7話 涙
色々考えこんでしまって複雑な顔をしていたらしい僕を見て、ついに桜の瞳からはらはらと涙が溢れだしてきてしまった。
拭うことも忘れて呆然と涙を零す彼女の姿が、無性に絵になっていて、僕は目を逸した。
桜の事だから、さっきまでは状況に飲まれて気丈に振舞っていたけれど、この場所には僕しかいないから緊張の糸が解けたのだろう。
僕の余計な言葉が追い討ちになった事は言うまでもない。
「さく、」
「大丈夫、大丈夫! ちょっとびっくりしちゃっただけ。まだ絶対帰れないって決まったわけじゃないよね」
「お、おお。そうだよ。それに桜が本気で帰りたいと望むなら、どんな手段を使ってでも僕が元の世界に帰してやんよ」
何故か、勝手に口が動いていた。
現時点でなんの力もないし、今後何らかの力を手にできるという確証もないのに、どうしてそんなことを口走ってしまったのか。さっき余計なことを言って後悔したばかりだろ、やっぱり馬鹿なのか僕は。
無責任。口ばっかり。そんな言葉が頭を過る。口先だけの慰めなんて、なんの価値もないわ。
それでも桜は、笑ってくれた。驚いたようにパチパチと数度まばたきをした後、息を吐き出すように。
瞳に溜まっていた涙が一筋こぼれ落ちて、ハーブティーの入ったカップへ波紋を作った。
泣いたって何の解決にもならないことは彼女も分かっている。例の体質のせいで幾度もトラブルに巻き込まれたり巻き起こしたりしてきたんだから。
ま、でも、流石に異世界なんかに来てしまったら、誰だって涙の一つや二つぐらいでてしまいますわな。
あっ、そう思ったら僕もなんだか涙が! 涙が! 出てきた気が!
「ふふ、奏夜ってば頼もしい。奏夜なら本当になんとかしてくれそうって思うよ」
「なんだよそれ、買いかぶりすぎだろ。やめろよ」
「あっ、照れてる! かわいー!」
「どこが!?」
訳の分からん事を言う桜に、チョップを食らわせる。この子の目は節穴か。どこに可愛い要素があったんだよ。
あいた、とわざとらしく反応して頭を抱え、こちらを若干恨みがましく見てくる桜を横目に、椅子に座りなおしてぬるくなったお茶を啜る。
爽やかな柑橘系の香りが、気分をリフレッシュさせてくれるような気がした。
文句を垂れながらもお菓子をぱくつく勇者様を無視して、淡い水色のイチゴみたいな果物がのった一口サイズのタルトを口へ運ぶ。
酸味の強い果物を濃厚で甘いクリームが中和していて、スッキリとした後味が食べやすい。
拗ねたように口を尖らせていた桜が、不安げな表情で「奏夜は、私と一緒にいてくれる、よね?」なんて尋ねてくるものだから、油断していた僕はろくに考えもせず「できる限りは」と答えていた。
一緒にいてやれるかどうかはさっぱり分からん。
勇者な桜と、魔族かもと思われている僕じゃ一緒にいられる気がしないし。
僕が黒髪だとバレれば、どう考えても桜の取り巻きになるであろう王子様とかから敬遠される。
なんで髪が黒いってだけで、魔族だなんだと言いがかりをつけられてコソコソしなきゃならないんだ。
人種差別だ! 人権侵害だ!
「はあ、髪染めようかな……」
「急にどうしたの?」
「いや、諸事情で黒髪じゃ不都合があって。髪染めが無理なら最悪スキンヘッド、かな……」
「えっ、それは絶対だめ! 奏夜がスキンヘッドにするなんて、わたしが絶対に阻止するから!」
お、おう。
どうしたんだよ急に。
僕も出来ることならスキンヘッドにはしたくはないけど、でもこの世界で少なからず過ごしていくなら、この黒髪はどうにかしなければならないんですよ。
謎の使命感に燃えているらしい桜をどうどうと宥めつつ、黒髪を隠す方法を思案する。
髪を染めようにも染髪に必要な道具が何もない今、現実的に考えてそれは実現可能とはいえない。
一番簡単なのはパーカーのフードで隠す事だけど、それでも黒髪をすべて隠しきる事は出来ないし。
ま、明日にはこの部屋から出る必要があるから、コンさんが何か対処法を考えてくれているはずだし、とりあえず彼に任せるか。
正直僕はもう手詰まりだ。出来るのはパーカーのフードで隠すくらいだな。
「桜、お茶のおかわりいる?」
「ん、欲しい。ありがと! このお菓子も美味しいんだけどさ、わたしは奏夜の作ったお菓子の方が好きだなあ。なんだか優しい味がして」
「お菓子が優しい味ってなんだ。砂糖が足りないってか」
「違うよ!」
ハーブティーを注いだばかりのカップに口をつけて一口飲んだ桜が、ぼやっとした褒め言葉を口にした。
確かに僕の作るお菓子は甘さ控えめなものも多いけど、おかーさんが甘い物そんなに得意じゃないんだから仕方ないじゃないか。
「上手く言えないんだけど、なんかね」
「サクラ様ああああ!」
言葉を遮るように部屋の扉が派手な音を立てて開けられ、桜の名を叫ぶ気弱そうな白いローブの男が入ってきた。
それを確認した瞬間、慌ててブレザーから袖を抜き、まるで事件の被疑者のようにそれを頭から被った。
如何にも怪しいが、黒髪を見られるよりは多分マシなはず。
しかし、そんな心配も杞憂で、男は僕の姿なんか目に入らないようだった。一直線に桜の元へと近寄り、跪く。
そして桜の目元がやや赤くなっているのを目ざとく見つけた白ローブの人は、必要以上に狼狽した。
「サ、サ、サクラ様、目元が……ど、どうなさったのです? も、もしかしてお怪我でもなさったのでは……申し訳ありません、私が目を離したばっかりに」
「いえ、違うんです。すみません、黙って部屋から出てきてしまって」
「そ、そんな! サクラ様は何も悪くないのです。ただ私めがサクラ様にもしものことがあったらと心配で心配で」
〝もしものこと〟とやらを想像したのか、男はさめざめと泣き始めた。桜はそいつを慌てて慰める。
僕はというと、すっかり蚊帳の外である。
そっと椅子から離れて、ベッドの陰に身を隠す。この分だと最後まで僕に注目しない気がするけど、念のため。
コソコソしていたら桜には気づかれて怪訝な表情をされたけど、口元に指を当てて黙っとけと伝えた。一応頷いていたから意図は理解してくれたはずだ。
この気弱そうな男も、勇者のパーティメンバーなんだろうか。こんなすぐ泣く奴、役に立つようには見えないけど、人は見かけによらないというし。
僕はベッドに寄りかかって膝を曲げ、耳に手を当てた。なんでかこれ以上、勇者な桜と白ローブの会話を聞いていたくなかった。
しばらく待って、そろそろ二人は出ていくだろうかとベッドの陰から覗けば、ちょうど部屋を出て行こうとしているところだった。
桜は白ローブの人を先に部屋から出すと、忘れ物をしたというようなノリでこちらへ近寄ってきた。
「奏夜。わたしはこれからレイくんにお城の中を案内してもらうみたいなんだけど……奏夜はどうする?」
「僕はやめとく。多分面倒なことになると思うから。あ、行く前にそのパーカーとこのブレザー交換してくれ」
「了解! 残念だけど奏夜の分までしっかり見てくるからね。それじゃあ、いってきます。また後でね!」
手短に話を終わらせてパーカーとブレザーを交換し、桜は小さく手を振って部屋を出て行った。
さてと、桜たちもいなくなった事だし、まずはこのベッドの上を片付けますかー。
リュックからぶちまけた勉強道具諸々でごちゃごちゃしているベッドを眺めて、うんざりした。誰だよこんなことしたやつは! ……って僕か。
凄い有様だったからこりゃあ大変だと思ったものの、元々入っていたものをぶち込むだけだったから想像してたよりもすぐに片付いた。
早々に暇になってしまった僕は状況を整理するために、さっきの話を紙にまとめておくことにした。
桜から聞いた話をルーズリーフに書き込んでいくと、小説か何かのネタを書き出しているようで僕の厨二精神が疼いてきたが、確固たる意思でもって封印しなおしておいた。まだコレを解放する刻ではないのだ。
丁寧にまとめていたわけではないからサクサクと書き込み終わってしまい、僕の思考はこれからの考察に移行した。
スマホの時計を確認したら、始めてから三十分くらいしか経ってなかった。
向こうの世界とこちらの世界では時間の流れが違うかもしれないし、実際のところは分からないが、体感的にはだいたい同じくらいかな。
勇者として召喚された桜は、さすがに今すぐ魔王を倒してこいとかいう鬼のような無茶ぶりはされないだろうから、修行のターンがあることは確実だ。
この国は現在魔王に襲われていてヤバいという訳では無いみたいだしな。
なんにせよ、まずは召喚初日に王様と会うイベントがあるはずなんだが、王が不在なんてまったくもって訳が分からない。
先読みができないのは、不安で仕方ないぞ。
メインの桜はそれでもなんとかなるからいいのかもしれないけど、オマケの僕は展開を先読みでもしないときっとすぐ死んでしまう。
平和な日本の高校生だぞ、サバイバルなんて出来るわけがなかろう!
「いや、考えてみたら、僕の日常も結構サバイバルだったかも」
今日の放課後に硬式ボールが顔面めがけて飛んできたこととか、いつもやけに植木鉢が頭上から降ってきたこととかを思い出す。
魔王なんかがいる世界の危険度はそんなのの比じゃないことは分かっているけれど、なんだか少し気が楽になった。
桜が大丈夫そうなら、僕は帰る方法を見つけ次第、迷わず元の世界に帰るつもりだ。
巻き込まれただけの僕にはこの世界に居続けなければならない理由も、魔王を倒す責任もないからな。
それに、向こうの世界でやり残したことがたくさんある。『しすこんっ!』の最新作だってまだプレイしていないし、見たい漫画もアニメもどんどん増える。
なにより、何も告げないままおかーさんとおとーさんにもう会えなくなるのは嫌だ。
おかーさんとなんて今日は顔を合わせてさえいないのに、そんな別れはあんまりだ。
幼馴染を置いて自分だけ帰ろうだなんて我ながら薄情だと思うが、やっぱり我が身が一番かわいいのである。
多少の不安要素は残っているものの、彼女は皆に愛され皆を愛し、魔王を倒して世界を救う。そんな希望の勇者様になっていくのだし、きっと大丈夫。僕の心配してることなんて杞憂に終わるに決まっている。
頬杖をついて、そんな取り留めの無い事を考えていたら何故だか視界がぼやけてきたから、眉間にぐっと力を入れて、目を瞑った。
目から溢れ出ようとするそれを堪えていたら、突然、頬にヒヤリと冷たさを感じて、反射的に身を引いた。な、何!? 敵襲!?
いきなりの事に動揺していると、逃がすまいと伸びてきた手が慈しむみたいに頬を捉えて、流れ落ちた水滴を優しく掬っていった。
突然部屋に現れた誰かに警戒心を抱くものの、うまく体が動かない。
滲む涙を拭うことさえもできなくて、夢の中にいるみたいにふわふわする。何も考えられなくなってきた。
ぼんやりした意識の中、手の主をやっとのことで視界に捉える。
見たことのないひとだった。綺麗なひとだった。
ただ、艶やかな銀色と、ふたつの澄んだ薄紫色だけがひどく印象的だった。
「……ソウ、ヤだ。ちゃんと触れる、体温もある、本物の。嗚呼……会いたかった、ずっと」
「あなたは、だれ?」
穏やかで凪いだ薄紫色の瞳を持つそのひとは、僕の言葉に傷付いたような歪んだ表情を浮かべ、曖昧に微笑んだ。
ああ、どうしてそんな顔をするんだ。
心臓が素手で掴まれたみたいに痛くて、苦しい。
僕の両目をつめたい手のひらで覆って、その人はポツリと呟いた。
「また、会いに来る」
結局、銀の人が僕の質問に答えてくれることは、なかった。