山羊は狼と取引しない
<1>
八木はその店で常連として店主に記憶されていた。
「いらっしゃいませ」
「おはよう。さむいねぇ」
八木は朝刊を小脇に挟んで、冷えた手を擦るとトングとトレーを手に取って、店を時計回りに歩く。店主は焼きたてのバケットを並べながら、今日も八木はミートパイの前で立ち止まるだろうと思った。
その予測通り、八木はミートパイの並ぶ棚の前で止まり、手慣れた手つきで三角形のパイを2つ自分のトレーに置いた。
「毎日よく飽きないですね」
「作ってる人が言う?それ」
ミートパイ2つ、200アロイ。八木は500アロイ札を出し、100アロイ硬貨三つをポケットに入れる。
「他のも買って欲しいって意味ですよ」
「私は執念深くてね。これと決めたら。ずっと追い続けるのさ」
「婚約者もそうやって手に入れたんですか?」
店主の目が、八木の薬指を見つめる。
「まぁね」
八木がいつも来る朝の早い時間は、客がまばらで店主も手すきなことが多い。そんな中、よく買いに来てくれる客だからと、店主は八木に気さくに話しかけていた。八木も都会育ちと言う割には気さくで、店主との雑談に応じるのが朝の日課となっている。
「まぁ結婚するのはいいとして、この先父親になるとか考えると少し気が重い。そういうの上手くやっていく自信がないんだよ。何かアドバイスある?先輩として」
「子供が赤ん坊の時は、自分にできる事は殆どないと考えてください。それよりも、カミさんの機嫌に気を配らなきゃ」
「うわぁ、リアルだね。それ」
「うちはもう22人産んでます。グールは子沢山な物で」
店主の肌は、八木と比べかなり灰色がかっていた。毛髪らしい毛髪は無く、口を閉じていても犬歯が口の隙間から這い出る。
「たくさん食べるだろう?子供って奴は」
「えぇ…まぁ…」
食事の事を聞かれると、店主はバツの悪そうな顔をして、視線を紙袋に移す。
「私はあまり気にしてないよ」
「ですが、私達の食事は人間の肉ですよ?他の種族に比べて、私等は嫌われやすい」
「食べているのは引き取り手の無い死体だろ?最近は役所も、代理埋葬をしなくなった」
「持ちつ持たれつというわけですか。そう受け取ってもらえるなら、ありがたいです」
「考えすぎだよ。時代は変わった」
「えぇ…確かに。でも、私は彼これ400年生きています。こんな世の中になる前の時代もよく知っています」
「時計の針は戻らないよ。もし今より悪くなったとしても、もう誰も君らを傷つけないだろう。…パイが食えなくなる」
店主は苦笑する。
「またどうぞ」
「また来るよ」
そう言って八木は店を出て行く。
時計の針は戻らない。そう店主は八木の言葉をつぶやいた。
それから幾ばくの時間が過ぎ、店の中は客がひしめき始める。客は異人種も多いが、人間の姿もある。確かに時代は変わったと店主は認めつつ、置いた傍から無くなっていくパンの補充を焼き続ける。レジは妻と20番目の娘に任せた。
グールがパン屋をやるなど、以前の時代では笑い話にすらならなかった。だが、今は違う。400年前、人間とは永遠に戦いあう運命にあった。それが300年前、敗北という形で終わり、人間の打ちだした共存共生という建前の、差別が渦巻く世の中になった。しかし、ここ200年。徐々にだが状況はまた変り始めている。
グールを初めとする、異人種は最早、何処にでもいるありきたりな存在となった。人間はそこにいる、自分とは異なる人種を、異と思う事も無い。異交配が可能ならば、異人種と人間との結婚すら正式に成立する。それが出来なくとも、長く連れ合う者もいる。
それも、これも。人間という生き物が、異人種よりも遥かに短命な種族で、弱い存在であったからだ。もし仮に異人種に対する、一生の恨みがあったとしても精々70年程度の期限でしかない。そもそも一生恨みを背負って生きていける程、強い生き物ではない。その次の世代は、親の意志を引き継ぐとは限らず、別の新しい発想を受け入れる。弱いが故、苦しみをもたらすような執念よりも、合理的で快適な思想を重視する。つまり順応性がある。
そんな人間の作る社会の中で、店主たち異人種は縫うように生きて来た。敗北を通じ、人間を恐れさせれば、自分たちに向けられる凶器に変わると知ったからだ。だからこそ、怯えさせず、怖れさせず、静かに密かな暮らしを続けていった。そして気が付けば、人とは違う力や姿にも、人間は徐々に順応していった。八木などはいい例だろう。
異人種は人間を傷つけない。人間も異人種を傷つけない。
このルールを守りさえすれば、人間は異人種を受け入れ、また異人種も人間を受け入れる。その背景があって、グールのパン屋という光景は成立する。
<2>
昼過ぎとなった。パン屋に一本の電話がかかる。
「え!本当ですか?えぇ、はい」
店主の妻が、電話口で驚いた声を出した。その目には怯えたような光が映っている。
店主が作業の手を止めて、妻の元に歩み寄る。妻は電話先に、何度も丁寧にお礼を言い添え、受話器を置いた。
「どうした?何かあったのか?」
妻が店主の声に振り返る。
「アンナが怪我をしたって、今学校から」
「怪我?」
「3階から落ちたんですって、迎えに行かないと!」
「待て、俺が行く。お前は店を頼む」
店主は作業着のまま車に乗り込むと、そのまま学校に向かった。
学校の3階なら、30メートル程度だろうか。その程度の高さ、グールの子供なら大した怪我ではない。そう思いつつも、店主はまず自分の目で娘の怪我を確かめたかった。
アンナは22番目の娘で、店主夫妻の子供の中で生存している4人の子供のうちの1人だった。他の18人の子供は、人間との戦いや貧困にあえいでいた時代に死んだ。そのせいか妻は、今の子供たちを溺愛しているし、傷ついたと知れば何よりも悲しむ。妻に不必要なショックを与えない為にも、まず自分が駆け付けた方が良いだろうと、店主は急いだ。
車を校舎のそばにつけると、直ぐに校長が現れ、店主に深々と謝罪をする。
「責任の話は後で結構です。それよりも娘は?」
「今、担任のクアーリ先生と一緒に保健室に居ます。こちらです」
校長の先導で、店主は校内に入る。調度休み時間なのか、廊下には生徒がひしめいており、リザードマンの子供が天井に張り憑いて、ふざけている。本来なら注意すべきなのだろうが、校長はそれに構わず、店主を保健室まで連れて行った。
「アンナさん、お父さんが来られましたよ」
校長がそう言って保健室のドアを開く。店主は失礼と断りを入れ、校長を避けて保健室の中に入った。窓を背にベットに腰かける娘。その傍らに寄り添う担任の教師。娘の額に目をやると、ガーゼが張られ、黄色いグールの血が滲んでいるのが見えた。
「アンナ!」
店主は娘に駆け寄る。そして、大丈夫か、痛みは酷くないかと、矢継ぎ早に声をかけた。
「申し訳ありません。友達に3階から飛び降りて見せようとして、着地に失敗したようで…」
隣の担任の教師がそう言って、深々と頭を下げる。クアーリという担任を、店主もよく知っていた。半年ほど前に赴任してきた、歴史担当の教師で、熱心な先生だと感心していた。アンナもこの教師の事はよく好いていた。
アンナは思っていた以上に大事になってしまった事を悲しんでいるかのように、黙ってうつむき、ごめんなさいと口にした。
「日ごろから危険な事がないよう、よく注意を払っていたのですが。もう既に3階の壁によじ登っていまして、間に合いませんでした」
「仕方ありませんよ。先生は人間ですし」
無茶で怪我をするのは、人間の子供も異人種も子供も同じだった。自分と同族ならば、直ぐにでも壁に登り、片手で抱えて降りれば済むが、人間ではそうはいかないと店主もわかっていた。
それにクアーリ先生も、アンナ一人を見ているわけではない。異人種も人間も混在する中で、か弱い体で全てを見通しきることは難しい。
「いま保健室の先生が通院の手配をしている所です。お父様もご一緒されますか?お送りします」
リザードマンの校長は、普段より青白い顔をしているが、この時はより一層青ざめて見えた。
「いえ、アンナは私が連れて行きます。私達は頑丈ですから、きっと大したことないでしょう」
「ですが、出血もしています。脳に異常でもあったら…」
クアーリがそう心配そうに声を上げる。
「異常があったとしても、直ぐに治ります」
私なんて、至近距離からボウガンの矢が刺さり、それでも2週間後には完治したのだから。店主はそう言い加えようとしたが、若い教師の不安を逆に煽りそうだったので止める事にした。
「状態がわかったら、こちらにも連絡を入れます。娘がご迷惑をおかけしました」
「いえいえ!」
「こちらこそ!」
2人はまた深々と頭を下げる。黙って俯いたままの娘の手を引き、店主は学校を後にして、車の中に娘を乗せた。
「大丈夫か?」
再び、店主はアンリに聞くと、アンリは小さく頷く。
車は校門を抜け、病院のある方へバンパーを向ける。校門に入った時と比べ、幾分か店主の心は落ち着いていた。
「クアーリ先生…」
アンリが呟く。
「すごく怒ってた」
「それはお前が心配をかけるからだよ。どうして、3階から飛び降りようとしたんだい?」
アンリはそれに答えない。元々活発な子だったから、目立ちたい気持ちで飛び降りて見せようとしたのだろうと店主は思った。
「次に飛び降りる時は、お父さんの見ている所でしなさい、失敗しない様に練習だ」
こんな事を言ってしまうのは、クアーリ先生に気の毒か。それに妻にも怒られるだろうか。そんな懸念はありつつも、しょげ込む自分の娘を励まそうと、店主は苦心した。
<3>
夕方になると、店主は店じまいに入った。何時もと同じ忙しさだったが、アンリの事故もあり、今日は普段よりも体が重い。
結局アンリは異常なしと診断。保健室で張ったガーゼから、より清潔でしっかりした物に交換しただけだった。家に帰った時、妻はやはり心配そうにアンリを抱き寄せたが、大丈夫と答えるアンリに、大層安心した様子だった。
学校にも連絡をすると、あの校長が今日何度目かの謝罪を行った。店主は学校側の対応に不満は無く、こちらもよくアンリに言い聞かせると答えた。クアーリ先生は授業中の為、電話に出れなかったようなので、校長によろしく伝えるようお願いした。
それからは、アンリが昼の時間に家にいる事以外、普通の日常だった。パンもよく売れ、20番目の娘、アイシャもよく手伝ってくれた。
18番目の息子。ユーマも工場から帰ってきて、風呂に入っている。
店の掃除が終われば、夕食の時間だ。
しかし、グールの食事とは人間のそれと比べれば些末な物だった。食料に火は要れない。凝った調味料をかける事も無い。唯食べやすくぶつ切りにし、皿に陳列するだけ。あとは手に取って、口にすればいい。わざわざ道具が無くても、その顎でなら骨も砕ける。
もちろん、人の味であるパンを焼く主人も、人の食事を取ることは出来るし、真似て上等な物を作る事も出来る。だが足りないのだ。いくら食べた所で足りない。喉を通った所で、飲み込んだと言う実感すら伴わない。どう手を加えようと、如何に盛り付けようとも。
しかし、人の肉は何をしなくともグールを十分満足させる。人の舌が、アミノ酸やグルタミン酸に強く反応するように、グールの舌に人の肉が触れれば、本能を十分刺激する。例えそれが、安置所に数日放置されていた死体であってもさして変わらない。
肉は病院か、警察署に行って幾ばくかの手数料を払えば手に入る。そうできるよう、人間達がルールを用意した。だが、人間は誰も食事に触れようとはしない。触れるわけがない事を店主も理解している。面識が無かろうと、自分と同じもので出来た同族が貪り食われる生理的嫌悪感は、グールが人間に食われる様と置き換えて思い起こせば、想像に難しくない。
故に、食事の場所は地下となっていた。窓のある部屋では、目張りをしていた所で人の目に触れる事もあるかもしれない。恐れは、凶器となる。恐れを刺激しない様にすることを、400年を経た老獪は熟知していた。
「お姉ちゃん出てこない」
店主が地下の階段を降りようとした時、末娘のハンナがそう父に告げた。生まれてまだ4年。舌足らずな喋り方が、まだ抜けていない。
「どうして?」
「食べたくないって」
よほど昼間の失敗が応えているのか。アンリらしくも無い。
「お父さんが呼んでくるよ。ハンナは下に行って待ってなさい」
まだ小さいハンナはうんと頷くと、よちよちとした足取りで、地下の階段を降りていった。地下からは包丁の音が聞こえる。タン、タン。一拍置きながら、骨が砕ける音が聞こえる。妻が準備をしているのだろう。
店主は2階にある、アンリの部屋の方に向かう事にした。
「まだふて腐れているのか」
そう思いつつ、店主も娘の様子に違和感を覚え始めた。
やんちゃをしてひざをすりむいてきた事なんて珍しくも無い。手当をしようとする妻の手を払いのけて、また遊びに行ってしまう子がアンリだ。やはり友達の手前、失敗した姿を引きずっているのだろうか。
いや、アンリも女の子だ。顔に傷がつけば、それ以上にショックを受けたのかもしれない。それとも、クアーリ先生が怒ったことが辛かったのだろうか。生徒想いの先生だから、変に熱が入ってしまったのかもしれない。好きな先生に怒られれば、それは落ち込むだろう。
ハンナに呼んでくると言ったたが、店主は不安になっていた。娘は何を不安に思っているのか見当もつかない。妻を呼ぶべきか。同じ女同士なら、話しあえることもあるかもしれないが。
思案しながら、アンリの部屋に向かっている最中、玄関のベルが鳴った。
不安のせいか、店主の足はアンリの部屋から離れ、玄関に向かって行った。
「はい?」
ドアを開けると、華奢なスーツの男が立っていた。
「クアーリ先生?」
「夜分遅くに失礼します」
そう深々と頭を下げる。まだ娘の事故を気にしているのかと店主は困惑した。責任を問わないと、校長に言い伝えておいたのだが。
「事故の事なら、気にしないでください」
「いえ。少し、アンリの。娘さんの様子が気になったもので、寄らせていただきました」
店主は「ほう」と声を上げる。店主も経った今、娘の様子に違和感を感じていた所だった。教師という物は、親同等に子供を見る物らしい。
「実は、病院から帰ってからずっと部屋にこもりっきりで…」
渡りに船と、店主はアンリの様子をクアーリに伝えた。
「お邪魔じゃなければ、娘さんと話をさせてもらっても?」
その申し出に、店主は躊躇した。直ぐに食事の時間になる。そんな時に、人を家に入れていい思いをさせることは無い。だが、娘の為なら、という想いが、躊躇を消した。
「時間も遅いので、少しの間なら…」
あえて食事の事はぼかした。
「ありがとうございます。あの…ついでと言っては申し訳ないんですが」
クアーリが後ろを振り返ると、小柄の女性がクアーリの肩越しに店主の顔を見た。白蝋を思わせるような白い肌、青い大きな瞳。ひざ丈まである白いレインコートを羽織っている。
「妹です。その、長い事病気をしていまして。今日はあまり具合がよくないらしく、できれば一緒に上がらせていただければ」
その少女の肌に、血の通っているような温かみは無かった。この季節大分冷える。一人で外に待たせておくには気の毒と店主は思った。
「えぇ、構いませんよ」
そう言って、店主は2人を家に招き入れた。クアーリは助かりますと丁寧にお礼を言ったが、妹の方は辛いのか軽く会釈するだけだった。
店主は妻にクアーリが来たと一声かけるか考えたが、妻は食事の準備をしている所。隠せば食材を見せる事は無いだろう、だが臭いまでは隠しきれない。店主は後で伝えようと思い、食堂に向かわず、そのままアンリの部屋に向かった。
「アンリ?アンリ」
店主は娘のドアをノックする。だが、向こうから返事がない。
「クアーリ先生がお越しになっているよ」
こう言えば頑なに閉じている娘も開いてくれるかもしれない。店主はそう期待を込めて、声をかけた。
だが、部屋の中から漏れ出したのは、悲鳴だった。この家を揺らすほどの絶叫。
「アンリ!」
アンリの異変に店主は焦る。ドアは鍵がかけられている。だが、所詮は人間用の錠前。店主は拳を握り、ドアノブに叩きつける。ドアノブは、内部の錠前ごと、シャンパンのコルクが飛ぶように、部屋の中へ突き抜ける。
施錠の機能の無いドアを開け、店主は娘の様子を見る。彼女は、ブランケットを抱き寄せながら、ベットの隅で震えている。
「なんだ。大きな声を出して…」
父親の姿を見ても、アンリは怯え続けている。
「ドアを壊したのは謝るよ。それよりもどうした?虫でも出たのか?」
異様な娘の様子に、店主は困惑した。何も怯えるようなことは無い。突然ドアノブが発射された事以外は。
父親はアンリに近づく。そこで、アンリは自分を見ていない事に店主は気が付いた。アンリはドアの方を見ている。縫いつけられたかのように、視線が動かない。
店主は娘の見ている方に振り返った。ドアの前ではクアーリが立っている。
クアーリの様子は何時もと変わらない。だが、何時に間にか、その耳に何かが取り付けられていた。店主はそれが、小型のインカム(イヤホン型の通信機)だと気が付く。
「対象AとEは、私とアンジーで確保しました。他の対象は、地下のようです。確保をお願いします、ブックマン。いや、ヒドル大佐」
対象。確保。
クアーリが何をしゃべっているのか、店主にはわからない。だが、その言葉が自分たちにではなく、インカムの先にいる者に告げられたのは予測がついた。
<4>
パン屋の前に黒いバンが3台止まっていた。それぞれの運転席と助手席に、人の姿はあったが、会話をする事も無く、路上を静かに眺めている。
そのバンの一台、助手席に座る男が、装着したインカムを耳に押し当てて、通信を確認した。
「全員、突入。行動規範に従え、銃は脅しだ。怪我はいい、殺しはするな」
その一声で、3台のバンの運転席と後方扉が一斉に開き、中から覆面で顔を隠した、黒い戦闘服の男たちが雪崩れるように飛び出す。彼らは手慣れた手つきで、パン屋のドアを破壊し、吸い込まれるかのごとく中へと突入した。戦闘服にはアルカイム市警、ERU(緊急救出班)のロゴマークである青い五角形のワッペンが縫い付けられている。
インカムの男は、彼らが中に入った事を確認すると、真っ直ぐとした足取りで、パン屋に向かう。手は後ろで組まれ、歩みは踵から着地する。軍隊経験者に良く見られる、癖のある歩き方だった。
インカムの男がパン屋の中に、入ると事は狙い通り終わっていた。制圧には2分と掛からず、地下の入り口に続く廊下は、4名で固められている。戦闘服の男が一人、たどたどしく敬礼をすると、他の隊員も敬礼をし、男も軽く返礼を行う。
「結果報告」
男が短く、そうとだけ指示すると、指示された隊員は慣れない口調で返答をした。
「え~、地下に突入した連中によると、なんか3人いたみたいっす。女とガキと、女がもう一人」
「対象名で報告しろ、事前に覚えさせたはずだ」
男は厳しい声で訂正させたが、隊員は反論した。
「つってもよ~。俺ら本職じゃねぇんだぜ。取りあえず糞グールはとっ捕まえたんだから、いいじゃねぇか」
「本作戦は、機密事項だ。チンピラのような言動は慎め。ここでは君は兵士だ。市警特殊部隊に偽装したな」
「ちっ!イカレ野郎が…。それより親父の方は大丈夫なんだろうなぁ?」
「2階は、クアーリとアンジェリカで制圧済みだ。銃を持った諸君らよりも、余程戦力になる」
「あの優男と、ダルマ女がかぁ?」
「それよりも、1人足りないぞ。この家には6人いる。5人は捕まえた。残り1人は…」
対象C。長男、ユーマ。
その時、廊下の奥の壁が突然破られた。中からは灰色の肌の男、手にはシャベルが握られている。
「居たか」
男が呟いている間に、壁の近くにいた1人の隊員がなぎ倒される。
「野郎!」
倒された隊員と共に、廊下の奥を固守していた隊員がユーマに銃を向ける。だが、若いとはいえグール相手には遅すぎた。隊員が引き金を引く前に、ユーマのシャベルの先端がその首を捉え、一瞬で裁断する。
「数の数え方もわからんのか。俗物どもが」
男は足元に転がった生首に動揺する事無く、ユーマに向かって歩を進める。
ユーマも男に向き直る。
「家族に手を出すな」
その表情は険しい。ユーマはたまたま、物置に用があり地下室には居なかった。そこで探し物をしている最中、男たちの襲撃があった。隙間から見れば銃を持ち、市警の戦闘服を着た人間が立っている。当然、自分たちに逮捕されるような言われは無い。いや、心当たりはある。だが、最後にしたのはアンリが生まれた時の話だ。警察が知る由もない。
そこで隠れながら、ユーマは男と隊員のやり取りを聞いた。彼らは警察ではない。家族は皆捕まっている、自分が助け出さねば。戦いの経験は無いが、武器はあった。
「動くな。人間とグールじゃ、戦いにならない」
それは父から聞かされた話だった。自分たちの頑強さ、筋力は人間の比ではない。その事を人間は知っている、だから我々も知らなければならない。そう教わった。
「できれば戦いたくない。戦いになれば、あんた死ぬぞ」
それは警告でも、こけおどしでもなく、ユーマの本音だった。
だが、男の歩みは止まらない。ユーマの声を無視するかのように、小声でつぶやいている。
「西部は空と、荒野と悪党で成り立っている。そんな所で人が住むには何が必要か。ショットガンじゃぁ、物騒すぎるし。話し合いや祈りじゃぁ、役不足だ。ここには、ちょっと知恵が働いて、ちょっとやそっとじゃ動じない度胸、そしてちょっと多すぎる負けん気が必要だ」
「何を言ってる?」
ユーマは男を警戒する。突然呟きだした言葉が理解できない。
「俺は平和を愛して、法を守る。百発百中の荒くれ保安官。悪党どもは、俺をクレイジースターと呼び、女どもはハニーと呼ぶ。飲んだくれという奴もいるがぁ…俺の名は」
ユーマは男が腰に、拳銃を携帯しているのを見た。手をかける様子は無いが、武装している。躊躇している暇は無い。
ユーマはスコップを男に向けて振るう。先手は取った。人間の体など、引き裂くにはあまりにも容易い。
だが、結果は若いグールの予想を超えていた。
一瞬でスコップがはじかれ、膝に激痛。
溜まらずユーマはその場に崩れ落ちる。膝からは血が出ている。手にスコップは無い。
痛む膝を抱えながら、ユーマは男を睨み付ける。男の手の旧式のリボルバー拳銃が煙を上げた口で、こちらを向いていた。
男は一瞬で2発発砲した。1発目はスコップを、2発目はユーマの膝を撃ちぬいた。
「俺の名はウィル・ホンプキンソン。呼びにくかったら、『シェリフのウィル』って呼んでくれ」
男はそう呟くと、銃口の煙を吹きけし、器用に旧式のリボルバー拳銃をコマのように回すとホルスターに収めた。
「はいはい。お兄さんたち。仕事だよ、し・ご・と。この若いのを地下に連れて行きな」
唖然とする戦闘服の男たちにかけられた男の口調は、先ほどまでと違い軽妙だった。
<5>
轟音が鳴り、しばらくして銃声がした。1階で何かが起こっている。
店主はこの家の中で、何か悪い事が起こり始めていると把握し始めた。出来る事ならば、直ぐにでも1階に駆けつけて他の家族の無事を確かめたい。だが、店主にしがみ付き、震えているアンリを連れて行く事も、置いて行く事も叶わない。
「ご心配なく。私に危害を加える事が無ければ、アンジーは非常に大人しいんです。もっとも私は、ここを動くつもりはありませんが…」
家の中に数名がなだれ込んできた時から、クアーリは妹を部屋に入れて、それからドアから離れなかった。店主もこの男程度なら、苦もなく撃ち倒せる。だが、もう一人。この化け物は一体なんだ。
店主にしがみ付くアンリの手に力が入る。彼女の目は先ほどから、クアーリの妹の姿にくぎ付けになっている。
部屋に入るや否や、彼女はレインコートを脱いだ。その下には何も身につけておらず、肋骨の浮き出てた病的な体幹と、四肢に取り付けられた義肢が露になる。義肢は、晒されると伸縮クレーンのように進展し、両腕と両足がそれぞれ真ん中から2つに割れ、その先にはドリルや鈎針のついた槍先が展開。人と言うよりは虫のような形を成す。
生身なのは体躯だけらしい。両腕も両足も元々なかったか、後から切断し、この歪な機械が装着されたようだ。400年生きた店主でも、こんな事になった人間を見るのは初めてだった。戦えば打ち勝てるのかはおろか、その八本の四肢がどのように動くのかすら、見当もつかない。
アンジーは血なまこを2人に向ける。興奮しているのか鼻息が先ほどから荒い。
「怯えないでください。妹は獣ではありません。ただ、この姿には激痛が伴うのです」
店主がアンジーをよく見れば、その目は潤みを帯びていた。荒い呼吸も、目の充血も痛みに耐えている為。
「なぜ、あなた達はそこまでして…」
「何故?全ては自分の責任とはお考えにならないのですか?」
クアーリの声に怒りといった感情は込められていない。ただ、淡々と2人を見つめている。昼間の時とは違い、何を思っているのかも読めない。
銃声。まただ。さっきの銃声とは違う。大型の銃。恐らくショットガン。
店主は、まだ人間と戦う仲にあった時代を思い出す。あの時、人間の手にした武器で特に注意が必要だったものが、大型のマシンガン。いくら頑強でしぶといグールでも、コンクリートを砕くような弾丸を絶え間なく撃ちこまれれば、死は避けられない。そして至近距離から発射される散弾。こっちは処刑用に良く使われていた。
「大佐。先ほどから騒がしいですよ。何かありましたか?」
クアーリはインカムの先にいるヒドル大佐に連絡を取った。この手の作戦でゴタゴタとは、大佐らしくも無い。
「ちょういとばかしトラブルだよ。あ~あ、若いのがやっちまった」
「あなたでしたか。ウィル」
「大佐はさっき引っ込んだ。金で雇ったチンピラじゃあよぉ、危なっかしくてしょうがねぇ」
「今回は人手が必要でした。大佐も了承しています」
「そうなの?しっかし、予定が随分狂っちゃったんじゃない?グールのあんちゃん、死んじまったよ」
クアーリの顔がわずかに歪む。
「状況の説明を」
「グールのあんちゃんに吹っ飛ばされたうちの若いのがよぉ。床で寝かしといたあんちゃんにショットガンぶち込みやがった。頭に。即死だね、こりゃ」
雑兵の暴走。クアーリ達は異人種排斥主義者で、犯罪行為にも抵抗がない人間を集めたが、やはりクズはクズだった。クズは言われた事すら、満足にできない。
「大佐だったら、速攻でこの若いの、処刑にかけると思うけど。どうする?大佐暫く出れないよ。俺がやっちゃう?」
「違反者の判断はアルファに任せましょう。あなたは地下の制圧をお願いします」
「あいよ。なんかあったら連絡頂戴。加勢するから」
「必要ないと思います。アンジーは強い子ですから」
ブックマンが戦闘専門のウィルを出した。本来の計画なら登場の予定は無い。雑兵の暴走も、大佐なら制することが出来ただろう。いや、ブックマンを責めるわけにもいくまい。ウィルを出すほどの状況が起きたのだ。そう、クアーリは考える事にした。
「一体何が?」
店主はクアーリに問う。
問われたクアーリはしばし、店主を見つめたまま黙っている。情報の開示は必要か否か。開示する必要なない。だが、開示したことによる不都合は、皆無。
「息子さんが死亡しました」
クアーリは事務的にそう言った。その言葉が店主の耳に入った瞬間、店主は考えるのを止めた。一つの獣になった。
娘を振りほどき、店主はクアーリに掴みかかろうと突進する。だが、アンジーの一突きが店主の右足の腿を、もう一突きが左手を突き刺し、力づくで制止させた。
「ああぁぁぁぁぁああああああ」
叫び声は店主の物ではなく、アンジーの声だった。彼女の瞳に浮かべていた涙が頬を伝う。店主は叫ぶどころではない。アンジーの節足から逃れようと、必死にもがき足掻く。
「無駄ですよ。おとうさん、あなたではアンジーを倒せません。お互い、無駄に苦しむ必要は無いはずです」
「お前ら!息子を!俺の息子をっ!」
17人。17人の子供を失った。もう子供をつくるのは止めようと決めた。でも、世界は変わり、住みやすい場所となった。それでも、店主は子供を再び持とうとは思わなかった。意を決したのは妻だった。もう一度家族を作る。17回の、等しく深刻な絶望を経験した彼女がそう決めたのだ。
そんな中で生まれた18人目にして、1番目の希望がユーマだった。それを、こんな偽善者に殺された店主の怒りは収めようがなかった。
「お父さん、ごめんなさい」
近くにいるアンリの声が、遠くにあるように店主の耳には聞こえた。
「ごめんなさい。私が悪いの。私が、あんな事を話さなければ」
あんな事。あんな事って、もしや。
店主は抵抗を止める。額から汗が流れ落ち、背筋に冷たい物が伝った。刺れた為の、恐怖ではない。過去に埋めたはずの物が、店主の頭に浮かんでいた。
「そのご様子なら。お察しはついたようですね」
クアーリの声は相変わらず冷たかった。
その最中、また1階から銃声が響いた。
<6>
銃を撃ったのは、ウィルと名乗るブックマンでも、他の戦闘員でもない。
彼らの後から現れたもう一人の男だった。つい先ほど、ふらりと現れ、眼前に広がる惨状を黙って見ていた。その彼にブックマンが耳打ちすると、男は黙って廊下の奥に進んだ。
そこにはユーマの死体があり、その傍らにはユーマを撃った戦闘員が肩で息をしながら、ショットガンを握りしめ、死体を睨んでいる。
男は銃を撃った戦闘員に歩み寄った。床はユーマの血と脳漿で、黄色い泥だまりを作っていた。男は戦闘員からショットガンを取り上げると、何の躊躇もなくその戦闘員の頭を撃ちぬいた。それが3度目の銃声だった。
「てめぇ!」
地下室の入り口を固めていた、戦闘員2人が廊下の奥にいる男に銃を向ける。
「やるのかい?」
その射線を遮るように、ブックマンが2人と男の間に割って入った。右手は腰に付けられたホルスターに添えられている。ブックマンとユーマの戦闘を2人は見ている。彼らはブックマンが正面から勝てる相手だと思えず、黙って銃を下げ、代わりに口を開く。
「話が違うぞ。俺たちが殺すのはこの家の糞共のはずだ。何で仲間を!」
「仲間ではないよ」
男は静かに答えた。
「確かに僕たちは武器と装備を君たちに与えたが、それは『道具』が確実に機能する為の必要措置だ。そちらがどう思っているかは知らないが、僕は君たちを仲間だとは思わない」
「そいつがしくじったから殺すのかよ!ふざけんじゃねぇ!」
「ふざけて、この作戦に参加しているわけじゃないから、大真面目に答えようか。そもそも対象Cは早かれ遅かれ、消去する予定だった」
「なら、なんで?」
男は黙って、指を下に向け、靴を指す。
「この後、私は映画を見に行く予定なんだ。大切な人って奴とね。それなのに見てくれ、床に派手にぶちまけてくれたおかげで靴が台無しだ。君たちが上手くやってくれさえすれば、流血は無し、僕は話を聞くだけで済んだはずなのに。血の臭いさせてデートなんて御免だ。即死で済んだ事を幸福と思って欲しいね」
「イカレ野郎が!」
「口を閉じな、お嬢ちゃん」
ブックマンのリボルバーが抜かれ、2人に向けられる。銃口は、言葉以上に雄弁に沈黙を説いた。2人はそれ以上の罵倒を止め、各々疑念を頭の中で膨らませていった。
そもそもは、3か月前。いい仕事があると、廊下の男に声を掛けられたのが切っ掛けだった。グールの家族を襲う、装備と銃は用意する、報酬も払う。その変わり、ちょっとした訓練と、こちらの行動規範にはしたがってもらう。事をスムーズに運ぶためだと。
その男たちは4人で行動していた。
一人はブックマン、あるいはヒドル大佐と呼ばれた。雇われ者の男達の中には、ヒドルという名前が歴史上に実在する軍人の名前と同じであると知っている者もいた。その自叙伝が、かつてベストセラーになっていたからだ。訓練と作戦は彼が担当した。実在のヒドル大佐のように、的確な指導で有象無象をそれなりの新兵に変えた。
もう一人は女。アンジェリカ。アンジーとも呼ばれていた。雨も降っていないのに、全身を覆うレインコートを羽織り、常に表情一つ変えない人形のような女。それは、雇われた一人がレインコートをめくり、裸と奇妙な義肢をからかった時も同じだった。
そしてクアーリ。アンジェリカの保護者らしい。クアーリはアンジェリカをからかった男を批難したが、逆に殴られた。見た目通りの優男らしく、そのまま反撃らしい反撃もできなかった。その代わりに男は、アンジェリカによってズタズタに殺された。腕を貫かれ、足を串刺しにされると、そのままゆっくり雑巾のように『絞られた』。人間も獣の一種である事を思い出させるような断末魔を放ちながら。
そして雇い主の男は、ぼろ雑巾になった男の死体に目をくべると、ため息をつき、幾日かしてまた新しい人員を連れてきた。男はアンジェリカとクアーリを咎める事も無く、ブックマンに連れてきた男の訓練を指示した。
この男が、他の3人を取りまとめている。今廊下にいる男だ。
「よせ、ウィル」
男が声をかけると、ウィルは舌打ちをしつつ黙って銃をホルスターに戻した。
「引き続き、廊下を守れ。僕は店主に話をしてくる」
そう言って、2階へと進んだ。
<7>
2度目の時とは違い、3度目の銃声は、2階の状況を変えていなかった。
アンジェリカは店主を、完全に拘束している。アンリは泣いている。店主は、抵抗もせずに突き刺されたまま、床に這っている。この状況を完全にコントロールしているのはドアの前から離れず、微動だにしないクアーリだった。
アンジェリカはクアーリの指示のみに反応する。店主は戦闘経験があるとは言え、クアーリ達の最強戦力であるアンジェリカに適うはずもない。アンリは昼間のうちに、心をへし折った。
クアーリはアンリを見る。だが、アンリはクアーリを見ない。
アンリの額の傷は、クアーリの命令でアンジェリカが付けた物だ。ある情報をアンリから吐き出させる為に、クアーリはアンジェリカに何度も何度も殴りつけさせた。罰を与えれば、どんな子供でも秘密は吐き出す。だが、例え3階から突き落としても、あのような傷をただの人間であるクアーリが付けることは出来ない。
クアーリの行えることは、信頼を得る事だけだった。書類を偽造する技術も、歴史教諭としてやっていけるだけの知識もクアーリは持っていた。何をすれば気に入られるかは知っていた。信頼に与する人間の条件も知り尽くしている。信頼を得れば、疑われることは無い。異形の妹、アンジェリカにはそんなことは出来ない。
アンジェリカはクアーリの出来ないことが出来る。クアーリはアンジェリカの出来ないことが出来る。
「やぁ」
ノックと共に、よく知った声がドアの向こうから響いた。その声は、クアーリとアンジェリカだけでなく、店主にも聞き覚えのある声だった。
クアーリがドアを開ける。
「お待ちしていました。アルファ」
開けられたドアから男が一人出てくる。その男を通す為、クアーリは初めてドアから離れた。店主は床に張り付けにされたまま、頭を動かして入室者を見る。まず目に入ったのはグールの黄色い血が付着した上等な革靴。そして銃。オートマチック式のショットガンだが、その先端には人間の赤い血が付着している。
そのまま目を上にあげれば、男が上等なスーツを着ていることがわかり、その上に繋がっている頭には。
「八木さん?」
何時も常連としてくる八木の顔がそこにあった。
「おはよう。さむいねぇ」
そう言って八木はアンジェリカの肩を叩いて労い、アンリが勉強の時に使う椅子に座った。
「クアーリ、アンジー。君たちは対象Eを連れて、地下に行け。彼とは私一人で話す」
「危険です。負傷しているとはいえ、彼は…」
「もし、僕に何かあれば。家族がどうなるかぐらい彼も理解しているよ」
それはクアーリを説き伏せると同時に、店主に抵抗を諦めさせた。
「わかりました。アンジー、離すんだ」
アンジェリカはゆっくりと刃を、店主の体から引き抜いた。クアーリはアンナの手を引き、静かに部屋から退散した。
ドアが閉じられて暫く。1人の人間と、1人のグールが居る部屋は沈黙が支配した。
「体は起こしていいよ。辛くないのなら、座ってくれ」
まず沈黙は八木が破り、それから店主が体を起こす音、血が滴る音、うめき声が部屋に響く。店主は傷を庇いながら体を起こし、八木と対面する形で娘のベットに腰かけた。
「きっと今、僕をミートパイの具材にしたくて堪らないだろう?」
八木は静かに問う。
「えぇ、その通りです」
店主も静かに答える。
八木は手にしていた、ショットガンを後ろの壁に立てかけた。
「だが、何もしない所を見ると、君はこんな事態を引き起こした原因が自分の中にあると知っている」
「私が何もしないのは、家族が人質だからです」
「嘘だね。もし君がこんな仕打ちを受けるべきではない善良の市民なら、後さき考えずに暴れ、理不尽な暴力を振るった我々に、正義の抵抗をするだろう。何もしないのは、『原因と私が提示した結果』を受け入れているからだ。私の行いを理不尽ではないと受け入れているからこそ、私と話をして、妥協点を引き出させようとする」
店主は八木に答えない。怒号や否定は通用しないと思った。ならば、ただ沈黙に委ねるしかない。これは家族の為であり、多くの同胞の為でもある。
「だが、残念ながら我々は君と取引しない。これは尋問であり、強要だ」
八木は頑として、店主から目を離さない。そして、黙秘は無駄だと言った。警察官ではない為、権利も読み上げないと。
「あなたは一体何者なんですか。一体何の権限があってこんな…」
この問いに、八木が答える確証は無いと思いつつも、店主は口を開いた。少なくとも八木は自分を公的な人間ではないと認めた。状況が改善するとまで期待は出来ないが、相手の正体を知らなければ、手も打てない。
そして、店主の思惑はいい方に外れた。八木は淡々と、自分の事を話しはじめた。
「我々は何者でもない。我々を呼ぶものは、我々以外に存在せず、また我々を指す名前も無い。それでも強いて呼ぶとするのなら、我々は『ジェントルマンズ・アグリーメント』」
「ジェントルマンズ(紳士達の)・アグリーメント(協定)?」
「不文律とも呼ばれる。国家、組織、団体、あるいは人種間で結ばれる明文化されないルール。相手を紳士として信頼できるが為に、守られる暗黙の掟。それが我々だ」
「掟?何が掟ですか!単なるの異人種迫害じゃないですか!しかも、あんな女の子を化け物みたいにして!何が目的だ。弱い者いじめか?それとも、世界征服でも企んでいるのか」
自らを掟と呼ぶ、八木に店主は激昂した。この場所に掟なんて何もない。アンリは事故でけがをしたと言うが、きっとあのクアーリに何かされたに違いない。そしてユーマはこいつらに殺された。これが何の掟に基づいていると言うのか。
鼻息を荒くする店主とは対照的に、八木は平静としている。店主に対する、その振る舞いは、先ほどのクアーリも同様だったが、八木のそれは何時もの平静を保っていると言うよりも、普段見せる人間性を丸ごと捨ててしまったかのように冷然としていた。
「我々の望みは唯一つ。『人間は異人種を傷つけない。異人種も人間を傷つけない』。人間と異人種の間で結ばれた紳士協定が、確実に守られる事だ」
「なら、今日お前たちがしたことは何だ?」
「その前にお前は答えなければならない事がある!」
店主の問いを、八木は大声で制し、そしてまたゆっくりと冷たい声で店主に問う。
「お前が10年前、アンリに与えた物は何だ?」
店主は口を閉じ、無意識につばを飲み込む。
「お前が18年前、アイシャに与えた物は?」
「何を言っている…」
「お前が23年前に、ユーマに与えた物は何処で手に入れた?ケージ・アンブルファン・ホグファット」
八木は店主の名前を呼びつける。
ケージは八木が全て知っていると直感した。彼が店に通うようになったのは半年ぐらい前から、ちょうどクアーリもその頃、赴任してきた。全ては調査の為。調べていたのは23年前、ユーマが生まれてから始まったホグファット家の悪習。
「何を掴んだか知らないが、私達が何か悪事を犯した証拠はあるのか?」
しかし認めはしない。証拠は無いのだ。全ては消化されている。
「アンリはすでに認めた」
「娘を傷つけたのはその為か?まだ10歳だぞ。痛みから逃れる為には、嘘だってつく」
「だが、我々は確証を得たと考えている。我々はお前達のような違反者を何人も追いつめて、自供させてきた。嘘はわかる。真実しか手にしない」
「自供に頼らざるを得ないのは、確たる証拠がないからだろう。私達は何もしていない。お前達を警察に突き出してやる!」
恐れることは無いとケージは考えた。今までも証拠は無いと確信があったからこそ、家族とこの場所で生きていくことが出来た。悪事は誰にも見つからなければ、悪事ではない。如何に指摘し様とも、証明法は無い。
八木はじっとケージの顔を見ている。そしてポケットから、クアーリ達が付けていたインカムを取り出す。
「お前は嘘をついている」
そう言って、インカムを付けると、ケージの目の前でクアーリを呼び出す。
『はい?』
「クアーリ、今地下か?」
『えぇ』
「アンジーは?」
『直ぐ傍に』
八木は視線をケージに突き刺したまま、クアーリに指示を与える。
「対象B、クラスタ・ハンギンス・ホグファットに『人間を生きたまま、子供たちに与えたか』尋ねろ」
八木の視線があると知りつつも、ケージは彼から目を逸らし、ハタとしてまた目線を八木に戻した。自供を待つ者の前で、動揺の仕草は不味い。ケージは八木が今の動きをどう取ったのか読もうとしても、八木の表情は硬く何を考えているのかも読み取れない。
尋問のターゲットは妻のクラスタに変わった。ケージはクラスタが認めるはずがないと信じつつも、不安が巻き起こっている。クラスタは子供に何かあれば、何よりも傷つく。子供たちと共に捕えられているなら、きっと平静ではない。
八木は黙ってインカムに耳を傾けている。どんな報告があったのか、ケージには聞こえない。
「わかった。認めないんだな」
ケージは安堵する。自供しなければ、今までしてきたことは悪事にならない。確証もなく、これ以上危害を加えることはしないはずだ。八木の目的ははっきりしないが、ケージから自供を取る事を目指しているのは間違いない。
八木はインカムを指で押さえ、そしてハッキリとした声で、指示を出す。
「クアーリ、アンジーに対象Eの指を一本ずつ、切り落とすよう指示しろ」
対象Eが、アンリの事を示しているだろう事は、ケージには察しがついた。
「止めろ」
叫びたい。だが、ケージの喉から声は出ない。クラスタの見ている目の前で、アンリの指を切り落とす。無理だ。クラスタがそんな光景に耐えられるはずがない。きっと自供する。そんなのは目に見えている。止めさせなければ、アンリがこれ以上傷つく前に。
「止めてくれ」
「クアーリ、猿轡をつけろ。うるさくてかなわん。…両方だ。対象Eにも、対象Bにも」
「そうだよ!私達は人間を子供たちに食わせた!認める!だからこれ以上は!」
八木はインカムを耳から外した。
「食べさせたのは、死体ではなく。生きている人間だな?」
「あぁ。全て話す。だから、あの化け物を止めてくれ」
頷くと八木はインカムをケージに見せた。
「そんな指示は出していない。指を切れと言う前に、電源を切った。だが、勘違いするな。実行はしないと決めただけで、実行ができないというわけではない」
誤魔化せないと、ケージは諦めた。家族が人質にとられている上、常連としての八木はケージの事をよく知っている。家族が何人いるか、何を好むか、何を嫌い、何を望むのか。それはこの半年の間、ケージ自ら語った言葉だった。
そして、抗った所で、彼は今以上に残酷になれる。
「我々の目的は、『人間は異人種を傷つけない。異人種も人間を傷つけない』。これが確実に守られる事だ」
「あぁ…」
「お前はそれを破った。だが、お前一人で出来るはずがない。子供たちに与えた人間を得る為に、誰と手を組んだ?」
「仕方なかったんだ!赤ん坊は死体の肉を消化できない」
それはユーマを生んで、ケージたち自身が初めて知る事だった。
まだ、人間を食料として見ていた頃、グールの食事は生きている人間だった。当然、ケージはそれを食べて育ち、死んでいった子供たちにも、それを与えてきた。だが、人間に敗北し、その傘下に組み込まれ、食事は質の低い死体となった。死体とは言え人間の肉には変わらず、ケージたち大人のグールには問題は無い。
だが、まだ生まれたてで体も弱い幼児が食べるには、肉が固く、時間の経過による劣化もあり、下痢や嘔吐を伴う事も多かった。弱っているのなら、栄養を与えなければならないが、栄養源そのものが不調の原因となる。
「俺はもう、家族を失うことは出来なかった」
目の前で弱っていく息子。それは妻が再び歩き出そうと決めた決心。ホグファット家の希望。ケージには、何としても守らなければならない物だった。
そんな時、頼みとなってくれたのは、貴族の地位にある同族だった。
「アルシェンス・ウイルコット・スペンサー伯爵だ。息子たちに与えた人間は、彼が連れてきた」
「見返りは?」
「金だ。一人10万アロイ。貴族の地位にあるとは言え、グールの持つ権威は人間のそれと比べ地に落ちている。権力闘争への復帰も目論んでいたようだが、私には関係ない」
「与えた人間の数は覚えているか?」
「ユーマに15人、アイシャには13人、アンナには7人…」
「35人で間違いないんだな。全員20代未満か?」
「あぁ。若い人間の方が、栄養になる」
それから八木は、ケージから人間の入手手順の詳細を聞いた。どこで情報を得たのか、どういったグールが関わっているのか、実行犯はどの程度の規模か。ケージも詳細はわからないと断りつつ、取引についてわかる事全てを八木に渡した。
「家族は解放してくれるんだな?」
全て話した後、ケージは八木に問うた。
八木は無言で首を振る。
「どうして。知りたい事は全て知ったはずだ」
「これは取引ではない」
<8>
この社会は薄氷の上に立っている。
人間、そして異人種と言われる人に近しく、人とは違う者。彼らを分ける物は力である。圧倒的な力の差。グールは頑強で、怪力を持つ。リザードマンは垂直であれ、自在に這い回れる。狼男は目にもとまらぬ速さで動ける。バンパイアは夜の間は無敵である。
どの異人種も、人間を遥かに凌駕する力を持ち、人を殺すのも隷属させるのも意のままにある。しかし、それでも異人種は人間に敗北した。
異人種が構成する社会は、大きくても250人規模の物しかなく、その規模の社会も稀に発生する程度。大部分の異人種は血縁を繋がりとする30から40人規模の社会しか構成できない。生まれながらにして、最強の生物である彼らは、その程度の群れで十分だった。
対する人類は、弱い存在であるが故に群れを大きくすることに特化した。例え弱い個体でも、1000居るのならば十二分な戦力となる。そして、これは単に戦いにおける多数の優位を保証するだけではない。多数の人間の知識が入り乱れれば、新たな知識がそこから生まれ、それは発展的技術、安定した社会制度、効果的な武器へと繋がっていく。
群れは村へ、村は街へ、街は国家へ。国家は連合体へと融合していく。これを脅威と異人種が捉えた時には、すべてが後手に回っていた。人類は、異人種の事を彼ら以上に知り尽くし、その傘下に収める事が可能であると判断された。
幾つかの戦いを経て、異人種すら人類の群れの中に吸収された。
吸収された異人種は、人類との共存共生を強要された。武器を縛られ、食性を変えられ、抗おうとしても、大勢の力で押し負けてしまう。形だけの共存共生だったが、異人種もまた人類の作り上げた社会基盤無しに生きる事は難しくなった。力を削ぎ落されると知りつつも、経済や司法、医療などの制度は、生きていく上で力以上の価値があった。
形だけの共存共生は今も続いている。だが、それでも確実に変わり始めている。最早、道行く異人種が異なる者と、人間の目には移らない。それは異人種自身も同じだった。200年という共にした時間が、隔たりを埋めつつある。
しかし、それでもこの社会は、今だ薄氷の上。
「考えてみろ。グールが、未だに人間の子供を食っていたと社会が知ったらどうなる?」
八木は淡々とそう語る。ケージは何も言わない。言うまでの事もないからだ。
「人間のグールへの嫌悪感は高まる。200年かかけて作られた信頼は、この事件で一瞬にして終わるだろう。それは絶対に避けなければならない。社会は、グールと人間は共生可能だと思い続けなければならない」
「殺すのか。俺達を」
八木は頷く。
「君はこの23年間、上手くやってきたと思うんだろうが、完璧では無かった。だから、我々に気づかれたのだ。今後、君たちのした事に気が付く者は他にも表れるかもしれない。だから、消さなければならない。君たちをこの事件ごと」
「子供に罪は無い。妻にもだ。俺が妻の反対を押し切って、無理やり食べさせた」
「その子供の存在が、事件の何よりの証拠なんだ。ギース。7年前まで、グールの新生児の平均生存率は28%。ホグファット家の生存率は100%だ。お前はこれをどう説明する?」
多くのグールの家庭は、子供に生きている人間を与えなかった。この社会で、その行動は禁忌である。だが、それにより、グールは種の保存が危ぶまれるほど、数を減らす事になる。緩やかに死んでいく運命にあった。
「たまたま、頑丈だったと…。なんとでも言い訳は通る!」
「子供たちは知っているようだな。彼らは誤魔化しきれるか?無理だな。アンリは喋った」
「貴様らが拷問まがいの事をしたからだ!」
「そうだ、ギース。人間は拷問でも、虐殺でも、何でもできる。自分以外の存在に、何処までも残酷になれるんだ。それが群れで来てみろ。他のグールたちはどうなる?君のように、逸脱を犯さなかった、無為のグールは大勢死ぬことになるだろう。一度、人類が腕を振り上げてしまったら、もう我々でも止める事は出来ない」
ギースは人間をよく知っている。それは食料としても。敵としても。隣人としても。人間は一度勢いおいづけば、おいそれとは止まらない。自分たちの満足のいく形になるまで、濁流のように流れていく。
力こそ弱い。弱いからこそ、残酷なのだ。人間の血肉からは、剣と同じ鉄の味がするのはきっと偶然ではない。外の人類たちがギースの所業を知れば、無関係なグールにすら、それをする。そして目の前の人間は、自分の家族を苦も無く殺せる。
「俺たちはお前達にとって、悪い狼なんだろうな。だが、狼には山羊が必要なんだ」
同胞たちが失う物は大きいと理解している。だがギースにも譲れない物がある。敵が強大であれ、残酷であれ、追い込まれた狼は牙を起てなければならない。
ギースは抵抗を決意する。拳を握りしめ、ベッドから立ち上がった。八木が、指示する側の人間という事は、今までのやり取りでギースは理解した。ならばこちらも人質をとる。地下の仲間たちからすれば条件はフェアだ。
「それでも山羊は狼と取引はしない」
八木は椅子に座ったまま、動こうともしない。後ろのショットガンすら見ない。
「狼もそれは同じだ」
「いや、山羊あってこその狼というのなら、狼こそ山羊との取引を欲している。絶対に成立しない取引を」
「戯言を」
「どうかな?」
口こそ開くが、八木が何もしないのは変わらない。こけおどしと見ているのだろうか。
自分が本気である事を示すために、一度殴りつけようとギースは拳を構える。だが、一瞬、疑念がよぎった。もしこの行動自体、八木が予測しているとしたら。八木はギースを熟知している。一方、ギースは八木の事など全く知らない。
もし、これが先ほど同様、八木の罠であったら。もっと残酷な仕掛けが発動する可能性もある。いや、そこまで考えているはずがない。だが、なぜ化け物を従えているのに、2人きりになった。何も手が無いはずがない。それとも八木は自分が、罠を警戒すると読んでいるからこそ、何もしないのか。
ギース、振り上げた拳は静止している。ほんの少しの力で、この男を卒倒させることもできる。だが、それは出来ない。結果が見えないのだ。
「2つ知りたい事がある」
八木が仕掛けた。
「一つは、35人と正確に記憶していた事についてだ」
「何人食べさせたか、覚えているのは当然だ」
「何匹だろ?食べたのは人間じゃない。君たちにとっての山羊だ」
何故、覚えていたのか。ギースが忘れられなかったからだ。
食料として連れて来れれた人間とギースに面識はない。面識のない人間の事など、気にもしないとギースは考えていた。だが、ふと彼らと同じ年の年齢の子供が、家の手伝いでよく店に買い物に来る事を思い出した。彼には両親がいる。ギースにとってよく知っている人間だ。
ではあの食料には。
「…」
「答えられないなら、それでもいい。もう一つの疑問は、ユーマとアイシャに比べ、アンナは食べた人数が少ないことだ。これはハイスラック消化酵素法の影響か?」
ギースは黙って頷く。
ハイスラック消化酵素法とは、最近になって発見された新生児グールに対する、栄養療法である。食事前に野菜由来の消化酵素を飲ませることで、時間の経った死体の肉でもスムーズに消化吸収でき、新生児の栄養環境は改善した。
「お前達、人間が発見した治療法だ」
ギースはそう呟いた。
新生児死亡率による種の維持の危機に手を貸したのは、ハイスラック博士という人間だった。彼の研究により、大勢のグールの子供が救われ、グールの人口減少にも歯止めがかかり始めている。
「そして、ハンナは一人の人間も食い殺さずに、成長した」
「あぁ」
「間違いないんだな」
「そうだ」
八木が初めて、ギースから目を離し、何処か遠い所を見ると背伸びをした。
「なるほど、そういうことなら予定は変更する」
八木の表情が一瞬緩んだが、直ぐに冷然とした表情に戻る。
「ハンナは助ける」
山羊はそう短く告げ、インカムを取り、同じように仲間に指示した。
「どういうつもりだ」
「殺す必要がない。掟を破った者は殺すが、ハンナは該当しない」
「嘘をつけ。お前らはやる」
「やれないんだ。もし、人を食い殺していないハンナを殺せば、我々が我々自身の掟に背く事になる。逸脱は許されない」
「それが条件か?ハンナを助けるから、自分を助けろと」
「言ったはずだ。狼と取引はしない。部下には既に指示を済ませた。私がどうなろうと、彼らは君たち4人を殺し、ハンナは助ける」
ハンナだけは助かる事が確定するのならなら、ギースにすれば反抗の条件が良くなったという事になる。だが、ギースは戦う事を諦めた。ギース一人で、あの化け物や他の人間と戦うのは分が悪く、人質もいる。八木を人質にした所で、他の人間が命令を放棄する確証何もない。寧ろ、助かるはずのハンナを危険に晒す事にもなりかねない。
包囲は半年も前から始まり、すでに完成されている。いや、23年前、ユーマに少女を与えた時に。すでに仕掛けは動いていたのかもしれない。
「認められるかこんな事!」
ギースは拳を壁に向けて無為に放った。机は大きな音を立てて崩れる。
「人間を生きたまま食らう事は俺にはもうできない。もう、皆食料じゃないんだ。俺は寧ろ、人間に溶け込もうと努力してきた。そうありたいと願った。もう、狩りをする生活など考えられない!子供たちの学校や、病院や、この店なしの生活なんて出来ない!ここは平和なんだ。俺が生きて来た400年の中で、一番幸せな時間だった!」
「だからこそ、子供を作ろうと決めることが出来たのか」
「この中なら大丈夫だと思っていた。それなのに…」
「家族を守る為。聞こえの良い言い訳だ。だが結局、お前のした事は35の家族の帰らない家を作り、同胞を絶滅の危機に晒した。3人の子供の無事がこの結果なら、お前のしたことは正義ではない」
「それなら、どうすれば良かった。ハイスラックス法が出来るまで、待っていれば良かったのか?」
「20年以上前なら、ハイスラックス法の研究すら始まっていなかった。その中で、治療法の確立を待つ事が、お前に出来たか、私にもわからない。だが確実にユーマは死んでいただろう」
「今日、お前達が殺した」
「そしてお前も死ぬ。我々からすれば、君たちは存在してはならない家族だ。ただ、ハンナだけは違う。ハンナは我々が保護する。何があっても」
<9>
「戦場とは生命の意味が問われる場所である。訓練で優秀であった者が生き残れる保証はなく、雑兵と呼ばれた者が英雄にもなり得る…」
ブックマンが、自叙伝の一節を読み上げているうちに、死体の搬送は済んでいた。ブルーシートに包まれた、大小6体の死体が、トラックに積まれた。
「総員撤収。トラックに乗れ」
ヒドル大佐が指示を出す。
戦闘服の連中には、事前に行きと帰りで乗り物が違うと言い渡しておいた。彼らは何の疑問も無くトラックに乗り込む。バンとは違い、窓も無く。外の景色すら見えない荷台に。
死体ごと、彼らの積み込みが終わると、トラックの運転手が運転席からクアーリ達の元に走ってくる。帽子を取ると、毛髪の無い灰色の肌が見えた。
「お疲れさん。おかげでこっちは大量だよ」
「お疲れ様です」
八木はすでに、その場に居なかったので、変わりにクアーリが対応した。
「まさか、異人種排斥主義者を集め出したと思ったら、そのまま丸ごとこっちに引き渡すなんてな」
「今回は人手が必要でしたので、止む無く使いました。まぁ、どうせ使うんなら、処分される人間の方が良いと、うちのアルファの発案で」
「仲間として引き込んで、信頼させて、最後は皆殺しとはね。恐ろしいね、そっちのアルファは…」
そのグールも八木たちの仲間だった。もっとも、所属するパックス(群れ)が違い、彼は人間専門に逸脱者を追う。
「あの子供は?」
「あの子は対象外です」
グールの言ったそばには、彼と同種の女の子が立っており、その傍らでアンジェリカが、城壁のように立っている。
「わざわざ調べたの?俺なら有無を言わさず、皆殺しなんだけど?」
「気になると執拗に追い立てるんですよ。うちのパックアルファ(群れの長)は」
「な~んか大変そうだね~。まぁ手柄分けてもらったから、俺はいいけど」
「これを貸の一つとして、少しお願いが」
「何?」
「近々、スペンサー興への接触を行いたいんですが、生憎私達にコネクションが無くて」
スペンサー興。没落したとはいえ、グールの社会ではかなりの地位を持っている。処分を行うとしたら、かなりの大物となる。
「確かにうちのアルファは、コネはあるだろうけど…って。お宅のアルファ、そこまで読んでうちに引き渡したの?」
「私にもわかりかねます」
クアーリはそう断った。グールはそれ以上問わず、よろしく言っておくと言って、トラックに乗り込む。トラックが何処に向かうのかは、クアーリ達も知らない。ただし、戦闘服の男たちの死体が決して見つかることは無いという事は察しがついた。
「さて」
クアーリはアンジェリカの方を向くと、おやと目を見開いた。先ほどまで無言だった妹が、ハンナの前でしゃがみ込み、何かを話している。アンジェリカが自分以外の人間と話すところを見るのは、クアーリも久しぶりだった。
「すぐにあなたには、新しい家と名前が与えられる」
アンジェリカは語りかける。対するハンナの目は見開かれているが、何も見ていない。
「最初は受け入れられないかもしれない。今夜の事も、新しい名前も。でも、あなたは何時か受け入れる事になる。自分がどうして、生き残ったのか、どうして家族は殺されたのか。それを受け入れられないのなら、あなたは私達を恨んでもいい。逸脱を犯さない限り、あなたの人生は、あなたの物なの」
ハンナに反応は無い。だが、聞こえている事はアンジェリカにはわかっている。
「『私達はあなた達を傷つけない。あなた達も私達を傷つけない』。これはあなたと私が守らなければならないルール。あなたが、逸脱を犯さぬよう見張るのが私達の仕事なら、私達もあなたに同じ権利を貸す義務がある」
アンジェリカはハンナを見て言い放つ。
「私もまた逸脱を犯すかもしれない。その時はどうか、あなたの手で、裁きを」
レインコートの下はグールの血で、酷く汚れている。
<10>
社会には様々な不文律が存在する。社会を円滑に活動させる為の不可視にして、秩序として存在する、暗黙のルール。
人間は異人種を傷つけない。異人種も人間を傷つけない。
これが破られることは、この2つの存在の調和が脅かされるという事。しかしながら、種族間戦争などの手段でどちらかの種族を平伏させる事は、種族の融合を達成しつつあるこの社会では、もはや不可能であった。
「待った?」
「いえ、今来た所」
何故なら、社会はすでに人間と異人種、両方を組み込んでしまったからだ。どちらか一方を排斥すれば、社会は正常に機能しなくなるほどに。だから、対立戦争などできない。
そして、異人種が社会を必要としているように、人間もまた異人種を必要とする事態も存在する。
「そういえば、なんで女優にならなかったの?」
「何よ。いきなり」
「映画が好きなんだろ?憧れなかったのかなって」
「映画が好きな女は、女優になりたがらなきゃならないの?」
「映画が好きな男は、一度は監督になる事を夢見るんだよ」
異人種が持つ、人間が持ちえない能力は社会の更なる発展を助けたのだ。だからこそ社会は異人種を、取り込むに至った。
「バンパイアは鏡にも、カメラにも写らないのよ」
「なら舞台女優でいいじゃない」
「舞台女優でも、パンフレットに写真を載せないと」
「それなら肖像画でいい」
異人種がもたらした発展への功績は、人間が彼らを見る眼を変えた。排斥すべき存在は、恩恵をもたらす功労者にもなり得た。
「どうして女優にこだわるのよ」
「前々から、君は女優に向いていると思ってた。美人だし華があると思う」
「お世辞でも嬉しい」
「それと、女優になった君の隣を歩いて、世間の羨望と嫉妬を一身に浴びてみたい」
「おかしなことを言うわね」
こうして、異人種と人間。両方を内蔵する社会が出来上がった。当然ながら、出来上がるまでの道のりは平坦ではなく、様々な苦悩や犠牲と、長い時間が必要になった。そして、時間はこれからも必要になる。この社会は、完成したとは言えない。
「ねぇ。あなた、ちょっとコロンつけ過ぎじゃない?」
「いや…実を言うと、準備してる時にコロン床にぶちまけちゃって。香りがきついのはそのせい」
「そう言えば、足元の方が匂いが強い」
「コロンの水たまりを踏んできたからね」
社会を維持するための、不文律を破る者は今も存在する。それは人間の場合もあれば、異人種の場合もある。しかしいずれにしろ、種族間戦争を忌避する社会ならば、これらの者に対し、表立った攻撃や非難は出来ない。種族の分断は、同時に社会の機能停止すら巻き起こすのだから。
「でもよく気が付いたね」
「バンパイアは鼻が効くのよ」
よって、それらの事件は社会の機能保持の為にも、秘密裏に処理されなければならない。社会は、事件があった事にすら気づいてはならない。人間と異人種は共存共栄可能な存在であると思い込まねばならない。不文律は守られていると、信じなければならない。
故に監督者が必要となる。それには名前は要らない。存在を保証する者も必要ない。ただ、必要となる事を成し遂げる力を持つ者を、多く社会に配置し、より良い隣人として振る舞えさせておけばそれでいい。
「君の鼻にはいつも難儀しているよ」
「浮気は出来ないでしょ?」
「確かに」
八木は彼女を抱き寄せる。彼女の口元からは、かすかにだが血のにおいがする。
「映画が、はじまっちゃう」
「少しだけ」
口にした物が売血ならば、問題は無い。
「行こうか」
八木が彼女を離すと、二人は映画館に向かって歩き出した。
良き隣人である事が絶対の条件である。社会に事件を秘匿にし、逸脱者に自身を秘匿とさせるのであれば、隣人として近づき、調査、分析、判断を秘密裏に行うのが最も望ましい。柵の中に牧羊犬を放つのではなく、柵の中の住人に監視させる。
その者が潔白であるのならば、隣人として振る舞うだけでよい。柵に従う者との取引は継続される。
その者が逸脱である場合、牙を剥かなくてはならない。柵を破壊する者との取引は決して成立し得ない。
監視者は、良き隣人であれ。恐るべき異形であれ。
「君はやっぱり女優に向いているよ」
尋問し、強要する。
そして、必要ならば、罰を与える。
<了>
『こんなクサレ外道共、死んでしまえ』って人向け、登場人物とかの説明書
八木:平和を愛し、平和を大切にする、平和主義者。制作者の周りで平和主義を説く人間は、大外平和が乱されると、暴力も辞さない方向で動くので大変困っています。イメージとしては社会主義国家の秘密警察。優しさと冷徹さを、好きな時に出し入れできる便利な人としてみました。つまり半分優しさの人間バファリン。頭の痛い問題を解決します。尋問と脅しで。名前の八木は、タイトルの山羊と被らせていますが、特に意味はありません。毎回、登場人物の名前は書きながら適当に考えます。山羊なので八木です。
アンジェリカ:僕の考えた最強の妹キャラ。お兄ちゃんっ子で、人見知りだけど、子供は大好き。何時もは天然で何をされても気が付かないんだけど、お兄ちゃんのピンチにはマジックアームで助けちゃうよ。特殊性癖向けに四肢切断と、どM属性を完備。
完全無欠の萌えキャラのはずが、どうしてこうなった?
クアーリ:アンジェリカのお兄ちゃんというのが彼のアイデンティティ。アンジェリカをスタンドと捉えれば、一応彼が本体という事になる。そんな間柄。作中、描写する隙間が無かったので入れなかったが、イカれたシスコン野郎です。
ブックマン:八木の周りを固めるキャラクターとして、アンジェリカ&クアーリ兄弟を作りましたが、もう一つ癖のある奴をという事で適当に制作。演出で誤魔化したつもりだが、軍人で早撃ちが出来て、多重人格とか、まんまリボルバー○セロットです。唯一のオリジナル要素は、一々人格の鍵になる本の冒頭を読みあげなければいけない所。オセ○ット下位互換です。他にも人格の設定は作ったけど、挟み込む余地がありませんでした。
グール一家:被害者兼加害者。いくら架空の生き物とはいえ、アンリが襲われる件は製作者自身も胸糞が悪く、多分、上の連中が嫌われる一番の要素だと思います。作中、いくつか描写しましたが、お父さんは滅茶苦茶つよいです。長男は戦った経験がないので弱いです。長女は、ほとんどのエピソード削ったので、別に登場させる必要なかったと思います。
トラックのグール:八木達は別に異人種を目の敵にしているわけじゃない事を示すために登場。彼自身は八木の仕事を何とも思ってないですし、八木達も殺されるレイシストの事なんてどうでもいいです。
戦闘服の人たち:こういうテンプレ的な悪役は書いていて楽しいです。使い捨てできるのでラクチンです。
タイトル『山羊は狼と取引しない』について:元々、吸血鬼ハンター的な話を作ろうと、あれこれ考えているうちに、このフレーズが思いついて、ババッと書いてみました。個人的には厨2心を適度に刺激し、口にしても恥ずかしくない良いタイトルだと思う。とは言え、このフレーズの意味自体、製作者は特に考えていない。違いすぎる者同士ではし合いは出来ないぐらいのニュアンスで捉えています。だからこそ、拉致、拷問、尋問、脅し、謀殺なんて手段が用いられるというのが、裏の意味。
世界観について:先にストーリーが出来上がっていたので、それを補完する形で世界観を作りました。取りあえず戦争はないし、目立った差別は無いけども、力の差からくる問題は排除しきれていない感じ。
ジェントルマンズ・アグリーメントについて:八木達の行動動機として「暗黙のルール」の死守がある。明文化されていないので、世間は知らないし、公的な組織でもない。でも事件の一つや二つはもみ消せるそんな秘密結社をイメージ。私は組織名を大体、英語単語にする癖がありますが、今回不文律を辞書で調べても、該当する単語が無かったのでほぼ同じ意味のこの言葉を使いました。
人間について:現実の人間とほぼ変わらない。気まぐれで、だらしなく、意味のある人生の為に、まったく無意味な事をする奇妙な生き物。制作者もこれに属しています。