ナーショの書
生まれては死んでいく世界。
それは巡る廻る〈伝説の書〉へと続く物語。
かの名はナーショの書。
ナーショは、本の山の上で暮らしていた。
比喩ではない。
王城北棟の最上階にある大書庫。その奥、天井まで届く本棚の森を抜けた先に、彼女専用の読書室がある。床は半分ほど見えない。革表紙の年代記、神学論文、古代詩集、隣国の航海図、禁帯出の薬草目録。そういったものが背丈ほど積まれ、いくつもの塔を作っていた。
その塔の上に、鳥の骨のように細く、銀細工のように美しい長椅子が据えられている。
長椅子の背には青い絹のクッション。肘掛けには小さな丸卓。丸卓には、王家の晩餐会からくすねた葡萄酒の瓶が一本。もっとも、中身は水で割った甘い葡萄酒で、侍女のエマが「お嬢さま、年頃の娘が朝から飲むものではありません」と毎朝ため息をつく代物だった。
ナーショはその長椅子に横たわり、淡い桃色の部屋着を膝のあたりでゆるく遊ばせ、片手に細い杯を持っていた。
右手には本。
左手には杯。
足先は本の塔から少しはみ出して、空中で退屈そうに揺れている。
「ナーショ様」
下から声がした。
ナーショは目だけを動かした。
書記官見習いの少年が、顔を青くして本の塔を見上げていた。手には羊皮紙の束。きっとまた、どこかの貴族が古い土地証文の解釈を求めてきたのだろう。
「何?」
「南部伯爵家より、相続に関する照会が……」
「三代前の文書なら、棚の十七列目。黒い背表紙の『王国土地法註釈』下巻、二百四十一頁。ただし初版は誤植があるから第四版を使いなさい。結論だけ言えば、伯爵家の負け。ついでに言うなら、その件は百年前にも同じ判例が出てるわ」
少年が羊皮紙を落としかけた。
「まだ、内容をお伝えしていません」
「伝えなくていいわ。南部伯爵家が相談してくる相続問題なんて、だいたい三つしかないもの」
ナーショは本から目を離さずに、杯を軽く掲げた。
「次」
少年は慌てて紙束をめくった。
「王女殿下より、午後のお茶会に――」
「行かない。理由は、わたしが忙しいから」
「殿下が、ナーショ様に新しい詩集を見せたいと」
「もう読んだ。昨日の夜、献本が届いたから。出来は悪くないけれど、恋を月にたとえるのはそろそろ法律で禁止したほうがいいわね」
「そのようにお伝えしてよろしいので?」
「そのまま伝えたら、あなたの首が飛ぶわ。適当に丸めなさい」
少年は、泣きそうな顔で「承知しました」と頭を下げた。
ナーショは十九歳だった。
本人は十八歳と言い張っている。理由は「十九歳より十八歳のほうが天才らしいから」だそうだ。侍女のエマによれば、去年も十八歳と言っていたらしい。
彼女はこの国で、もっとも多くの本を読んだ娘だった。
幼いころから文字を覚えるのが異様に早く、十歳で王立学院の博士たちを論破し、十二歳で王城書庫への出入りを許され、十五歳のころには「歩く書庫」と呼ばれるようになった。
聞けば、答える。
問えば、引用する。
神話、法律、歴史、医学、星学、詩、料理、軍略、礼法、毒草、異国語、古い歌の節回しに至るまで、彼女はあらゆる知識を丸暗記していた。
王女はナーショを気に入り、王城に部屋を与えた。
学者たちはナーショを恐れ、貴族たちはナーショを利用し、使用人たちはナーショに振り回された。
ナーショ自身は、当然のようにこう思っていた。
この国で、自分の知らない本はもうない。
この国で、自分の知らないことはもうない。
つまり、世界とはだいたい、自分の頭の中に収まっている。
その思いこみを壊したのは、一人の旅人だった。
その日も、ナーショは本の山の上で寝そべっていた。
窓の外はよく晴れていた。王城の庭には白い花が咲き、噴水の水が陽を砕いてきらきら光っている。
ナーショはその光景を一瞥し、すぐに本へ視線を戻した。
外など、だいたい書物で読める。
花の名も、水の成分も、噴水の設計も、天候の仕組みも、春の匂いを詩人がどう表現してきたかも、ナーショは知っている。
実際に外へ出る必要などない。
靴が汚れるだけだ。
扉が叩かれた。
「ナーショ様。旅の方が面会を求めております」
エマの声だった。
「旅の方?」
「はい。どうしてもナーショ様に尋ねたいことがあると」
「また古文書の鑑定? それとも失われた王家の血筋? 最近その手の話、多すぎない?」
「いえ」
扉が開く。
入ってきたのは、ほこりをまとった男だった。
年は三十前後だろうか。髪は黒く、目は灰色。服は旅に擦り切れているが、不思議と貧相には見えない。腰には剣。背には小さな荷。靴は泥だらけで、マントの裾には草の種がついていた。
王城に入る者としては無礼な身なりだった。
けれど、男は周囲の本の山を見ても、ナーショの奇妙な長椅子を見ても、少しも驚かなかった。
ナーショはそれが気に入らなかった。
「そこ、汚さないで。床に置いてある本、たぶんあなたの全財産より高いから」
「失礼」
男は短く答えた。
謝ったわりには、悪びれていない。
ナーショは本を閉じた。
「それで? 旅人さん。わたしに何を聞きたいの?」
男はまっすぐ彼女を見た。
「伝説の書を知っているか」
読書室の空気が、ほんの少し止まった。
ナーショはまばたきをした。
それから、笑った。
「何?」
「伝説の書だ」
「聞こえたわ。だから笑ったの」
ナーショは杯を丸卓に置き、長椅子の上で身を起こした。
「伝説の書。古い英雄譚に出てくる、読む者に世界の真理を授ける本。神々が最初に書いたとも、最後の人間が死ぬ日に完成するとも言われる。王都版の『失われた奇跡目録』では三十二頁、砂漠地方の民間伝承では『空の底に沈む本』、北方の写本では『死者が一行ずつ書き足す本』。ほかにも似たような記述は百以上あるわ」
「なら、知っているんだな」
「いいえ」
ナーショは指先で髪を払った。
「存在しないと知っているの」
旅人の眉がわずかに動いた。
ナーショは愉快になった。
「伝説の書に関する記述は、地域によって矛盾が多すぎる。形も、所在も、効能も、作者も、成立年代も一致しない。つまり、あれは人間が『世界のすべてを知りたい』という欲望を物語の形にしただけ。空想よ。子ども向けの絵本と同じ」
「そうか」
旅人は静かに言った。
「すべての書を知る者がここにいると聞いたが、デマだったようだ」
ナーショの笑みが消えた。
「……何ですって?」
「失礼した」
男は軽く頭を下げた。
そして、踵を返した。
「待ちなさい」
ナーショの声が尖った。
「あなた、今、わたしを無知だと言った?」
「そこまでは言っていない」
「言ったのと同じよ」
「なら、そう受け取ってもらってかまわない」
旅人は振り返った。
その顔には、薄い笑みがあった。
馬鹿にする笑みではない。
落胆のあとに残った、冷たい笑みだった。
「本に書かれていないものは存在しない。そう考える人間に、伝説の書は見つけられない」
ナーショは立ち上がった。
本の塔がぐらりと揺れる。
下でエマが小さく悲鳴を上げた。
「あなた、どこの誰?」
「ただの旅人だ」
「名は?」
「伝説の書を見つけたら、また会おう」
男はそう言って、読書室から出ていった。
ナーショは追わなかった。
追わなかったのではない。
追えなかった。
怒りで足が動かなかった。
その日から、ナーショは伝説の書に取り憑かれた。
最初の三日間、彼女は旅人のことを笑い飛ばそうとした。
四日目、王城書庫の伝承分類をすべて読み直した。
七日目、神学書を読み直した。
十日目、異国の民話集を取り寄せた。
二十日目、古語で書かれた未整理写本に手を出した。
一か月後には、読書室の床がさらに本で埋まった。
「ナーショ様、少しお休みになってください」
エマが燭台を取り替えながら言った。
「休んでいるわ」
「三日前から寝ていません」
「目は閉じたもの」
「まばたきです」
ナーショは返事をしなかった。
机の上には、伝説の書に関する記述をまとめた紙片が散らばっている。
神が落とした本。
海の底にある本。
まだ生まれていない子どもが書いた本。
死者の名をすべて記す本。
読むと世界を忘れる本。
読むと自分の名を思い出す本。
どれも矛盾している。
どれも曖昧だ。
どれも馬鹿げている。
だから、存在しない。
そう結論づければいい。
以前のナーショなら、それで終わりだった。
けれど、もう終われなかった。
なぜなら、彼女は気づいてしまったからだ。
知らない本が、国外には無数にある。
自分が読んだことのない言語がある。
自分が触れたことのない紙がある。
自分が聞いたことのない歌があり、自分が見たことのない夜明けがあり、自分が名を知らない花がある。
知識は、彼女が思っていたような整った棚ではなかった。
果ての見えない海だった。
ナーショはその海を前にして、初めて足元が震えた。
自分は知っている。
誰よりも知っている。
そう信じて立っていた場所が、実は小さな島だったのだ。
「……許せない」
ナーショはつぶやいた。
エマが顔を上げる。
「旅人の方が、ですか?」
「違う」
ナーショは紙片を握り潰した。
「知らないことがある自分がよ」
それから半年後、ナーショは王城を出た。
王女は大反対した。
学者たちは泣いて止めた。
貴族たちは照会先を失って困惑した。
エマは大きな荷物を三つ用意し、そのうち二つを勝手に捨てた。
「何をするの!」
「旅に大理石の文机は持っていけません」
「必要よ。記録を書くのに」
「木板で書けます」
「銀の燭台は?」
「現地で火を借りてください」
「この長椅子は?」
「論外です」
ナーショは本気で泣きそうになった。
結局、彼女が持っていけたのは、数冊の参考書と、白紙の帳面と、筆記具と、最低限の衣類だけだった。
出発の日、王城の門前に馬車が用意された。
ナーショは門の外に立ち、朝の光を浴びた。
まぶしかった。
陽の下など、何度も出たことがあるつもりだった。
だが、それは王城の庭を少し歩く程度のことだ。
城門の外から吹いてくる風は、知らない匂いがした。
土。
馬。
焼きたてのパン。
遠くの川。
誰かの汗。
市場の香辛料。
ナーショは顔をしかめた。
「世界って、こんなに匂うのね」
エマが笑った。
「本には書いてありませんでしたか?」
「書いてあったわ」
ナーショは少しだけ悔しそうに言った。
「でも、書いてあるのと、鼻に入ってくるのは違う」
最初の旅は、屈辱の連続だった。
地図では一日の距離に見えた隣町まで、馬車で丸二日かかった。
「穏やかな丘陵」と本に書かれていた道は、実際にはぬかるみと虫と坂道の連続だった。
宿屋の寝台は王城の寝台より硬く、食事はしょっぱく、夜は寒かった。
ナーショは三日で帰りたくなった。
五日目には足に豆ができた。
七日目には、荷物持ちの兵士に「歩く書庫じゃなくて歩けない書庫ですね」と陰口を言われた。
ナーショはその兵士の出身村の人口統計と方言の訛りについて三十分ほど語り、黙らせた。
しかし、豆は治らなかった。
近隣諸国を巡るうちに、ナーショは本の誤りをいくつも見つけた。
ある港町の名産は、書物では干し魚とされていたが、実際にはすでに真珠細工へ移っていた。
ある修道院の壁画は「青い天使」と記されていたが、現地で見れば青ではなく、退色した緑だった。
ある民族は「文字を持たない」と書かれていたが、彼らは石ではなく歌に歴史を刻んでいた。子どもたちは祖母から祖母へ、三百年前の飢饉の年を旋律で覚えていた。
ナーショは衝撃を受けた。
「文字がないのに、歴史があるなんて」
焚き火のそばで、現地の老婆は笑った。
「文字がなければ忘れるとでも?」
「……少なくとも、変わってしまうでしょう」
「文字にしても変わるよ。書いた者の都合でね」
ナーショは反論しようとした。
できなかった。
その夜、彼女は帳面にこう書いた。
――知識は保存されるとき、すでに誰かの手の形をしている。
旅は続いた。
護衛は一人減り、二人減り、使用人は途中で帰国した。
エマだけが残った。
「あなたも帰っていいのよ」
砂漠の町で、ナーショは言った。
エマは乾いた布で鍋を拭きながら、淡々と答えた。
「ナーショ様を一人にしたら、三日で盗賊にだまされます」
「さすがにそこまで愚かじゃないわ」
「昨日、壺売りから『古代王の涙』を買おうとしていました」
「あれは資料として価値が――」
「ただの青いガラスです」
ナーショは黙った。
旅をする前の彼女なら、エマを言い負かしていただろう。
今は、少し違った。
知らないことがある。
間違えることがある。
その事実を認めるのは痛かった。
だが、その痛みの先には、不思議な軽さがあった。
ナーショは歩くようになった。
雨の中を歩いた。
雪の中を歩いた。
言葉の通じない市場で身振り手振りを覚え、見たことのない果物を食べ、腹を壊し、泣きながら薬草茶を飲んだ。
山岳の村では、星が本当に降ってくるように見えた。
南の湿地では、夜に花が開く音を聞いた。
海の向こうの島では、子どもたちが砂浜に物語を描き、波が来るたびにそれを笑って消した。
「もったいなくないの?」
ナーショが尋ねると、子どもはきょとんとした。
「また描けばいいよ」
その言葉を、ナーショは何度も帳面に書いた。
また描けばいい。
また書けばいい。
また見ればいい。
知るとは、終わらせることではないのかもしれない。
旅に出て三年が過ぎたころ、ナーショは遠い東の都市で、あの旅人と再会した。
夕暮れの市場だった。
赤い布の天幕が風に揺れ、香辛料と焼いた肉の匂いが混じっていた。ナーショは露店の隅で、古い紙束を値切っていた。
「その紙束に金貨三枚は高すぎるわ。虫食いがあるし、綴じ糸も替えられている。せいぜい銀貨五枚」
「お嬢さん、見る目が厳しいね」
「お嬢さんじゃなくて研究者よ」
「なら銀貨七枚」
「六枚。あと、その端の赤い紐もつけて」
交渉が成立したところで、背後から声がした。
「ずいぶん逞しくなったな」
ナーショは振り返った。
旅人がいた。
あの日と同じ黒髪。
同じ灰色の目。
同じように旅に汚れた服。
ただ、ナーショのほうも変わっていた。
桃色の絹の部屋着はない。髪は短くまとめ、肌は陽に焼け、靴は傷だらけだった。背には帳面の詰まった鞄。指先にはインクと小さな傷。爪は王城にいたころのように磨かれていない。
旅人は彼女を見て、少しだけ笑った。
「伝説の書は見つかったか?」
ナーショは息を呑んだ。
その問いを聞くまで、自分がなぜ旅に出たのか、半分忘れていた。
いや、忘れていたわけではない。
変わっていたのだ。
伝説の書を探す旅は、いつの間にか世界を見る旅になっていた。
ナーショは唇を噛んだ。
「……まだよ」
「そうか」
「笑えばいいわ。あのときみたいに」
「笑わない」
旅人は静かに言った。
「君は、何を持っている?」
「何って?」
「その鞄だ」
ナーショは警戒しながら、鞄から一冊の帳面を取り出した。
革表紙は傷だらけで、角は潰れ、紐は何度も結び直されている。中には、旅の記録がびっしり詰まっていた。
天候。
地名。
人名。
聞いた歌。
食べたもの。
間違っていた本の記述。
自分の推測。
反省。
怒り。
驚き。
恥。
時々、どうしようもない寂しさ。
旅人は帳面を受け取り、露店の灯りの下で読み始めた。
ナーショは落ち着かなかった。
誰かに自分の書いたものを読まれるのは、妙な感覚だった。
昔の彼女にとって、本とは他人を論破するための武器だった。
けれど、この帳面は違う。
これは彼女の旅そのものだった。
間違いも、無知も、転んだ跡も、そのまま残っている。
しばらくして、旅人は顔を上げた。
「面白い」
ナーショは拍子抜けした。
「……それだけ?」
「こんな本は初めて読んだ」
「本じゃないわ。記録よ」
「名前は?」
「ないわよ。わたしの旅の記録だもの」
「一冊だけか?」
「まさか」
ナーショは鞄を軽く叩いた。
「もう数えきれないくらい書いたわ。王城に送った分もあるし、途中の町に預けた写しもある。失くしたものも、濡れて読めなくなったものもあるけど」
「そうか」
旅人は帳面を閉じた。
その目は、あの日のように冷たくなかった。
「ナーショ。君はもう、伝説の書に近づいている」
ナーショは眉をひそめた。
「どういう意味?」
「伝説の書は、世界のどこかに一冊だけ置かれている本じゃない」
「では何?」
「生きた者が、自分の足で世界に触れ、自分の言葉で残したものだ」
市場のざわめきが遠くなった。
旅人は続けた。
「誰かが生きる。見る。傷つく。間違える。愛する。失う。それを言葉にする。その一冊は、世界に一つしかない。ほかの誰にも書けない。だから伝説になる」
ナーショは手の中の帳面を見た。
汚れた革表紙。
ゆがんだ文字。
ところどころ滲んだインク。
美しい装丁ではない。
王城書庫に並ぶ名著のような威厳もない。
けれど、そこには確かに、彼女が見た世界があった。
「……だったら」
ナーショは小さく言った。
「伝説の書は、人の数だけあるということ?」
「そうかもしれない」
「なら、あなたはなぜ、それを探しているの?」
旅人はすぐには答えなかった。
夕暮れの光が、彼の横顔を赤く染めていた。
「忘れられた本を探している」
「忘れられた?」
「誰にも読まれず、誰にも語られず、なかったことにされた人生がある。そういうものを拾うのが、俺の旅だ」
「あなたは何者なの?」
旅人は笑った。
今度の笑みは、少し疲れていた。
「ただの読者だよ」
そう言って、彼は帳面を返した。
「君は君の旅を続ければいい。知識よりも、ずっと厄介で、ずっと価値のあるものをもう手に入れている」
「何よ、それ」
「知恵だ」
ナーショは黙った。
昔の彼女なら、その言葉を古い哲学書から引用して解説しただろう。
今はしなかった。
知恵。
それは、覚えた言葉ではなかった。
雨の冷たさを知ったあとで読む雨の詩。
飢えた夜のあとで読む収穫祭の記録。
歌で歴史を覚える老婆の前で崩れた、自分の常識。
砂に描かれ、波に消えた子どもの物語。
自分が間違っていたと書くときの、手の震え。
そのすべてが、知識とは違う場所で、ナーショの中に積もっていた。
その後も、ナーショは旅を続けた。
北の氷原へ行き、南の島へ渡り、戦の跡地で名もない墓を数え、森の奥で地図にない湖を見つけた。
彼女の帳面は増え続けた。
やがて荷物が重くなりすぎ、彼女は記録を写本にして各地の図書館へ預けるようになった。
ナーショの名は、少しずつ広まっていった。
かつての「歩く書庫」としてではない。
王城に閉じこもった天才としてでもない。
世界を歩き、見たものを見たままに書こうとした者として。
旅に出て十二年目の春、ナーショは突然、帰国を決めた。
エマは驚かなかった。
焚き火の向こうで靴を乾かしながら、ただ言った。
「ようやくですか」
「もっと引き止めるかと思った」
「ナーショ様は、もう逃げるために帰るわけではありませんから」
ナーショは笑った。
「あなた、昔からたまに賢いことを言うわね」
「昔からずっと賢いです」
「そうだったかしら」
「ナーショ様が知らなかっただけです」
それを言われると、反論できなかった。
帰国したナーショを待っていたのは、懐かしい王城と、変わり果てた国だった。
王は老い、王女は女王になっていた。
王都は豊かに見えたが、地方には飢えがあり、書庫には古い知識が眠り、役人たちは前例ばかりを守っていた。
かつてのナーショなら、書物から答えを引き出しただろう。
だが、今の彼女は違った。
まず、外へ出た。
町を歩いた。
村へ行った。
市場で話を聞き、農夫の手を見て、職人の道具を触り、子どもたちの歌を記録した。
それから、書物を開いた。
書かれた知識と、生きている現実を照らし合わせた。
ナーショは女王の相談役となり、やがて国政を任されるようになった。
彼女は図書館を開放した。
王城にしかなかった本を写し、各地へ送った。
文字を知らない者のために、語り部の学校を作った。
旅人の記録を集め、商人の航路を整理し、農民の経験を学者に聞かせた。
神殿の書庫に眠っていた古い医学書と、村の産婆たちの知恵を合わせ、新しい治療法を広めた。
国は少しずつ変わっていった。
知識は、王城の中に閉じこめておく宝ではなくなった。
誰かを見下すための飾りでもなくなった。
人が生きるための灯になった。
女王が病で倒れた年、ナーショは次の統治者に選ばれた。
反対する者もいた。
血筋ではない。
貴族ではない。
若いころは傲慢で、王城の本の山の上で葡萄酒を飲んでいた変人だ。
そう言う者もいた。
ナーショは否定しなかった。
「その通りよ」
即位の日、彼女は民衆の前で言った。
「わたしは傲慢だった。本を読んだだけで世界を知ったつもりでいた。知らないことがあると認めるのが怖かった。間違えることが恥だと思っていた」
広場は静まり返っていた。
「でも、旅をして知った。世界は一冊の本に収まらない。人は誰もが、自分だけの書を生きている。王の役目は、それを奪うことではない。燃やすことでもない。読まずに踏みつけることでもない」
ナーショは顔を上げた。
陽の光が、彼女の髪に触れた。
「この国を、誰もが自分の一行を書ける場所にする」
そうしてナーショは、初代女王となった。
年月が流れた。
ナーショの国は栄えた。
図書館は市場の隣に建てられ、旅人の宿には白紙の帳面が置かれ、子どもたちは自分の村の歴史を自分たちの言葉で書くようになった。
ナーショ自身も、多くの書を残した。
旅の記録。
政治の記録。
失敗の記録。
誰かの言葉を借りず、自分の目で見た世界を、最後まで書き続けた。
晩年、彼女のもとを一人の若い学者が訪ねた。
学者は緊張した面持ちで尋ねた。
「陛下。伝説の書とは、本当に存在するのでしょうか」
ナーショは窓辺の椅子に座っていた。
もう本の山の上ではない。
足元には、きちんと整理された数冊の本と、一冊の古い帳面だけが置かれている。
ナーショは微笑んだ。
「存在するわ」
若い学者の目が輝いた。
「どこに?」
「あなたがこれから書くの」
学者は戸惑った。
ナーショは古い帳面を撫でた。
革表紙は擦り切れ、もう題名も読めない。
だが、その中には、かつて一人の傲慢な娘が世界へ出て、無知に傷つき、知恵に触れ、やがて自分の言葉を得るまでの旅が記されていた。
「誰かが生きて、見て、間違えて、考えて、それでも言葉にする。その人にしか書けない一冊が生まれる。そういう本を、人は伝説と呼ぶのよ」
「では、陛下の伝説の書は?」
ナーショは少し考えた。
それから、いたずらっぽく笑った。
「まだ書き終わっていないわ」
それが、ナーショの最後の冗談だったとも言われている。
何十年も、何百年も経った。
ナーショを知る者はいなくなった。
王城の形も変わり、国の名も少し変わり、彼女が歩いた道のいくつかは地図から消えた。
それでも、彼女の本は残った。
ある者は、それを旅の記録として読んだ。
ある者は、女王の自伝として読んだ。
ある者は、知ることの怖さと喜びを記した書として読んだ。
そして、いつしか人々はその本をこう呼ぶようになった。
伝説の書。
ナーショの書、と。




