんだ。」
「どういうこと?」
優夏の好奇心は、先ほどまでの無遠慮なものとは違って。
「みんな、期待してくれるんだよ。会社も事務所もスポンサーも…大いに期待して余計な手配をたくさんして、さも“良いことをした”って感じでさ。沙耶、アタシのインタビューを読んだなら、松下のおばちゃんのことも知ってるでしょ。」
「読んだ、読んだ。すごい人だね、60歳でバンドの写真を撮って。佑の恩人なんだってね。」
「アタシは松下のおばちゃんに、今度のデビュー・ライヴの写真を撮ってもらいたかった。でも会社が有名な写真家を用意してさ。“この人に撮ってもらえば一流だ”みたいな雰囲気で盛り上がって…結局、アタシにはカメラマン一人さえ選べない。無力だよ。」
「それ、すごく悔しいよね…。」
「松下のおばちゃんは言ったよ、“いずれアタシの出番も回ってくるから気にしないで”って。アタシ、そんな風に言わせてしまったことがすごく情けなかった。」
淡々と話すアイヴィーの哀しみは、感情をあらわにするよりも深く深く3人の心にしみ込んでいった。
「おまけにアタシの彼氏はいま、行方不明。」
「えっ?」
沙耶と優夏が同時に声をあげた。
「アタシの彼氏、シンっていうんだけど…消えちゃったの。もう2ヶ月になるかな…。」
「手がかりとか、ないの?まさか…。」
沙耶はそう言ったきり、言葉を続けられない。
「ああ、それは大丈夫。殺しても死ぬようなタマじゃないからね、アイツは。でも、何となく理由は分かるんだ。やっぱりアタシのことで…。」
そう言ってアイヴィーは押し黙ってしまった。3人は心配そうにアイヴィーを見つめている。
「…とにかく、アタシだって順風満帆に生きてるんじゃないってこと。いま現在も悩みに悩み中の、ただの二十歳の女だよ。でも全部、本音で話したよ、これがアタシの腹の底。以上です。ちょっとトイレ行ってくるね。」
そう言ってアイヴィーは席を立った。