2.
のんびり書いてます。
ズマガンマの帰還
テメラの町外れの小さな酒場に一人の男が、扉のないアーチ型の入り口を潜って姿をあらわした。
茶色のフード付きマントを羽織った痩せた男だった。皮膚は蝋のように白く、青ざめた若者だった。
彼は、狭く薄暗い店内を見渡した。客は二人。一人は傭兵くずれらしい顔に傷のある大男で、若者をうろん気に睨みつけていた。もう一人は店の奥でテーブルにもたれて酔いつぶれていた。
青ざめた若者はそれを確認すると、カウンターに歩み寄り店主に言った。
「水をくれ。バケツ一杯だ」
尖った鼻の下に白い口髭を生やした店主は言った。「水なら無料ですぜ。だが自分で汲んできな」
「これでは不足か」と、若者はコインを一枚、カウンターに載せた。
「ほう、こりゃ珍しい、千バリン銀貨だ」店主は銀貨を灰色の目に近づけていった。
千バリン銀貨と聞いてテーブル席の傭兵くずれがぴくんと両肩を動かした。千バリンは大金で、銀貨となれば額面以上の価値があった。
「さ、水なら好きなだけどうぞ」店主が水を満たしたバケツをカウンターに置いた。
若者はバケツを手に取ると、奥で酔いつぶれた男に近づき、おもむろに水を浴びせた。
「うわっ、何だ、何だ」
全身ずぶ濡れになっって目を覚ました男は、黒いチョッキを着た体を震わせて喚いた。
「盗賊のゲッチェンというのはお前か?」若者が聞いた。
「あ、ああそうだよ。何だってんだ!?」
「カルコサのルビーの在り処を知っているな?」
「カ、カルコサの、ルル、ルビーだと……」
「そうだ、お前は知っているはずだ」
「いや、知らん、知らんぞ、そんな物は!」
ゲッチェンははげしく首を振った。
「お前は知っているはずだ。武器商人のガイスタから聞いたぞ」
「ガ、ガイスタだと……」
「そうだ。お前はガイスタにカルコサ・ルビーを盗みに行くと話したはずだ」
「し、知らんと言ってるだろう。何も話すことはない!」
「どうした、震えてるじゃないか。酒が飲みたいのか?」
「酒……」そう言われて、盗賊ははじめて若者をまともに見返した。
茶色のマントの若者は指を鳴らして店主に告げた。「酒だ。月霊酒がいい」
「へい、あの、お代は……?」
「先刻の銀貨で足りるだろう」
「へ、そりゃそうで」
店主が持ってきた杯を若者は受け取ると、それをテーブルに置いた。
ゲッチェンが思わず手をのばすと、さっと取り上げた。
もの欲しそうに見上げる盗賊に若者は言った。
「カルコサ・ルビーの場所だ。言えば好きなだけ飲ませてやる」
「う……、そ、それは、あの、ノルングの谷……」
「ノルングの谷、そのどこだ?」
「あ、青い塔。そこに住む男が持っている」
「ノルングの谷の青い塔だな」
盗賊は杯を見つめたまま何度もうなづいた。
目の前に月霊酒を満たした杯が置かれると、あっという間に飲み干した。
そして彼はフウとため息を吐くと、不思議そうに両手を見つめた。
「何だこれは」盗賊のゲッチェンは言った。
彼の両手は黒い靄に包まれつつあった。
「うわ、ああぁっ!」
うごめく影がゲッチェンの体を飲み込みはじめた。
「お前、毒を飲ませたな!」背後で傭兵くずれの男が言った。
「ちがう、これは呪いだ。ルビーの秘密を他人に知らせぬよう呪いが仕掛けられていたのだ」
黒い影はゲッチェンをすっかり喰いつくすと、今度は若者に向かってきた。
だが、若者は落ち着いて一歩さがると、左の掌をかざして「デリル!」と叫んだ。
すると、たちまち影は霧のように散らばり、消えた。
「ズマガンマの呪いか……、あらかじめわかっていれば助けてやれたものを。この男、大方、ルビーを盗みには行ったが失敗し、呪いを受けて戻ってきたのだろう」と青ざめた若者はつぶやいた。
彼は呪いにはとても詳しかった。彼の祖国ザイファーは、今、国土全体が恐るべき呪いに冒されているのだ。それは、黄死病の別名でも知られる《黄衣の王の呪い》だった。国王である彼の父もこの呪いによる病に倒れていた。呪いを解く方法はただ一つ、カルコサ・ルビーに秘められた魔力を用いるしかないのだった。ルビーを求め旅する者。放浪の王子ソルーサ、それが彼の名だった。
王子ソルーサがその場を立ち去ろうとすると、傭兵くずれが腕をつかんで止めた。
「なあ、あんちゃん、あの銀貨まだ持ってるんだろう?」
「それを知ってどうする」
「おれにも一杯おごってくれよ」
「断る」ソルーサは腕を振りはらった。
「ふん、この町を無事に出たければ、おれを怒らせない方がいいぜ」
傭兵くずれは思わせぶりに剣の柄に手をかけた。
「店の外で私の友人が待ってる」王子は言った。
「それが、どうした?」
顔に傷のある男がそう言い終えた途端、テーブルの真ん中へ斜めに矢が突き立った。
扉のないアーチ型の入り口を通して、おもての街路に馬に乗った灰色のマントの人影が見えた。「友人は弓の名手だ。次はお前の心臓を射抜くだろう」
傭兵くずれの大きな体が震えだした。
「そ、そうかい、いや、おれの言ったことは忘れてくれ。ただの冗談だ」
「命は大事にすることだ」と、言い残しソルーサは店を出た。
彼が馬に飛び乗って駆け出すと、灰色のマントの騎手が寄り添ってきた。
フードの下の顔は黄土色の毛におおわれ、口元には牙がのぞいていた。
この男、半獣人の弓使いで名をバキズといった。彼は、荒野で魔物に襲われ、絶体絶命の危機にあったところを、旅の途上のソルーサ王子に救われて以来、自ら第一の家来と任じて同行しているのであった。
「王子よ、成果は?」
「あった」ソルーサはぶっきらぼうに答える。
「ルビーの在り処が?」
「ああ」
「で、どこなんで?」
「とりあえず宿を探す。話はそれからだ」
王子は馬を蹴って速度を上げた。
翌朝、ソルーサとバギズは早くから宿屋を出て、ガロスの森へと馬を走らせた。
ノルング谷はアリセアの町の先にあり、そこへ行くにはガロスの森を抜けていくのが近道、そう宿の主人に教えられたのだった。
ほどなくして二人は、昼なお暗い森の入口へと辿り着き、さらに奥へと馬を進めた。
前方に緑の苔に覆われた大きな岩があった。道は左へ迂回するようにつづいている。
そこでバギズはぴくりと背筋を伸ばした。フードをはねのけると、先の尖った耳をひくひくと動かした。
「どうした?」と王子はたずねた。
「何か聞こえる。岩の向こうだ」
馬の足を止め、耳をすますと王子にもかすかな声が聞こえた
「旅人よ……ここへ来てくれ……助けてくれ……」
かすれた声がそんな風にくりかえしていた。
「行ってみるか」ソルーサは言った。
「また、王子のおせっかいだ。放っておいて先を急ぎましょうや」
「私がおせっかいでなければ、お前も今頃は荒野で骨となっているところだ」
「ええ、まあ、そりゃそうで」
岩の右側に、獣の通り道のような、植物がトンネル状になったところがあった。
馬では通れないので、手綱を木の枝に繋ぐと、二人は徒歩で緑のトンネルへ踏み込んでいった。
岩の裏側あたりへ抜けていくと、背の高い枯れ木があった。そこに縛り付けられているような人の姿が見えた。
頭髪のない褐色の皮膚の痩せこけた男で、ぼろ布をまとった服装からすると僧侶のようだった。
近づいてみると、その男は木に縛り付けられているわけではなかった。手足が枯れ木に溶け込んだように一体化してるのだった。
「これは……!?」
ソルーサは驚いて足を止めた。
「まるでムンバの化木人じゃないか」とバギズ。
痩せた男がうなだれていた顔を上げた。
「おお、旅の方か……、助けに来てくれたのか?」
「私の名はソルーサ。お主はなぜこのような目にあっているのだ?」
「わ、私はコウ=クグと申す僧侶です。この辺りでは雌豹の妖魔が出て旅人を惑わせているという噂を聞いて、退治しに参ったのですが、私では力およばず、雌豹の魔力に敗れ、このような次第に……、どうかお助けを、報酬もはずみますので……」
「お、報酬。そうこなくっちゃ」バギズが言った。
「で、その雌豹とやらはどこに?」王子は聞いた。
「この奥の小径を進んで行けばいずれ姿をあらわすでしょう。雌豹が倒されれば、妖術も解け、私の身体も元へ戻るはず……」
「この小径だな。では行ってみよう」
「かたじけない。どうかお気を付けて」
二人は僧侶コウ=クグが埋め込まれた枯れ木の背後に回り、その先に続いている小径を進んでいった。
しばらく行くと、草木に覆われて道はなくなっていた。それでも枝をかき分けながら前進すると、やがて木漏れ日の射した大きな泉のある場所へ出た。紫色の小さな蝶が舞い飛んでいた。周囲のあちこちには濃いピンク色の花が咲いていた。
「あれは薔薇だ。こんなところに珍しい」
そう言ってバギズは花の集まったところへ近づいて行った。
「気をつけろよ」ソルーサが声をかけた。
「あっ、この薔薇、動くぞ! うわっ、あぁーっ!」
バギズは悲鳴を上げた。彼は、怪物の触手のように伸びだした薔薇の茎に、全身を絡みつかれていた。
「痛えよ。棘が刺さってるよ。痛えよ」
「下手に動くな。今助けてやる」
ソルーサはそちらへ歩み寄ろうとしたが、足が動かなかった。見ると彼のブーツをはいた足首にも、地面から伸びた薔薇の茎が絡みついていた。
彼は剣を抜き、茎に切りつけようとした。
その時、「フフフフフッ」という女の嗤う声が聞こえた。
大きな木の枝の上から、一頭の黒い豹が王子を見下ろしていた。
「何者だ?」
黒豹は枝から跳躍すると、空中で一回転して地面に降り立った。すると姿が変わっていた。下半身と前肢は豹のままだが、胸から上は乳房も露わな人間の女で、白い皮膚に長い黒髪、赤い唇と大きな眼を持っていた。
「ここは妾の森じゃ。人間が立ち入ることは許さん」人間豹は甲高い声で言った。
「雌豹の妖魔か」
「妾の名はエルリオラじゃ」
「ではエルリオラよ、われわれをどうする気だ?」
「ふん、お前ら二人とも木に変えてやるまでじゃ。あの坊主と同じようにな」
「やめておけ、この程度の幻術で私には勝てぬ」
「それはどうかな。フーッ」豹の妖魔は威嚇する獣の唸りを上げると、ソルーサに飛びかかった。
鋭い爪が手の甲を引き裂き、剣を弾き飛ばした。
ソルーサは足首を薔薇に縛められ剣も失ったが、それでも落ち着いていた。
「そちらがその気なら、仕方がない」そう言うと、王子は左手をかざし、小声で素早く呪文を唱えだした。最後に鋭く「デリル!」と叫ぶと、青白い光の矢が飛び出した。
その光は、間合いを測るように右往左往していた雌豹の左肩を直撃した。
「ギャーッ!」と叫んで飛び上がるとエルリオラは黒豹の姿に戻り、猫のように飛び跳ねながら逃げ去った。
すると薔薇の花も消え、ただの灌木の茂みになっていた。ソルーサの足も自由になった。
「やれやれ、助かった」バギズが茂みから抜け出してきて言った。「これであの坊さんも元に体になったかな?」
「ああ、戻ろう」
二人が枯れ木の立っていた場所へ戻ってみると、木は消え失せ、手足の回復した僧侶が地面に倒れていた。
「おい、しっかりしろ」バギズが痩せこけた僧侶を抱き起した。
「おお……、よくご無事で……」コウ=クグが意識を取り戻して言った。
「大丈夫か」とソルーサ。
「ええ、どうやら私は永く生き過ぎたようだ……魔術の力で命を永らえていたのです。しかし、もう……、あなた方のおかげで安らかに死ねる……感謝しますぞ」
コウ=クグはしずかに目を閉じた。
「おっ、おい!」バギズがその体をゆすって言った。「あんた、報酬はどうしたんだよ!」
するとコウ=クグは目を開けていった。「私は高徳な僧侶なのだ。遺灰が高く売れるだろう……私の体は……、死ねば、灰になる……」
その言葉通り、僧侶の体は息絶えると同時に砕けて灰になっていった。灰はたちまち風に吹き散らされたが、バギズの手の中にも一つかみだけ残された。
「僧侶の遺灰が高く売れるなんて、本当ですかね?」バギズは王子に聞いた。
「さあな、まあよいではないか。町を目指そう」
バギズは手の中の灰を予備の革袋に詰めて持っていくことにした。
二人は馬に乗り、森の道を先へ進んだ。