第弐話 『意地悪な後妻』
「な、なにが起こった……?」
気がつくと、吾輩は白い卵の上にいた。
記憶が曖昧で、どうやら意識を失っていたらしい。
たしか、頭上から何かが降って来て……それからどうなった?
朦朧としながらも、とにかく蒼い卵の安否を確認しようと、そちらを見やると。
「な、なんだ、これは……?」
蒼い卵は見るも無惨な姿へと変わり果てていた。
いや、正確に言えば、その全貌を目視することは叶わない。
何故ならば、分厚い暗雲に覆われているからだ。恐らく、粉塵だろう。
その隙間から垣間見える地表は、光が届かずに凍り付いていた。
当然、我々が育んだ生命も、そのほとんどが死に絶えており。
「そ、そんな……おい! 大丈夫なのか!?」
あまりのことに取り乱しつつも、声を掛ける。
すると、今にも消え入りそうな弱々しい声が、返ってきた。
「うぅ……ごめんね」
「良かった……無事なんだな。心配したぞ」
「ごめん……ごめん、なさい……」
「なんだ、其方。泣いておるのか? せっかく助かったというのに」
蒼い卵の無事を確認して、ひと安心。
しかし、何故かシクシクと泣いている。
それは大粒の雪となって、殻の表面にどんどん積もっていく。
恐らく、とても痛かったのだろう。だが、どうにも妙だ。
痛くて泣いているのはわかる。けれど、どうして謝るのか、それがわからない。
なので、泣き喚く蒼い卵を宥めつつ、その訳を聞いてみた。
「いつまで泣いておる。助かったのだから良いではないか」
「うぅ……本当に、ごめんなさい」
「もう泣くな。それに謝る必要などない。たしかに子供たちのことは残念だったが、吾輩は其方が無事で、本当にほっとした」
たぶん、子供たちを守れなかったことに責任を感じているのだろうと思った。
しかし、それは吾輩にも責任がある。なにせ今の今まで気を失っていたのだ。
そしてあの時の衝撃で、こんなところまで飛ばされてしまった。
「独りにして、すまなかった。今、そちらに向かう」
とにかく、一刻も早く蒼い卵の元へと帰り、寄り添って慰めようとしたのだが。
「そこまでよ!」
知らない声が響いて、吾輩の帰還を妨げた。
いや、薄らとだが、覚えがあるぞ。吾輩はこの声を知っている。
あれはたしか、意識を失う直前のことだ。その時、何かを叫んでいた。
吾輩の記憶が正しければ、この惑星は自分の物だからとかなんとか言っていたような。
「アタシがこの子の奥さんだから! あんたはそこで指を咥えて見てなさい!」
「なっ!?」
突然の意味不明な宣言に、言葉を失う。
奥さん? それは伴侶のことか? この子とは、蒼い卵のことだろうか?
色々と疑問を尽きないが、これだけは言っておこう。
「なにを馬鹿な……そいつは吾輩の伴侶である」
「昔はそうだったかも知れないけど、今は違うわ!」
「は?」
「あんたを追い出して、今やアタシがこの子の新しい奥さんってわけ! どーだ! 参ったか!?」
それはさっき聞いた。そしてそんな道理など認められる筈もない。
それに、聞き捨てならない台詞も混じっている。
「吾輩を、押し出しただと?」
「そうよ! 目障りだったから、吹き飛ばしたってわけ」
「そんな勝手が許されると思うのか?」
「いいのよ! やったもん勝ちなんだから! もう既成事実だって作ったし!」
既成事実だと? なんのことだ。吾輩は聞いてないぞ。
怪訝な視線を向けると、蒼い卵は心底申し訳なさそうに、説明した。
「じ、実は、僕はこの子とひとつになったんだよ……」
「なん……だと? いつの間に、そんなことに……」
「というわけだから、昔のツレはもう用済みってわけ!」
そんなわけで、吾輩は捨てられたのだった。
とはいえ、新しい奥さんとやらに消えろと言われても、それに従うつもりはさらさらなかった。
どうにかこやつらの邪魔をしてやろうと、凍った海を操ったり、雷を落としたりしていると、気づく。
凍った大地に、新たな生命が宿っていた。
「なんだこいつらは……猿のくせに、二本足で歩いておる」
「あら? 気がついた? この子たちは人間って言うの」
「人……間?」
「そう。ちなみにあんたは月。ムーンとも言うわ」
「なんだそれは。吾輩はそんな呼び名など知らん」
「あんたの子供のトカゲ共は頭が悪かったから、名前を付けられなかったみたいね」
「吾輩の子を侮辱するな」
「アタシはありのままの事実を言っただけ。アタシの子供は優秀だから、もう言葉だって話せるわ」
得意げにそう言われて、そんな馬鹿なと思いつつも耳を澄ませると、たしかに話していた。
「もうここまで知能が発達しているとは……」
「どう? すっごいでしょ? ちなみにあんたの名前はアタシの子供が付けたんだから、感謝しなさい」
「誰が感謝など……ええい、目障りな猿どもめ。吾輩はもう怒ったぞ!」
勝ち誇られて、悔しさを覚え、蒼い卵を操って火山を噴火させる。
吾輩の卵の殻が混じっているので、追い出された今でもこうして操ることなど造作もない。
それで人間共を一掃してやろうと目論んだのだが、浅はかだった。
「それを待っていたわ!」
「な、なにっ!?」
「アタシの子供にその魔法を教えてくれて、ありがと」
「なんだそれは……どういう意味だ?」
「言ったでしょ? アタシの子供は、おりこうさんだって」
首を傾げると、不敵に笑われ、そんなことを嘯かれた。
そしてその意味を、吾輩はすぐに思い知ることとなる。
人間共が、火を使い始めたのだ。
「そ、そんな……!?」
「あー良かった。これで冬が越せるわね」
「は、初めからそのつもりで……?」
「当然じゃない。使えるものは利用しないとね」
どうやら吾輩は、まんまと利用されたらしい。
そのことを自覚して、呆然自失としていると。
「それに、あんたの悔しがる顔が見たかったから」
その言い草に、吾輩は心が折れた。
「どうして……そんな意地悪をするのだ」
「消えろって言っても、消えないから」
「吾輩は、蒼い卵の傍に居たいのだ……」
すっかり拗ねて、自らの思いを告げると、意地悪な後妻は嘆息しつつも認めた。
「ま、そのおかげで生命が生まれたわけだから、仕方ないから目を瞑ってあげる」
「ど、どうしてそんなに上から目線なのだ……?」
「あんただって偉そうなしゃべり方してるじゃない」
「わ、吾輩のしゃべり口調は生まれつきなので、仕方あるまい」
「それならアタシだって生まれつきよ。とにかく、そこに居るのは認めてあげるから、大人しくしてなさい」
一方的な命令をされて、吾輩は月と呼ばれる白い卵に独り取り残される。
もはや蒼い卵には発言権はないらしく、シクシクと啜り泣く声しか聞こえない。
吾輩は考えた。どうしたらよいのか。あの意地悪な後妻を如何にして無力化出来るのか。
しばらく考えていると、蒼い卵を覆っていた暗雲が晴れて、本来の青さを取り戻した。
それを機に、吾輩は提案をしてみる。
「提案がある」
「なによ」
「蒼い卵のことは、吾輩と貴様、二人で愛でようではないか」
「却下」
「な、何故だっ!?」
「アタシだけ居れば、それでいーの!」
なんと我が儘な後妻だ。
断腸の思いで吾輩が譲歩したというのに、聞く耳を持たん。
そしてそんな特性はしっかりと子供に受け継がれたらしく、人間共は好き放題に暴れ始めた。
使い方を覚えた火を使い、森を焼き、殻を溶かしていく。
為す術なく、白い卵からその様子を見つめることしか出来ない私に、蒼い卵の悲鳴が伝わる。
こうなったら、手段を選んでなどいられない。火を与えてしまったのは、吾輩の落ち度だ。
最終手段として、天変地異を操り、そして各地に生き残った我が子らを頼った。
そう、実は少数ながら生き残りが存在していたのだ。
後妻の衝突時の爆風とその後の寒さを耐え凌ぎ、難を逃れたのは吾輩の子供の中でも選りすぐりの精鋭。
吾輩はその子らが、人間の横暴を止めてくれると期待していたのだが。
高い高い山の上で下界を見下ろす竜も。
深い深い水溜まりの底で静かに眠っていた竜も。
鬱蒼と生い茂る密林で森を守っていた竜も。
皆、人間に殺されてしまった。
全ては後妻の計らい。あやつは竜を倒した者に、特別な称号を用意した。
人間の上に立てる、王という立場を餌に、討伐を促したのだ。
山頂での一騎打ちで、人間の剣に貫かれ。
木を切り出して作った船に乗った人間に水溜まりを支配されて、銛で突かれ。
森に火を放たれて、焼き殺され。
生き残った子らは、みるみる数を減らし、そして今度こそ完全に駆逐された。
無論、それを黙って眺めていたわけではない。
連中は火を使えたが、風や雷を操ることはできない。
何度も介入して討伐を妨害しようとしたが、ついに最後の一頭も破れた。
殻を溶かして作った聖剣とやらに、深々と突き刺され、絶命する我が子。
竜を倒したその者は英雄となり、沢山の人間の上に立つ王となった。
数を増やした人間は、竜の首を狩り、幾人もの王を擁立していった。
山ほどの大きさの、頭と尻尾が八股に別れた竜ですら、滅び去ってしまった。
事ここに至って、ようやく悟る。
吾輩は、敗北した。
竜は人間には勝てないのだと。
しばらく、その事実に打ちひしがれることとなったが、悪い話ばかりでもない。
竜を殺して沢山の王が出現したことにより、人間同士での争いが頻発するようになった。
同族で殺し合う醜態は、いかに後妻であろうとも心を痛めているだろうと、思ったら。
「えっ? アタシは別に全然気にしてないわよ?」
けろっとした様子で、そう言い切る後妻。
その反応は余りに予想外で、思わず人間に同情してしまう。
「し、しかし、同族での殺し合いなど、悲しいだけではないか」
「あんたの子供だって、殺し合いくらいしてたでしょ?」
「わ、吾輩の子供たちは、生きるのに必死だったのだ」
「アタシの子供だって同じよ」
「全然違う。見ろ、殺した相手の肉を食っておらんではないか!」
吾輩の子供たちは、肉を食らう為に殺し合った。
それは食事であり、生きる糧を得るために必要なことだった。
だが、人間は違う。相手の肉が欲しくて殺し合いをしているのではない。
憎しみや恨み、自己満足の為に、殺し合いを続けていた。
積み重なる死体の山を見ているだけで、辛く悲しいと訴える吾輩の言い分は、一笑に付された。
「あんたの考えは古いのよ」
「な、なにおうっ!?」
「いい? アタシの子供達は今、進化しようとしてるの」
「進化……?」
「そう。ただ今日生きていく為の肉を探していたあんたの子供とは違って、明日のことを考えているのよ」
そう言われてもよくわからず、首を傾げていると、呆れた口調で説明された。
「効率よく相手を殺す為には、それ相応の技術が必要になる」
「そんな技術などいらないではないか。仲良く暮らせばよい」
「その技術が明日を生きる為に必要なのよ」
「意味がわからん」
「簡単に言えば、死にたくないから相手を殺すの」
「だから仲良くしろと言っているではないか」
「あんたみたいな単細胞とは出来が違うのよ」
「ぐっ……貴様、言わせておけばぬけぬけと……!」
「うっさい。いいから黙って聞きなさい。ここからが大切なんだから」
ぴしゃりとそう言われて、吾輩を黙らせた後妻は、偉そうに説明を続ける。
「前提は、自分が殺されないようにより効率良く相手を殺す技術を身につける。ここまではいい?」
「納得は出来んが、理解はした。続けろ」
「その技術によって、より強力な武器が生み出される」
「それがどうした?」
「それはとても便利な物なのよ」
「便利? 人殺しの道具がか?」
「ええ、たとえばよく切れる剣を想像してみて」
「想像などせずとも、吾輩の子の首を断ち切った聖剣のことを忘れたことはない」
忌々しいあの聖剣が、目に浮かぶ。
吾輩の子供の固い鱗に覆われた首をたやすく切り裂き、絶命させた切れ味。
それを思い出して、苦い顔をしていると、後妻はその聖剣でこんなたとえ話をした。
「もしもその聖剣でリンゴの皮を剥いたら、どうなると思う?」
「とても剥きづらいであろうな」
「取り回しの話をしてんじゃないわよ。切れ味の問題!」
「切れ味? それはよく切れるに決まっておろう」
「ほら、便利でしょ?」
なるほど、言いたいことはなんとなくわかった。
強力な武器は、日常生活においても役に立つということか。
しかし、だから何だというのか。
「貴様はその便利さの為に人間が殺し合うのを黙認しているのか?」
「簡単に言えば、そうなるわね」
「馬鹿馬鹿しい。生命をなんだと思っている」
「あんたこそ、アタシの子供達の血の滲む努力を、馬鹿にすんな」
「血の滲む努力だと? そんなのは詭弁だ」
「詭弁だろうと何だろうと結構よ。それで子供たちは明日を切り拓いていくんだから」
吾輩の抗議にも、どこ吹く風。
反論を諦めて、事態の推移を見守ることにする。
もとより、人間を救おうなどと思っていたわけではない。
見るに見かねて苦言を呈したにすぎない。それなのに、後妻は聞く耳を持たなかった。
なので、このまま人間が殺し合って絶滅するのを見物しようと思ったのだが。
しばらく経って、気づく。
人間共は爆発的にその数を増やしていた。
あんなに殺し合っていたのに、何故?
その疑問の答えを探るべく、彼らの暮らしぶりに目を向けると、明らかに変化が生じていた。
より便利な道具を使い、より効率的に、より楽に生活出来るようになっている。
だからこそ、こうして数を増やしていた。
それに伴って、寿命も延びる。
戦っては、休み、戦っては、休み、戦っては、休み。
それを繰り返して、新しい技術が次々と生まれた。
数ある人間の発明の中で特筆すべきなのは、まずは蒸気機関だ。
殻を掘って取り出した石炭という石を燃やして、水を沸かす。
それによって生じた蒸気の力で、様々な困難を可能とした。
沢山の人を乗せて走る列車などが、代表的なものだ。
もちろん、この便利な発明には弊害もあって、空気がたちまち汚染された。
石炭を燃やすことによってモクモクと黒煙が立ち上り、蒼い卵がたちまち煤まみれとなる。
しかも、あとから聞いたところによると、石炭とはどうやら吾輩は育てた植物の名残らしい。
要するに、吾輩と蒼い卵が仲良くやっていた頃に生えていた植物が、後妻の衝突によって燃えて、炭となり、灰を被って埋まっていたところを、今になって掘り返して利用しているということらしい。
それを知って、ふざけるなと抗議する間もなく、新たな発明に度肝を抜かれる。
ついに人間は、雷すらも操れるようになった。
奴らをそれを電気と呼び、小規模ながら活用し始めた。
かつて、吾輩が操る雷に対して逃げ惑い、命乞いをすることしか出来なかった者どもが、それを使いこなすとは。こうなっては、認めざるを得ない。たしかに、後妻の子供は進化していると。
「ねぇねぇ、悔しい? ほらほら、今の気持ちを言ってごらんなさいよ?」
煽られても、もはや何も言えない。
吾輩の子供は、火も蒸気も電気も扱えなかった。
それが悪いことだとは思わない。それでもいいと思っていた。
しかし、どちらが優秀かと聞かれたら、それこそ火を見るよりも明らかであり。
吾輩はそれっきり、後妻と関わるのをやめた。
向こうも散々冷やかしてすっきりしたのか、あれ以来はわりと大人しい。
今も蒼い卵に膝枕をして貰って、満足げだ。なんだかんだ言っても仲が良いらしい。
なんだかな……と、思う。
自分の妻としての至らなさや、考え方の違いなどが露呈して、うんざりだ。
人間は蒼い卵を地球と呼び。アースと名付けた。そして、後妻はエリーと呼ばれているらしい。
吾輩は月。ムーンと呼ばれ、蚊帳の外。それでも、一部の地域では崇められているとのこと。
その地域には、常日頃から沢山の光が降り注いでいて、大変暑いようだ。
光の源は、太陽と呼ばれ、サンと名付けられた。その光の方へと視線を向ける。
太陽は、除け者の吾輩も平等に照らしてくれて、温もりを伝えてくれた。
真っ暗な虚空によくよく目を凝らすと、そのような光がいくつも見えた。
あれらがそれぞれ卵だとすれば、膨大な数が存在しているのだろう。
そこまで考えて、ふと気づく。別にここに留まる必要などないのではないか、と。
「おい、そこの者」
「なんすか?」
「もし良ければ背中に乗せてくれまいか?」
思い立ったら吉日ということで、吾輩は丁度、地球と月の間を飛んでいた長い尻尾を持つ者を呼び止めた。
竜である吾輩も尻尾の長さには自信がある。尻尾が長いもの同士、通じ合うところがあると思った。
なので、相乗りを希望すると、思いの外あっさりと。
「いいっすよ~! しっかり掴まっててくだせえ!」
快諾して貰えて、躊躇なく、その背に飛び乗る。
小さなその背にしがみついて、吾輩は太陽に向けて飛び立った。
とても早くて、心が躍る。沈んでいた気持ちは、月に置き去りにしていこう。
ちらりと背後を見やると煤で汚れた蒼い卵たる地球が、豆粒ほどの大きさとなっている。
きっと、もっと離れれば、数多ある卵のうちのひとつと成り下がるのだろう。
そうさ。蒼い卵だけが全てではない。
きっとどこかによりよい伴侶がいるだろうと信じて。
吾輩は長い尻尾を靡かせながら、とりあえず、太陽を目指した。