4 鏡界に潜む者 肆
埃で薄汚れた鏡の部屋の中は、何処まで行っても肌にまとわりつくような不快な湿度である。
静寂と沈黙が永遠に繰り返される薄暗い地下墓地さながらに、閉塞的な空間であるこのミラーハウスは恐怖と絶望に満ちていた。
流星は正面を見ながら歩くと自分が今何処に居るのか、何処へ向かっているのか方向感覚さえ失ってしまい、自分がさ迷っている現実を直視することができない。
先程まで一緒に行動をしていた託生たちの姿もない。
流星の耳には彼らの声は届いているのだが、自分の周囲全ての鏡には流星自身の姿しか映されていないのだ。
自分を取り囲むようにどの鏡にも心細い表情をした流星が映っている。
その自分の姿を見るたびに、鏡の鳥籠に閉じ込められたしまったという心の動揺が膨らんでいく。
鏡の部屋で取り乱して闇雲に動き回るよりも、このままこの場に留まり皆と合流するのが得策だと考えた。
手に握られている携帯電話の液晶画面から発せられる小さな明かりだけが、今にも砕けてしまいそうな流星の平常心をかろうじて繋ぎ止めている。
足元から正面の鏡へ視線を戻すと、そこにあるべき自分の姿が鏡面に映し出されていなかった。
全ての光を呑み込んでしまった闇色の鏡の表面は、墨汁が鏡面の内部で流動しているような不規則な動きをしていた。
流星は言葉を発することもできなかった。
自分の意思とは関係なく何かに導かれているかのように体が勝手に動き、漆黒の鏡面に手を触れていた。
鏡面は生温かく、闇色の物質は溶けたタールのように指に絡みつき床へと流れ落ちた。
指先にはどす黒い血痕が残された。
「な、何なんだよ! これ血!? 血なのか!?」
流星は自分の手が血に染まった恐怖から一刻も早く脱け出したいと、ただそれだけをひたすらに念じた。
底なしの汚泥のような漆黒の鏡面からは悪臭と狂気が這いずり出てくる。
「もう十分だ! これは現実じゃない! これは現実じゃない!」
流星は瞼を固く閉じでひたすら同じ言葉を繰り返していた。
「やあ、流星!」
突然、聞き慣れない男の声がした。
瞼を開けると先程の溶けたタールの鏡面から普通の鏡へと戻っていた。
しかし、その鏡面には映っているはずの流星の姿が映し出されていないのだ。
誇りで薄汚れて曇っているためではないのだ。
鏡面の内側は白い煙が蔓延している。
それが、隙間風が抜けるようにゆっくりと流星の周りに流れ出し、辺りを冷たい冷気と白い煙で充満させた。
「こ、今度はいったい何なんだよ! こんなの冗談なら笑えないぞ!」
流星はもしかしたら皆が自分を怖がらせるためにこの肝試しの心霊ツアーを企画して、今まさに自分はまんまと騙されて道化を演じているのではと思うと、笑って済まされるようなものではないという怒りが込み上げてきたその時である。
鏡の中から先程の男の声が聞こえた。
「やあ、流星。皆は何処へ行ったのかな? お前を怖がらせるために仕組んでいたことなんて何もないと信じてやらないのか?」
「星矢さんなのか? それとも幹博か?」
流星は早くこんなくだらないことは終わりにしろと言いたげに声を荒げて言った。
「残念……お前はオレを知らない……」
鏡の中から道化師の衣装を着た男が姿を現した。
「ピエロ!?」
しかし、目の前にいるピエロは道化師としての滑稽さ親しみ易さなどなく、狡猾さと狂気をはらんだ笑みで流星を見据えていた。
その眼は黄色であり、爬虫類の眼のようである。
「お前は何なんだよ!?」
全身に悪寒が走った。
「オレの名を知る必要はない。何故ならお前はここで永遠にこっちの世界で過ごすんだからな!」
「こっちの世界ってなんだよ!?」
その問いに道化師はアマゾンに生息する肉食魚ピラニアのような鋭利な歯を見せて、流星に噛みつく仕草をして威嚇した。
「霊界と現世の狭間に存在する名もなき世界だ。お前も亡者の仲間になれ!」
鏡の中から白い手が突然飛び出してきて、流星の首を掴みかかった。
日頃から空手をしている流星はそれを難なくかわすことができた。
宙で弧を描いたその道化師の白い手袋は次の瞬間引きちぎれて、裂けた中からまがまがしい茶色く干からびた皮膚と長く鋭い爪が現れた。
エジプトのミイラのような褐色の血の気のない肌は、尚も流星を襲う手を緩めなかった。
流星を取り囲むあらゆる鏡の中へその魔物は移動し、絶え間なく襲い続けたのだ。
「そっちには行かないって言ってるだろう!」
流星は得意の後ろ回し蹴りで鏡の一枚を粉砕した。
耳を劈くような断末魔がミラーハウスの室内に響き渡った。




