ひとつの小説を完成させるまでの指導
私は夕食を済ませると、その日、最後の依頼先へと向った。
世の中には、無数の小説書きが存在する。
プロも、アマチュアも、自分のために書いている人も、読者のために書いている人も、ファンタジーやSFを書いている人も、サスペンスに、ホラー、恋愛、不条理小説、自分の過去を振り返ってそれを小説にしている人だっている。
けれども、そのほとんどは、途中で書くのをやめてしまう。その中の多くの人は、1作の作品を完成させることすらできやしない。
サノさんやカメヤマさんなんかは、まだマシな方なのだ。最初の1文字を書き始め、ちゃんと最後の1文字まで書き終えることができている。おもしろいとかツマラナイとか、自分で満足できたとかできないとか、読者の受けがよかったとか悪かったとか。そういうのを除いたとしても、最後まで完成させる能力を持っているのだから。
その何倍も何十倍もの人が、ひとつの小説を完成させられずに苦しんでいる。
私は、そういった人たちにアドバイスをする仕事もしていた。
作品を読んでもらうためには、まず自分の作品を完成させなければならない。そこまでの能力をつけられるように、いろいろと指導をするのだ。
これから向かう先も、そういったお客さんのところだった。
*
「アラ~、ミカミカさん。いらっしゃい。お待ちしておりましたわ」
玄関に迎えに出てきてくれたのは、30代の主婦。この人が今回の依頼者だ。とはいっても、私が教えるのは、この人ではない。
チョコンと、母親の陰に隠れて顔を出している小学3年生の男の子。シンジ君。
私の仕事相手は、彼の方。
「さあ、じゃあ、さっそく始めましょうか?前回出した宿題を見せてもらえるかな?」
シンジ君の部屋でふたりきりになると、私は家庭教師の先生みたいに、そう話しかけた。
オズオズとした動作で、自分で書いた原稿を手渡ししてくるシンジ君。今どき珍しく、手書きの原稿だ。
「え~っと…じゃあ、読んでみるわね」
原稿用紙の枚数で9枚ほど。小学生らしい乱れた文字で、なかなかに読みにくい。でも、私はがんばって読み進めていく。
「フ~ム、なるほどね」「ホェ~!」「ははぁ、そっか」などと声を上げながら読み進めていく私、ミカミカ。
読みながら、手にした赤ペンで、あきらかにおかしい文章や誤字脱字などにチェックを入れていく。
相手は子供なので、あまり難しいコトを要求しないように気を使いながら。修正点が多すぎると、書くのが嫌になってしまうのだ。
「うん!非常によくできてるわよ!シンジ君らしさが出ていて、とてもおもしろいわ!」
私の言葉を聞くと、シンジ君はようやくホッとした表情を見せた。
それから、大まかな感想を言って、細かい修正点を伝えていく。ここでも、あまり口うるさくなりすぎないように。
「誤字脱字は赤ペンでチェックしておいたから、あとでまとめて見ておいてね♪」などと言って、ひとつひとつ細かく追求したりはしない。
正直、この子には才能があると感じていた。
他の多くの子供たちと同じように、素直で純粋でいい小説を書く。もちろん、技術的にはつたないけれど、大人にも負けない立派な作品を書いていると思う。それに、技術の方は書き続けていれば、どうとでもなる。才能の方は、なかなかそうはいかない…
なぜだかわからないけれど、人は大人になるにつれ、子供の頃に持っていた貴重な才能を失っていくのだ。いや、なぜだかはわかっている。理由は、確実に存在する。
そんな風に考えていると、トントントンとドアをノックする音がして、シンジ君の母親が入ってきた。
あたたかい紅茶とケーキの載ったお盆を手にして。
「あらまあ、がんばってるみたいね~!ミカミカさん、どうですか?シンジは?将来、立派な小説家になれそうですか?」
「それは保証できませんけど…でも、純粋でとてもいい小説を書いていると思います。読んでいて、ワクワクします!」
「それは、よかった!将来は、芥川龍之介や太宰治のような立派な小説家になってもらわないと!」
「え、いや、それは…」と、言葉に詰まる私。
誰しも“資質”というものがある。誰も彼もが、望んでいるタイプの作家になれたりはしない。それも本人が望んでいるならまだしも、周りの人間が無理矢理に型にはめるようなものではないのだ。
しかも、芥川も太宰もふたりとも小説の世界に没頭し、悩みすぎて、最後は自殺した人だ。それをわかっているのだろうか?
そう!原因は、この人!シンジ君の母親なのだ!
「でも、おかあさん。小説っていうのは、伸び伸び書いている時が一番なんです。自由に心のおもむくままに、そんな時に書いた作品が一番いい小説になりやすいんです」と、わたしはやんわりと伝えてみる。
「駄目!駄目!そんなのは、どうでもいいの!とにかく、立派で有名な小説家の先生になってもらわないと!そのために、高いお金も払って指導してもらっているんですから!」
ほらまた、これだ。
そう言われてしまっては、私も何も言い返せない。なにしろ、料金を払ってくれているのは、シンジ君ではなくて、このお母さんの方なのだから。
“もったいないな”と、私は思った。
このまま自由に書き続けていれば、きっと、この子はいい小説を書けるようになる。プロになれるかどうかの保証はできない。でも、人の心を打つ、素晴らしい小説が書けるようになるだろう。
学校で学び、友人たちと楽しく過ごし、恋をして、挫折して、立ち直って。そういった経験が、この子をさらに成長させてくれるだろう。それらは、きっと糧となる。いい小説を書けるようになるための糧と。
でも、ここで四角四面な指導をしてしまったら、それらは全部無駄になる。破壊されてしまう。せっかくの才能はガシガシと音を立てながら削られていってしまうだろう。
この子には味方が必要なのだ。たとえ、世界中が敵に回ったとしても、それでも信じてくれる最高の味方が。それは、一番身近な人になってもらうのがいい。それが、母親の役割というものなのに…
そんな風には思ったが、さすがにそこまでは口にはしなかった。
お金を払ってくれていたのは母親の方だったし、それぞれの家庭にはそれぞれの教育方針というものがある。
「もったいないな…」と、思いながらも、それ以上は介入しないようにしていた。
私にできるのは、その環境の中でも、できる限りこの子の才能を伸ばしてやることなのだ。少なくとも、“自由に小説を書くことの楽しさ”だけは伝えておきたかった。そういうのは、1度失われてしまってたとしても、心のどこかに残っていて、大人になったある日、突然蘇ってきたりするものなのだから。